タイトル
空界
四国八十八ヶ所歩き遍路の記憶
INDEX版
第5章
結願
41日目(計測を忘れていた)
2003年6月18日(水)
札所 65番 由霊山 三角寺
ろんどん荘を雨の中出発。三角寺に向かう。20kmあまりの行程。三角寺は思った以上に大変な山の中にあった。登り切った所にお寺はあった。そこから民宿岡田までは、山の中の細い県道を登ったり下ったりした。360mの三角寺から100mの標高まで下り、そこから200m290mと登った。途中峠にお接待所があり大変助かった。夏みかんとお菓子がおいてあった。水分を用意していなかったので、前の会社に行き、お水を分けてもらうようお願いしたら、親切にも冷たいお茶をだして下さった。お接待所にはトイレも完備していた。前の会社がボランティアで用意したらしい。お礼に事務の女性を撮った。広島の大手町に住んでいたらしい。下山して番外の常福寺に行った。雲辺寺の登山道を聞く目的もあった。私は、結局、番外ではこのお寺のみ納経した。お寺ではお茶のお接待を受けた。納経の300円も歩き遍路さんからは頂かないとのことだった。ここが標高の底で、ここからまた登って行かなくてはならない。どんどん登り、トンネルを過ぎた所に、コンビニとレストランがあった。ここで遅い昼食をとった。明日の山での食料を買い込んだ。雨の中、久しぶりに温かいうどんを食べた。結構辛い1日であった。岡田には15時30分ころ着いた。この宿しかこの近辺はなく、3日前に予約しないと泊まれないことがあると聞いていたので、早めに申し込んでおいた。いっぱいのお客だった。掲示板があったので、大川さん柴田さん波多野さんにメッセ−ジを入れておいた。柴田さんは明日着くらしい。天皇と昨日の若者は、昨日宿泊して、今朝登って行ったらしい。気さくなご主人で、明日の難関雲辺寺について、くわしくアドバイスして下さった。広島で被爆したらしい。被爆手帖を持っているとのこと。
宿泊地 民宿岡田 〒799-52 徳島県三好郡池田町佐野 TEL 0883−74−1001
42日目 73363(二日分)歩
2003年6月19日(木)
札所 66番 巨鼇山 雲辺寺 67番 小松尾山 大興寺
出発前に岡田のご主人の記念写真を撮った。道は大したことはないといいながら、きつい道のりとも言っている。実際に登っているので実感として判るのだろう。恐れさせずに、気を抜かさない配慮が読みとれる。朝7時出発。いよいよ最後の難関雲辺寺を目指す。結局、いろいろ道については、検討したが最短距離を登ることにした。車道もある別の車道もある。しかし、がんばったら2時間で登れるという。930mを目指す。民宿の標高からすると残り標高差600mくらい。尾根に上がる400mを辛抱すれば後は、車道できつくはないと励ましてくれた。横峰寺の下りを覚悟して行った。宿を出てしばらく街中を歩き、看板に従って左折すると、一気に急勾配の遍路道が表れた。先発隊は30分ほど前に出ている。3組4名。高速道路の下をくぐり、山肌を登って行く。上には目標の尾根が見えている。あそこまで行けば楽になると励まして行く。今までで一番辛い道のりかもしれない、勾配がかなりある。最短距離を行くのだから仕方がない。孝太郎君はしばらくして見えなくなった。1時間余り苦行は続いた。先発の人たちを追い越していく。いつの間にか足腰は強くなっているのだろう。焼山寺と比べてします。あのときは、無我夢中で歩いた。今回は、かなり冷静に全体を見ながら歩いている。親父さんもどんどん休みなく登ってくる。少し立ち止まると姿が見えてくる。台風が近づいていたが、小雨程度であった。雲辺寺の五百羅漢を撮る。リアルな実物大の像が林の中にある姿は、荘厳でもあり不気味でもあった。