『桜猫物語・5』



「日本、ですか」
「そうです。今のあなたには手頃な仕事でしょう」

夜蘭に呼び出された小狼に提示されたのは退魔の依頼だった。
李家とパイプのある日本のさる企業から退魔の依頼がきたという。
その企業の令嬢がなにかのあやかしに憑かれてしまった、それを退治して欲しい。
そういう依頼だった。
わざわざ外国の李家に依頼するのは内々にことをおさめたいという意味合いも含んでのことだろう。
偉を先行させて調べさせたところ、たしかに人外のモノの気配はあったもののそれほど強い力を持った相手ではないとの報告があった。
大して難しい仕事とは思えない。李家の導師の誰でも一人送れば事足りる簡単な仕事だ。
そんな仕事を小狼にあてがうのは、李家次期当主として小狼の顔を売り込みたいという夜蘭の思惑があるらしい。

「どうしました。なにか不満でもあるのですか」
「いえ。何もありません」
「では頼みましたよ」
「はい。母上」

小狼が一瞬、返事をためらったのは仕事に不安や不満を感じたからではない。
偉の報告どおりであればすぐにでもかたがつく。大した時間もかかるまい。
この時、小狼が考えていたのは他でもない。
さくらのことだ。
いかに簡単な仕事と言っても日本に行くとなれば話は別だ。
最低でも1週間は家を空けることになる。
その間、さくらをどうすべきか。
さすがに一人でほうっておくわけにはいかない。
誰か信頼できる人物に預ける必要がある。
さくらのことを理解しており、さくらを預けて問題のない人物。
そんな人物は限られている。

「それじゃあ頼んだぞ、柊沢」
「おまかせください」

少し迷ってから小狼が選んださくらの預け先はエリオルであった。
最初は知世に預けようとしたのだが、万が一魔力を伴う何かが起きた時、知世では対応ができないと思い考え直したのだ。
本音を言ってしまうとさくらをエリオルには近づけたくなかったのだが仕方がない。
さくらをエリオルに近づけたくない理由は未だに自分でもわからない。

「それじゃあ、さくら。行ってくるよ。なに、ほんのちょっとの辛抱だ。大人しくしてるんだぞ」
「にゃぁ?」

小狼の言葉におそらくは事情をよく理解できていないさくらがかすかな疑問を含んだ声でこたえる。
そんなさくらの声を背に小狼は早足でエリオルの舘を後にした。
心の奥から湧き上がってくる正体不明の不安から逃げるように・・・・・・

――――――――――――――――――――――――――――――

「くっ、なんでこんなことに・・・・・・」

悪態をつきながら小狼は逃走するあやかしの後を追う。
逃げるあやかしの脚はそれなりに早く、距離がなかなか縮まらない。
こんなはずではなかった。
偉の報告通り簡単に済む仕事のはずだった。
それなのに。

現地についた小狼は結界を張って夜を待った。
あやかしの正体はその辺の浮遊霊か何かだろう。
結界の中に潜んであやかしの接近を待ち、距離が詰まったら即ケリをつけてしまうつもりだった。
今夜は新月。
小狼の魔力が最も低下する日だが、逆に言えば身を潜めるには最も適した夜だ。
これで隠蔽の結界を張ればよほどに敏感な魔物でなければ気取れられる恐れはない。
低級なあやかしに気取られることなどまずない。
そのはずだった。

小狼の失敗はあの夜のことを思い出してしまったことだ。
あの夜―――さくらと初めてあったあの日のことを。

(そういえばあの夜もこんな感じだったな)

こんな時にさくらのことを思ってしまったのは簡単な仕事と聞いて気が緩んでいたのかもしれない。
小狼があの夜のことを思い出したまさにその瞬間、あやかしの気配は現れた。

(うっ!? 来たか)

緩んだ気を引き締め、意識の糸をあやかしへと伸ばす。
だが、ここでも小狼は過ちを犯した。
意識の糸が伝えてきたのは何かの動物の毛の感触だったのだ。
これは別に珍しいことではない。
人に害をなすあやかしの大半は何かの動物霊だ。
偉の報告から今回の相手もおそらくはそうであろうと見当はつけていた。
それにも関わらず小狼の意識は一瞬乱れた。
あの日、さくらに始めて触れた時の感触を思い出してしまったのだ。
ひょっとしたらこいつもさくらのような存在なのか? そんな考えが頭に浮かんでしまったのだ。
それが術の綻びに繋がった。
ほんのわずかな綻びではあったが、小狼の気配が漏れるのに充分な綻びだった。

