『香港物語・5』



「きゃっ!?」
「な、なに、今の揺れ?地震?」
「(違う!今のは地震などではない。これは・・・小狼様かっ!)」

李家の敷地を襲った衝撃を感じた時、偉は最悪の事態を想定した。
この揺れは地震などではない。
今の衝撃は魔力、それも非常に強い魔力の暴発によるものだ。
これほど強い魔力を持った人間といえば李家でも夜蘭と小狼しかいない。
夜蘭は今はここにいない。
となれば残りは一人、小狼だけだ。
小狼の魔力が暴走したのだ。

それを防ぐためにわざわざ別宅まで設えての生活だったのに・・・

小狼の元に駆けながら偉は覚悟を決めていた。
魔力の暴走が周囲にもそして本人にとってもどれほど危険なものか偉は熟知している。
おそらく、今の小狼は理性を失い暴走する魔力に憑りつかれた魔物と化しているに違いない。
放っておけば全てを破壊しつくした上に自分自身をも滅ぼしてしまうだろう。
そうはさせない。
たとえ、この命に代えても小狼様をお守りしてみせる・・・


――――――――――――――――――――――――――――――


しかし、悲壮な覚悟で小狼の部屋に飛び込んだ偉の視界に入ったのは予想外の光景だった。

「小狼様・・・?」

偉の目に入った小狼はいつもと変わらぬ静かな面持ちを見せている。

「偉か。なんの用だ」

そう問いかけてくる声もいつもと変わらない。

「いえ、その・・・。今、強い魔力の波動を感じましたので。もしや小狼様に何かあったのではないかと」
「別に。何もない」

偉の問いかけにも普通に答えを返してくる。
今の小狼は自分の魔力を制御できているようだ。
偉はこれは何かのきっかけで暴走しかけた魔力を小狼がかろうじで押さえ込んだもの、と判断した。
どうやら最悪の事態はまぬがれたらしい。
ホッと胸を撫で下ろしたところで、小狼が手から血を流していることに気がついた。

「小狼様。お手に怪我をなされているようですね。すぐに手当てをさせましょう」
「これか。気にするな」
「そういうわけには。お待ちください。すぐに看護の者を呼んで参ります」
「気にするなと言っている」
「小狼様?しかし・・・」
「聞こえなかったのか?気にするなと言ってるんだ!用事はそれだけか。だったら出て行け!今すぐにだ!」
「小狼・・・様・・・・・・!?」

急に激しくなった口調をいぶかしがって小狼の顔を見直した偉は、そこで愕然となった。
偉を睨みつける小狼の目。
これがあの優しかった小狼様の目なのか?
人がこれほどまでに憎悪に狂った目を見せるものなのか?
圧倒的な憎悪と狂気を孕んだ瞳。

それにこの小狼の魔力。
小狼の魔力は今も暴走している。
それを想像を絶する精神力で押さえつけているのだ。
いや、精神力で押さえ込んでいるというのとは少し違う。
あまりにも強い憎しみが逆に魔力の激発を押さえ込んでいるらしい。
憎悪の対象に叩きつけるために魔力を溜め込んでいる、そんな感じだ。

いったい何を、いや、誰をそこまで憎んでいるのか・・・?
そこまで偉の考えが及んだ時、小狼の方から偉に声がかかった。

「そうだ、偉。さくらはまだ戻ってきていないな?」
「は、はい!さくらさんはまだお戻りになっていません」
「ならばさくらに伝えろ。戻ったらすぐオレのところに来るようにと」
「!?・・・はい。わかりました、小狼様・・・」

これで偉には小狼が誰を憎んでいるのかわかった。
さくらだ。
さくら本人なのか、さくらの関係者なのかまではわからないが、さくらに関係する者を憎んでいるのは間違いない。
よく見ると小狼の足元に何か光る物が散らばっている。
偉はそれに見覚えがある。
あれは遠見の鏡だ。
多分、小狼は遠見の鏡でさくらの何かを見てしまったのだ。
それに激怒して遠見の鏡を叩き割ってしまったのだろう。


今の小狼の前にさくらを連れてきたらどうなるか・・・偉はその恐ろしい想像を必死になって頭から追い払った。
仕方がないことだ。
ここでさくらを差し出さなかったら小狼は全てを巻き込んで自滅してしまう。
それを防ぐためには犠牲も仕方がないのだ。
これがあの少女の必然だったのだ・・・偉はそう自分を納得させるしかなかった。


――――――――――――――――――――――――――――――


偉が立ち去ると小狼は椅子に深く腰掛けて固まった。
そのまま身動ぎひとつしない。
胸の奥では恐ろしいまでの憎悪が荒れ狂っているが、それとは対照的に頭の中は冷え切っている。
遠見の鏡を叩き割った拳の痛みも、滴り落ちる血も全く気にならない。
ただ機械のように冷静に、正確に自分の中の憎しみを分析している。

今まで、なんと愚かしいことに拘っていたのか。
あんな少女一人に振り回されるとは。
李家の当主ともあろうものがなんと下らないことを気にしていのか。

所詮は金で雇っただけの使用人。
自分とさくらの間にあったのはただそれだけの関係。
他には何も無い。
そんなことは最初から分かりきっていたことではないか。

それをまるで初心な恋人同士であるかのように錯覚して。
ミジメな一人相撲をとって。
喜んで。
嬉しがって。
絶望して・・・
なんと滑稽だったことか。

もうなんの躊躇いも無い。
今日こそあの少女を汚す。
この世に生を受けたことを後悔するほどに悲惨な目にあわせてやる。
あの男の前で二度と笑顔を見せることができないようにしてやる・・・

小狼の頭の中に李家に伝わる淫猥な術の数々が浮ぶ。
女性を辱め、束縛するための穢れた術。
かつての小狼はこれらの術を軽蔑していた。
こんな卑劣な術がないと女性一人、自由にできないのかと。
李家の当主達ともあろう者が何故、こんな卑しい術を伝えてきたのかと不思議に思っていた。

今ならばわかる。
きっと彼らにもいたのだ。
たとえ、どんな汚い手を使ってでも手に入れたいと望む女性(ひと)が。

自分も同じだ。
だから今、それらの術を行使するのに何の躊躇いも感じない。
欲しければ奪う。
どんな卑劣な手を使おうとかまわない。
それが李家の通ってきた道だ。
そのための力だ・・・


NEXT・・・



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