今度は、山の尾根伝いに下って行く。結構この道の方が辛かった。ぬかるんだ道と階段を駈け下る。滑るので、横峰寺で教えてもらった方法で歩く。歩幅を小さくして、前傾姿勢のまま小走りに下る。一番早く安全である。膝に来そうだが、体重移動を早くするので、片足にまとものかかってこない。今度は、海抜0mをめざすので時間は2時間以上かかった。やっと車道に出た。道ばたに老人が待ちかまえて手招きをした。何かと思いながら行ってみると、お接待にコ−ヒ−を飲んで行けという。毎日待っているらしい。「みんな喉をからからにして降りてくる。山の道には、水があるがお遍路さんは見つけられない。ここからも自販機しかないので、ここで待ってお接待しているのだ。」と言って2本目を勧めてくれた。後から来るから、その人にあげて下さい。と言い写真を撮って出発した。写真は送らなくてもいいというので、納め札を渡した。ここからも、下りは続いた。なかなかお寺に着かない。道に迷ったのかと思った頃やっと着いた。裏手から回ったらしい。ここで、岡田でもらったおにぎりを食べた。しばらく休憩して出発したが、台風の影響はほとんどなかった。寺を出てしばらく歩くと、親父さんが向かって来る。道を間違って大回りをしたらしい。疲労しきってしまい、いつもの柔和な顔が姿を消していた。最近、車に乗る癖がついてしまい。完全に歩くことがなかったので、なおさらつらさが身にしみる。台風の影響かもしれないが、太陽の日差しが強く道路の照り返しが厳しい。ここから観音寺の街まで8km歩くのは、かなり苦痛であった。我々も道に迷い遠回りをする羽目になった。途中、ものすごい風が吹き出しポンチョを装着する間に、孝太郎君とは離ればなれになり迷いながら宿を目指した。結局、途中で合流して聞きながら宿にたどり着いた。途中、この旅ではじめて、車のお接待に遭遇した。多分疲れ果てた姿が、後ろ姿にあらわれていたのだろう。丁重にお断りした。濡れネズミなので洗濯をしたが、乾燥機がないので、近所のコインランドリ−へ連れていってもらうことにした。家族でやっている宿で、なかなか締まり屋の旅館。近所の自販機に買い物に行っても、ないものが多く。伊予のけちとはこのことかと思った。親父さんは、結局相当遅れて宿に着いた。
宿泊地 藤川旅館 〒768 観音寺市架橋通り3082−11 TEL 0875−25−3548
43日目 36282歩
2003年6月20日(金)
札所 68番 琴弾山 神恵院 69番 七宝山 観音寺 70番 七宝山 本山寺 71番 剣五山 弥谷寺
72番 我拝師山 曼茶羅寺 73番 我拝師山 出釈迦寺
朝宿代を払おうとしたら、びっくりするほど安かった。最低料金だ。これなら文句は言えないなと思った。唯のけちではなく、仕方ないのだ。朝一番でお店に入りオロナミンCを頼んだ。お金を払おうとすると、年輩の女性主人が「お接待します。」と言ってお金を受け取りませんでした。昨日のこの町のしまり具合からして以外に思いました。シビアな面とお遍路さんに対するご接待は別なのかもしれません。ありがたくお礼を言って先を急ぎました。観音寺は母から聞く限り、戦争中父親が特攻隊に志願してこの地で船舶の教育を受けたそうです。特にお参りをして欲しいと言われていました。広々とした境内に、68番69番がありました。朝も早いので、お遍路さんは他に2名ぐらいしかいませんでした。小雨の中お参りをして写真を撮ってもらいました。1人になりたかったので、トイレに行くから先に行ってくれと孝太郎君にいいとどまりました。父親のことは言っていたので、察しがついたのでしょう、行ってしまいました。しばらく1人でボ−としていましたが、もう1人のお遍路さんの男性と話しをしました。