『桜猫物語・6』



結局、小狼が香港に戻れたのは予定していた帰国日と同じ日だった。
本当はもっと早く帰りたかったのだが、仕事の後始末に思いのほか時間をとられて帰れなかったのだ。
帰国すると夜欄への報告も早々にすませて、一目散にエリオルの舘へと向かった。
さくらに会うために。
この想いを伝えるために。

「お待ちしていましたよ」
「おかえりなさい」

エリオルの舘ではエリオルの他に知世も小狼を待ち受けていた。

「大道寺。どうしてお前までここに」
「もちろん、さくらちゃん李くんをお出迎えのシーンをビデオに収めるためですわ。さあ、さくらちゃん。いらっしゃい」

知世が声をかけると扉の奥からおずおずとさくらが姿を現した。
知世の手作りらしいお洋服を着ている。
フリルとリボンのついた可愛らしい服だ。

「ただいま、さくら」
「にゃあ!」

小狼が声をかけるとその顔に満面の笑みを浮かべて胸へ飛び込んできた。
そして渾身の力をこめてぎゅ〜〜っと抱きついてくる。

「にゃぁぁ、にゃぁぁ!」

その様に小狼は心の中でひそかに安堵のため息をついた。
再会をこんなに喜んでくれるとは思わなかった。
やっぱりさくらはおれのことを好いてくれている。
おれの好きと同じ好きではないかもしれないけれどかまわない。
さくらがこの腕の中にいる。今はそれだけで充分だ
・・・・・・と。

だけど。
その安堵はすぐに大きな驚愕によって覆いつくされるのだった。

「しゃおらん」

一瞬、小狼はそれを理解する事ができなかった。
自分の名前を呼ばれた。
それはわかる。
でも、誰に呼ばれたのだろう。
エリオルの声ではない。知世の声でもない。
そもそも、エリオルも知世も自分のことを小狼とは呼ばない。
それに今の声は二人の位置から聞こえたものではない。
もっと近くから聞こえた。
もっと近く、自分の腕の中から聞こえてきた。
そこにいるのは一人しかいない。
しかし、まさか。
そんなことが。
混乱する小狼の腕の中からもう一度声が聞こえてくる。

「しゃおらん」
「さくら!?」

もう間違いない。
さくらだ。
さくらが自分の名を呼んでいるのだ。
でも、どうして。
この前まで何も喋れなかったはずなのに。

「驚きましたか」
「柊沢! これは一体、どういうことなんだ。お前、さくらに何かしたのか?」
「誤解です。僕は何もしていません。これは大道寺さんのお手柄です」
「おほほ。僭越ながらわたしがさくらちゃんに李くんのお名前を呼べるように手ほどきいたしました」
「お前が? いったいどうやって」
「コーラス部でやってる発声練習の応用ですわ。さくらちゃんはノドもお口も人と同じようでしたから。少しコツを掴めばしゃべれるようになるのではと思って試してみましたの」
「発声練習の応用って。そんなにうまくいくものなのか」
「もちろん簡単にはいきませんでしたわ。でも、さくらちゃん本当に一生懸命がんばりましたの。李くんのために。李くん、さくらちゃんを褒めてあげてくださいな」
「そ、そうか。がんばったのか。えらいぞ、さくら」

さくらが自分の名を呼んでくれている。
そのために一生懸命がんばってくれた。
あのさくらが・・・・・・。
新たな喜びに震えながらさくらを抱きしめようとした小狼だったが、そこでさくらの目に浮かんでいるものに気がついた。
さくらの目にうっすらと浮かんでいるのは・・・・・・涙だ。
再会の喜びの涙というのとは違う。
もっと別の涙だ。
それは小狼の見る前で見る見るうちに膨れ上がり、ぽろぽろと頬を流れ落ちていった。

「しゃおらん・・・・・・しゃおらん・・・・・・」
「さ、さくら!? おい、どうしたさくら。なんで泣くんだ」
「きまってますわ。李くんに会えたのが嬉しいんですわ」
「で、でも。こんなに泣くほどにか。そんなに離れていたわけじゃ」
「貴方にとってはそうかもしれません。ですが、さくらさんにとってはこれ以上ないくらいに辛い日だったんですよ」
「え・・・・・・?」