「ギシャァァァァァッ!」
「しまった!」

小狼の存在に気づいたあやかしは不気味な声を上げて逃走へと移る。
あわててそれを追いかける。
逃げるあやかしが垂らす気は濁り汚れきった妖魔のそれだ。
さくらの純粋な気とは比べ物にならない。
と同時にひどく弱い。
やはり成仏できない低級な動物霊の類なのであろう。
捕まえさえすればすぐに調伏できる。
しかし、庭に生える木々や草に足を取られて簡単に追いつくことができない。

「くそ!」

己の迂闊さと油断を呪いながら逃げるあやかしを追う小狼だった。

――――――――――――――――――――――――――――――

「はぁ、はぁっ」

ようやくあやかしを調伏したのは30分以上も後のことだった。
とんだ失態だ。
そこらの三流導師でも5分とかからぬ仕事にこれほどの時間を費やしてしまうとは。
誰にも見られていなかったのがせめてもの救いだ。

荒い息をつきながら小狼は考えていた。
今回の失敗の原因は仕事のさなかにさくらのことを思い出してしまったことだ。
だけど、それはたださくらのことが頭に浮かんだだけという簡単なものではなかったことは小狼自身もわかっている。
日本の来てからずっとさくらのことばかり考えていた。
さくらはどうしているだろう。
エリオルに迷惑をかけたりしていないか―――
ご飯はキチンと食べているか―――
さみしがったりしてないだろうか―――
ずっとさくらのことを考えていた。
さっきさくらのことを思い出してしまったのもそのためだ。
さくらのことを想う、それが当たり前のことになっていたからだ。

なんでこんなにさくらのことばかり考えてしまうのか。
なんでこんなにさくらのことを想ってしまうのか。
なんでこんなにさくらが愛しいのか。
その理由は。

「おれは―――おれは―――。おれはさくらのことが好きだったんだ―――」

ようやく辿り着いたその答え。
自分はさくらが好きだ。
この「好き」は他の誰かへ感じる好きとは違う。
特別な好き。
たった一人への好き。
自分はいつの間にかさくらのことを好きになっていたんだ。
さくらは自分にとって特別なたった一人になっていたんだ。
さくらが人でない存在だとかそんなことは関係ない。
さくらが好きだ―――

そして気がついた。
なんで自分がエリオルや知世を警戒するのかも
自分はさくらが好きだ。これは他の誰かに感じる好きとは違う特別な好きだ。
さくらも自分のことを好いてくれているとは思っている。
だけど、さくらの好きは自分と同じ「特別な一人」への好きなのだろうか。
その自信はない。
力を持つものは力を持つものに惹かれる。
さくらの好きは自分の魔力に惹かれているだけの好きかもしれない。
その可能性は大いにありうることだ。
ならば、自分よりも強い魔力を持つエリオルの方がさくらの目にはより魅力的に映るのではないか。
自分と離れてエリオルと暮らしている今、もうさくらの好きはエリオルでいっぱいになってしまって自分の入る隙などなくなっているのでは―――

あるいは、さくらの好きは単に日常のお世話をしてくれる人への好き、そんなレベルの可能性もある。
だとしたら、自分よりも知世の方がはるかに魅力的だろう。
細かな心配りや包容力では自分は知世に遠く及ばない。
知世の作る衣装はさくらも大のお気に入りだ。
おそらく自分がいない間も知世はさくらの元を訪れていろいろとやっているはずだ。
今頃、知世の作ったお洋服を着こんでおおはしゃぎしているかもしれない。
自分のことなど忘れてしまって―――

さくらに逢いたかった。
今すぐにでも。
逢ってこの想いを伝えたかった。
たとえ―――たとえさくらの好きが自分の好きとは違う好きだったとしても。
それでもさくらに伝えたかった。
おれはさくらのことが好きだと。

NEXT・・・


続きます。

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