もう1年1以上回っているのだそうです。好きな場所には、数日滞在しているので回るのに時間がかかるそうです。この観音寺は気に入っているので3日目だそうです。今日は雨が降るので図書館に行くと言っていた。お寺を出て次の札所を目指しました。川の側の道を歩き始めましたが、何故か涙が止まりませんでした。なるべく人のいない道を通りながら向かいました。70番札所の本山寺は立派なお寺でした。格式が高いのでしょう。工事中を避けて納経所に行くと、ライカですねという話しからしばらく話し込んでしまいました。チベット方面に行ったことがあるようで、ライカを持って行ったそうです。話しが長くなり、山門近くにもどると孝太郎君はすでに出発していました。入り口には、托鉢をしているお遍路さんがいました。風体から察すると一生をかけて回るお遍路さんのようでした。国道をひたすら歩くことになりました。途中、のどが渇いたのでス−パ−の前の店で、すり氷を頼んで食べていると孝太郎君が追いついてきました。番外に行ったようです。待っていたがなかんか納経所から出てこないので先に出発したそうです。ここで少し休憩をしてから出発。お接待に二重焼きを頂きました。暑い道をひたすら歩きました。孝太郎君は先に行ってしまいました。道ばたで、おばあさんにお接待と言って200円頂いた。集会所の入り口のベンチでパンと二重焼きを食べて、再び出発。坂を登って行くとどうも道を間違えたようなので、聞くと大きく外れていた。標識を見落とした。標識のある場所は、相当前に通過した記憶がある。仕方ないので、目標のお寺も方向を教えてもらい進む。山の中腹にお寺が見える。なかなか大変そうだ。麓にたどり着き、いよいよ登山。かなりの急勾配を登って行く。入り口から階段が600段近くあるらしい。息を切らせて登る。遍路道は、林の中にあるので少しは涼しいが蛇がいる。2m近いのもいた。気持ちが悪いので、杖を前にだして急いで上がった。階段の部分は、木陰でひんやりしているはずだが、登る方は大汗をかいて行く。途中の茶屋に孝太郎君がいた。時間からして納経は済ませているのだろうと思い行った。本堂に登ると、風が心地よかった。お遍路さんは誰もいない。30分くらい休憩をして階段を下って行った。孝太郎君のいた茶屋にはお客は誰もいなかったが、飲み物を頼み今後の道筋を聞いた。竹藪の中を行くことになる。蛇がいることを覚悟しなくてはならない。そうしている間に、孝太郎君が下って来た。この茶屋で昼食をとって2時間くらい話しをしていたらしい。一緒に遍路の竹藪を通過することにした。30分くらいと聞いたが、実際には15分くらいで無事通過。蛇に出会うこともなかった。ここから、アスファルトの道をだらだらと歩き、73番札所に向かう。途中で宿を見つけたので、孝太郎君は荷物を預けて来た。私は、カメラなどがあるのでそのまま登った。やはり標高差はあった。柴田さんから電話が入った。だいぶ追いついてきたらしい。波多野さんからも電話があった。53番まで行ったが変な人につきまとわれて久百々までもどったとのこと。久百々の女将さんに面倒を見てもらったらしい。大川さんも体調を崩し結局、久百々に1週間くらい滞在したらしい。その後の消息は分からない。もうどんなに急いでも我々には追いつくことは出来ない。がんばるよう伝えた。孝太郎君は、寺から遙か上に見える奥の院に行くと言う。私は無理なので宿にもどる。結局20分で登ったらしい。宿の隣が72番札所だったので、予定を変更してお参りを済ませた。宿はきれいでお風呂も、久々に広々としていた。お客は多かった。車で回る人たちがいた。歩き遍路は、我々と湯ノ谷温泉で一緒だった女性。
宿泊地 民宿 門先屋 〒765 善通寺市吉原町138−4 TEL 0877−62−2337