そこでエリオルから聞かされた話は小狼の胸を大いに痛ませるものだった。
小狼と別れた翌日からもう、さくらは元気をなくしてしまったそうだ。
エリオルが呼んでも知世が呼んでも返事すらしない。
小狼が出て行ったドアの前に座ってずっと帰りを待っていたという。
しまいにはご飯も食べなくなってしまい、

「にゃぁ・・・・・・にゃぁぁぁ・・・・・・」

ただ悲しげに小狼の消えたドアに向かって鳴き続ける。
これにはエリオルも知世もまいってしまった。

「そんな。どうして」
「おそらく貴方に捨てられた、そんな風に思ったんでしょうね」
「それで、さくらちゃんを元気づけるために始めたのがあの発声練習ですわ」

名前を呼べるようになればその声は小狼に届く、そうすれば必ず小狼は帰ってくる、そう言い聞かせて始めたのだという。
さくらは知世の言葉を信じて本当に一生懸命に練習した。
もちろん、はじめからうまく喋れたはずはない。

「しゃ、しゃお・・・・・・しゃおりゃん・・・・・・」
「そうそう。その調子ですわ」

何度も何度も必死になって練習し、一生懸命になることで元気も取り戻せた。
ようやく小狼の名を呼べるようになったのは小狼が帰ってくる前日のことだったそうだ。

「しゃおらん!」

そして、信じたとおりに小狼はさくらの元に帰ってきた。

「さくらちゃんが泣いてしまうのも当たり前ですわ」
「そんなことがあったのか・・・・・・」
「しゃおらん、しゃおらん!」

涙を流しながらなおも自分の名を呼び続けるさくらの姿に小狼は胸が熱くなるのを感じた。
これほどまでに自分を待ってくれたさくらに何かしてやりたい。
でも、こんな時どうすればいいのかわからない。
小狼にできたのはただ、泣きじゃくるさくらを抱きしめてあげることだけ。
何か優しい言葉をかけてあげたいけど、うまい言葉も思いつかない。

「ゴメン、さくら。本当にゴメン」

それだけしか言えない。

あぁ、本当に。自分はいったい何をやっていたのか。
後悔と慙愧の念が小狼の心を締め付ける。
ずっとさくらのことを考えていた。
考えているつもりだった。
だけど、それは自分の視点からの考えだけであって。
さくらがどう考えているのか、なにを想っているのか。
それを考えることはできなかった。
さくらにも自分を好きになってほしい、さくらの一番が自分であってほしい。
そう思っていたのに。
特別な一番の人がある日、突然目の前からいなくなったらさくらがどう思うか。
どんなに悲しむか。
さくらの視点で考えてあげることができなかった。

エリオルにも知世にもこの別離が一時のものであることは簡単に理解できただろう。
でも、人でないさくらにそれを理解しろというのは無理というものだ。
さくらは人ではない。それを承知のうえでさくらのことを好きになったはずなのに。
自分はさくらに人の都合を押し付けてしまった。
再び会えることがわかっていた自分ですらあれほどに辛い思いをしたのだ。
自分に会えない間、さくらはいったいどれだけ辛い思いをしたことだろう。

「李くん。これからどこかに行かれる時は毎日さくらちゃんに連絡してあげてくださいね」
「ああ。わかったよ」

わかってる。
いや、そんなことはわかっていた。
今回もそうするべきだとわかっていた。
それができなかったのは自分の弱さのせいだ。
さくらの声を聞いたら心が弱くなる、そう思っていたからだ。
それがさくらをこんなにも悲しませてしまった。
すべて自分の弱さのせいだ。

「しゃおりゃ・・・・・・しゃお・・・・・・りゃん」

さくらの声はもう途切れ途切れになってきている。
やはりまだ人の言葉を発することに慣れていないのだ。
それでも小狼の名を呼ぶことをやめようとしない。
そんなさくらを抱きしめながら小狼は心の裡で謝罪の言葉を繰り返す。

ごめん、さくら。本当にゴメン。
もう二度とお前にこんな悲しい思いはさせない。
もう二度と。
絶対に。

幾度も幾度も心の中で繰り返される謝罪の想い。

けれども。
その中に少しだけ、ほんの少しだけだけど異なる想いが混じっていることを小狼は自覚していた。

さくらの一番はおれだった。
さくらは柊沢よりも、大道寺よりもおれを選んでくれた。
それがうれしい。

・・・・・・と。

NEXT・・・


続きます。

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