44日目 24380歩
2003年6月21日(土)
札所 74番 医王山 甲山寺 75番 五岳山 善通寺(真言宗善通寺派総本山) 76番 鶏足山 金倉寺
77番 桑多山 道隆寺 78番 仏光山 郷照寺
今日は一番暑いと覚悟して出発。1時間弱で74番に到着。到着の時に同宿の女性が出発して行った。足が遅いので早めに出発している。善通寺は、さすがに規模が違っていた。大きく貫禄があった。76番と77番の間のお遍路道に、善根宿まんだらがあった。最初目に入ったが行きすぎた。思い直してもどると、中からお坊さんのような人が出てきた。「逆打ちですか?」と聞かれた。「いや気になったのでもどって来ました。」と言う会話から案内されるままに部屋に入った。無料宿泊所とのこと。この世界では有名らしい。私は予備知識がないので知らなかった。話しの会う人で、コ−ヒ−をごちそうになりなが話した。デザイナ−が本職で、お遍路さんの絵を描いているとのこと。絵はがきになった作品も見せてもらいました。1時間ほど話しをして出発。バナナも頂きました。旧道をひたすら歩いて77番札所に着くと岸本の親父さんとすでに結願した九州の人が来ていました。孝太郎君は電話すると、かなり遅れていてまんだらに着いたばかり。とのこと。急いで追いつくという返事がありました。しばらくすると孝太郎君も追いついて来ました。私は、1人で出発78番に向かいました。またまた、道を間違えしまい通りかかった車の人に教えてもらわなかったとんでもない方向に行ってました。町中を歩くときは気をつけなくてはいけないことを痛感。お城の見える丸亀の茶店で食事をした。河尻社長からも旅の経過を問う電話がありました。坂出はゼクシ−で撮影に来た場所。懐かしく道筋を歩いた。しかし、78番までは遠くに感じた。ものすごく多くの人がお寺にいてしばらく待ったがいっこうに静かにならないので、あきらめてお参りした。ここから30分くらい歩いた所に宿があった。古い街並みが続き旧街道の面影を色濃く残していた。お寺からみんなで一緒に歩いていたが、親父さんが遅れ気味だったが突然いなくなったので、大騒ぎをして探したらちゃっかりと宿に上がっていた。私たちが見落としてしまったのだ。古い宿で、増築増築でお客をさばいた時代があった事を想像ささられる。我々4名のみの宿泊。
宿泊地 松竹旅館 〒762 坂出市八幡4−7−5 TEL 0877−46−2562
45日目 16048歩
2003年6月22日(日) 曇り
札所 79番 金華山 天皇寺高照院 80番 白牛山 国分寺
すでに結願している井手サンをJR坂出駅に見送りに行き79番に向かうために出発。雨である。宿を出ると旧街道と標識があるが公園であった。公園を突っ切って街道に入ると、いきなりお接待にあった。老夫婦が待ちかねていたように手作りのお守りを下さった。貝を布で覆う気持ちのこもったお守りだった。一緒に記念写真を撮った。井手さんは最後のご接待だと大いに喜んでいた。朝から気持ちがいい。駅の喫茶店で時間を過ごして見送った。雨の中を出発。岸本親子は先に出発。商店街を抜けて札所に向かった。ご多分に漏れず、駅前の商店街は寂れている。サティばかりが大きく見えた。商店街の端にかかったとき、「お遍路さん」と呼ぶ声がしたので、振り返ると女性が駆けつけてきて「私は行けないので、代わりにお参りして」と100円を握らせてくれた。「確かに行きますから」と受け取った。蒸し暑い道を行くと79番札所についた。その前に名水の出るところがあるからと聞いていたがお店が幅を利かせていたので立ち寄るのはやめた。他のひともそうだった。後でテレビを見ると、トコロテンの美味しい店だった。札所に着くとみんないた。以前宿が一緒になり、写真を撮らせてもらった人に会った。最初、声をかけられたが一瞬判らなかった。まさか会うとは思いもしなかったので、びっくりした。。彼は休みごとに分けて回っているらしい。孝太郎君も「だれですか?」と聞いてきた。35番36番あたりで一緒だった人。というとやっと判った。小雨の中を出発。蒸し暑い。出発した頃に比べ遙かに暑い。途中喫茶店に入り昼食を孝太郎君ととる。彼もずいぶんと変わった。私はワッフル。1時間近く休んで、蒸し風呂のような外に出る。国道には60歳の女性が歩いていた。相当疲れて様子で、「先に行って下さい。」と言った。小さな丘を越えて行くと80番札所に着いた。大きな寺。国分寺だ。池には亀がたくさんいた。今日はこれで終了。のんびりと境内ですごして宿に向かう。あの女性はだいじょうぶだろうか。明日の白峰寺根香寺は大変と聞いている。せと国民旅館は、少し遍路道から外れていた。何とかたどり着いた、年輩の夫婦がいた。「ここは、肉・魚のない精進料理だけれどもいいかね?安くしとくから。」と言われ「いいですよ。」と答えてしまった。オレンジの照明がされた風呂に不思議な気持ちで入り、夕食に呼ばれて食堂に行って唖然としてしまった。食事が俗に言う朝食並だった。他に何かメインデッシュがあるだろうとしばらく待ったが結局出なかった。仕方ないので、聞いて近くのコンビニに行き不足の食糧を買い込んで部屋で食べた。明日の山登りで、頂上には何も無いことを聞いていたので昼食の確保もあった。宮本武蔵をやっていたので下のロビ−でおばあちゃんと見た。
宿泊地 せと国民旅館 〒769-01 綾歌郡国分寺町国分356 TEL 0878−74−0353
46日目 30125歩
2003年6月23日(月)
札所 81番 綾松山 白峰寺 82番 青峰山 根香寺
思った通り朝食は夕食と同じだった。年寄りにはちょうどいい食事なのだろう。もう1人お遍路さんがいた。早く帰りたいので急いで旅していると言っていた。やはり相当辛い道だった急勾配をひたすら階段を登って行く。尾根に登るまでの時間が辛かった。途中車道に出て少し楽になった。途中で再び遍路道になった。お寺までの1km位が急勾配を下る。今度はここを登って行かなくてはならないのかと思うと気が重い。気分のゆるみのあったのだろう。お寺は立派であった。次の根香寺へ行くのも、ひとつ山が違うので遍路道をひたすら歩く。平坦な部分も多く最後の急階段がなければ比較楽だ。車道にある休憩所で休み飲料水を飲み干してしまった。売店があったが、お寺に自販機があると思いから荷物になるので買わなかった。以外にも82番札所にはなかった。水も濁っていた。仕方ないので、水分なしでパンを食べる羽目になった。下りは今までで1・2を争う急勾配の遍路道。車道を通ると遠回りになるので、ショ−トカットした遍路道を小走りに下った。岸本親父さんは、転びそうになり車道を歩いたらしい。同宿だった男性は、道を間違えて遠回りばかりしていたので、途中まで一緒に行動した「が、下りになると追いついて来なかった。宿は、13時30分に着いた。町の駅のそばにあった。夜中中列車の音に悩まされた。
宿泊地 旅館百々家 〒761 高松市鬼無町藤井54−1 TEL 087−882−0874
47日目 38680歩
2003年6月24日(火)
札所 83番 神亳山 一宮寺 84番 南面山 屋島寺
25kmくらい歩いた。宿を出てから地図を見ながら昔の遍路道をたどった。曲がりくねっていてロスが多い。直線なら早く着くだろうと思いながら6km歩いた。途中でみんなバラバラになった。雨も降り出し道に迷った。遍路マ−クもない。聞きながらやっと83番札所に着いたが、すでに岸本親子今村さん(60歳の女性)もつい納経も済んでいた。別々に出発。84番札所に向かうが、なかなか道が見つからない。バイパスが出来ているので、持っている地図が役に立たない。道を聞いても要領を得ないので、思い切って会社に飛び込み聞いた。地図を見せても、よく判らないと言われた。ただこの道を真っ直ぐ行けば、高松市内に行けるからと言われたので信じて行く。1時間ほど歩くと高松市内に入り、繁華街を抜けると国道11号線に出た。途中雨が降りポンチョを来たり脱いだりが大変だった。蒸し暑さが襲いかかる。ここからは、屋島が見えてくる。5km位歩くと屋島の麓に着く。屋島は台形なので登るのが大変と聞いていた。池のそばのベンチに座りドリンクとお菓子を食べながら孝太郎君に電話をすると、今まさにその坂にチャレンジしていた。激しい息使いが聞こえてくる。長い急勾配だと言う。あと100mで到着と言っていた。私も昼食を済ませ、一気に頂上を目指した。標高差300mを登る。道路の傾斜は21度と明記している。すぐに息が上がった。階段はないらしい。上から降りてくる女性に「まだありますか」と聞くと今3分の1くらいかなと言われた。私は30分であがります。と言われた。40分はかかるな思いつつがんばる。道は、歩く安くしてあった。滑らないように舗装は加工されている。しかし、直線でひたすら登って行く道も苦しいものがある。時々蛇行しているが、ほとんどまっすぐ。あと何百メ−タ−が励みになる。階段もいくつかあったが、さほど影響なく登る。さすがに一度途中で休憩。若い男性が、汗もかかずに平然と登って行く。荷物を持ってないとはいえ日頃の訓練のたまものだと感じる。札所には、孝太郎君が納経を済ませて休憩していた。しばらくすると親父さんが着いた。「私にはこの坂は無理なのでケ−ブルカ−で登って来た」と言った。息子は、不機嫌だったが、ここに来て文句は言わなかった。今村さんは、それからしばらくたって、歩いて登って来た。達成感は大きい。広々とした境内でゆっくり休み、休憩所に行き孝太郎君と昼食をとりとコ−ヒ−を飲んだ。親父さんはケ−ブルで降りるのだろう話しながら時間を過ごし、境内にもどったがすでにみんないなかった。急いで急勾配を下り宿を目指した。下りの途中、年輩の男性が、お接待にと干し梅を下さった。宿は、ケ−ブルカ−の駅の前にあった。こぎれいな旅館だった。帰りモ−ドに入っているので、妙な割り切りが目立つようになって来た。今村さんも同じ宿だった。部屋の前に大きな蜘蛛がいたので、宿の人に頼んでどけてもらった。
宿泊地 ささや旅館 〒761-01 高松市屋島中町ケ−ブル駅前 TEL 0878−41−9533
48日目 29092歩
2003年6月25日(水) 晴れ
札所 85番 五剣山 八栗寺 86番 補陀洛山 志度寺 87番 補陀洛山 長尾寺
身体のだるい状況は続く。85番札所は、思った以上に高い場所にあった。宿を出て、町中を30分ほど歩くと、山に登り始める。標高差は250mくらい。急勾配である。途中、ケ−ブルカ−の駅があった。ここで水分を準備して出発した。やはり21度の急勾配の舗装道路を一気に登って行く。雨で濡れているので滑る。先に出発した今村女史に札所手前で追いつく。境内は、落ち着いたたたずまいだった。本堂と大師堂が少し離れていた。タイミングがあい、今村女史と同時期にお参りすることになった。すする泣きが聞こえる。重たい思いを持っての旅だろうと察するが聞くことは出来ない。出来るだけ邪魔をしないように、自分なりのお参りを済ませた。何となくみんな感傷的になっているのを感じる。次の札所に向かう。今度は車道を通って行くことになる。これもかなりの急斜面をしばらく下って行く。途中、私は休憩をしたので孝太郎君とも別れみんなにも抜かれてしまう。二股の道があり迷っていると今村女史が違う道を行っているので、呼び返したが結局この道が、遍路道と判明。国道まで一緒に歩いた。国道のそばに旧国道がありその道を、ひたすら歩くと昔の街並み繁華街があった。その先に札所はあった。やたらと蚊の多いお寺。しばらく休憩をした後、最後の長尾寺を目指して出発。暑いので孝太郎君と喫茶店にはいり、アイスコ−ヒ−を飲む。昼食には早い。お客さんの女性話しをした。お遍路が入ると、ちょっと雰囲気が変わるのが判る。話しをしたいようである。しばらく話しをして出ようとすると、その方がお接待だと言って代金を支払っていることを知り、お礼をいい納め札を渡す。そうすると逆に「錦札・金札・銀札」を下さるという。私は頂いたことがあるので、孝太郎君に3枚を譲り、私は錦・銀の札2枚を頂いた。みんなと記念写真をとり、焼け付くような国道を進んだ。途中旧お遍路道があったので、その道を進んだ。狭い田んぼの間を進むような道だった。このあたりは、ずっと登りである。遍路道の方が、緩やかな登りになっていて車道を歩くよりかは多少楽。なかなか着かない。途中、宿の手間の喫茶店で昼食をとった。ランチが大変多く食べきれない、食後のコ−ヒ−もついている。親父さんが抜いて行く。「親父歩いている。」と嬉しそうだった。30分後満腹で再出発。しばらく行くと、コンビニから親父さんが出てきた。かなりの千鳥足。看板を見ると「酒」と書いてある。孝太郎君の顔がくもった。「親父飲んだだろう」無言。そのまま追い抜き87番札所に着いた。白峰寺で道に迷っていた男性と会った。帰りたい一心もあり、先を急いだ人だ。88番札所を終えて帰るところだった。道案内を感謝された。宿は札所の目の前。般若心経を読む親父さんを撮ろうと近づくと「勘弁してください。」とはじめて親父さんに言われた。「はい」と引き下がったが、数秒後「いいですよ」と言って撮らせてくれた。涙でぐしゃぐしゃになっていた。「藤原さん、ありがとうお世話になりました。明日は、お友達が一緒に歩くので、今日が最後ですね。」と顔をぼろぼろに崩しながら言った。「こちらこそ、二人に励まされてここまで来れたんです。私1人では、ここまで来れたか判りません。ありがとう。」という言葉が自然に出ました。宿に着くと、宿の女将には「親父が、別勘定で酒を頼んでもださないで下さい。」と頼んでいる。ショ−ケンも泊まったと自慢していた。何軒かそんな話しを聞いた。ジュ−スはお接待価格で100円。この夜10時過ぎに福山から香山さんたち広島からは杉川さんが、明日1日体験同行の為宿に着いた。旬遊の創刊号も持参してきてくれた。最後の難関760に挑戦しなくてはならない。本人たちは、それほどの自覚はないだろうと察する。
宿泊所 あずまや旅館 〒769-23 大川郡長尾町西 TEL 0879−52−2415
49日目 26774歩(全行程合計歩数 1700243歩)
2003年6月26日(木)
札所 88番 医王山 大窪寺
前日までは、雨の後なので遍路道(崖を登るところあり)は避けて、4km位余分に歩いても、車道を行こうということにしていた。しかし、朝食の時、天候は晴れなので、若い連中は苦難の道を行くと言いだした。今村女史も親父さんも行くと言いだした。女将さんも、きついけれど思い出にもなるしと言われて、遍路道を行くことにした。同行の二人も行くと言っている。多分、経験がないので簡単に思っているようだ。黄身の2個入った卵を願掛けにだしてくれた」。オロナミンCも出た。万全の体勢である。みんなで記念写真を撮って出発。香山さんの同行人は、車で先回りをする。5km程平地を歩く。まだみんな一緒。この日は、他に2名の若者もいた。しばらく歩くと、親父さんが遅れだした。二人は、何とかついてきている。孝太郎君は、旧道に入ったがまもなく合流。ダムのところで、別れた、我々は道の駅に行き、水分の準備とトイレタイム。親父さんは、相変わらず休まず抜いていった。ここからが山岳地帯に入る。杉川さんは、この時点で少し不安が出ていた。いよいよ遍路道に入る、しばらくは軽い勾配の車道を歩いた。いきなり30cm程の本当の遍路道に入った。急勾配のあぜ道のような感じである。その後は、階段がと急勾配の道が谷間を登って行く。一度谷に降りて、再び登り。時々車道がある。林道であろう。遍路道は、ショ−トカットの状態で、最短距離を行く標高差は400mくらいある。杉川さんが相当遅れた。車道にするか遍路道にするかを決めなくてはいけないので、香山さんと杉川さんの到着を待った。しばらくすると、疲れ果てた杉川さんが到着。3km弱の車道にするか1.8kmの遍路道にするかを聞いた。女体山の頂上に行く遍路道と避けて88番に行く車道である。岩場が出てこないので、多分この1.8kmの中に含まれているのだろう。結論は、今村女史も遍路道を選んだ事もあり遍路道を行くことにした。出発してしばらくして、先に出発した今村女史親父さんを抜いた。険しい階段道を登ると、岩場に出た。どこに道があるのだろうかというような岩場。少し階段のようなものがあるが、まず足場が悪い。露出した木の根っこを持ち、打ち込まれた鉄筋をつかみ何とか登って行く。ロ−プもしばってあった。距離は数百メ−タ−だと思うが、どこまでも続く錯覚に襲われる。頂上には、休憩所があった。杉川さん以外は、何とか到着した。親父さんは、ガソリンを入れるんだと、ワンカップを開けて、一口飲んだ。杉川さんが遭難した場合の事を冗談で話しをしていたら、あがって来た。大した根性である。マイぺ−スにしたのがよかったみたい。50日近くも歩いていると、自然と脚力がついている。香山さんは若さでついて来ている。孝太郎君に電話をすると、奥の院いてまもなく本堂につくらしい。とにかく急な階段を下るだけのようだ。下りの要領に合わせて、小橋に駈け下る。標高差は300mくらいはあるだろう。奥の院は、標識を見落として行けなく、いきなり本堂についた。88番札所は、ごった返していた。49日間歩いた感傷にふける余裕もない。納経。結願証明書を発行してもらう。岸本親子の最後の写真を撮った。優しい顔になっていた。親父さんは「泣くぞ」と言っていたが、みんなも含めて淡々としていた。私自身も最後の般若心経かと思うと涙も出たが、思ったほどの感動はなかった。終わったという安堵感が強かった。みんなで、門前のうどんやさんで、ビ−ルとうどんで打ち上げをした。私は、このまま香山さんたちと福山まで一緒に車で帰る。岸本親子は、1番札所まで歩いて行きお礼参りをした後、和歌山にフェリ−で渡り高野山で最後の納経をすます。あと3日はかかるだろう。88番から1番までは41kmある。1泊2日の旅である。今夜は、88番の札所のそばに泊まる。今村女史は、87番に戻り、そこから電車に乗って帰るらしい。30番からまわりはじめたので、本当は、このまま引き続き1番から回る予定だったようだが、いったん帰るらしい。他の若者も、このまま今日は下り、1番に出来るだけ近づいて泊まるらしい。我々は、車で高松に向かう。途中温泉に立ち寄って、汗を流し着替えて出発。香山さんの同行人の配慮だった。高松の途中一宮寺の前を通過した。何日か前、道に迷った所である。あっという間に来てしまった。高松・坂出四国連絡橋を通り福山から、杉川さんと新幹線で広島へ。母親が迎えに来るというので、駅の構内で白装束に着替えて母の出迎えを受けた。高野山には、後日母親も一緒に行くことになっている。