『香港物語・4』



小狼がそれに気づいたのは魔力の影響で敏感になった感覚のためなのか。
それとも、あまりにもさくらに神経を集中しすぎていたためか。
どちらかはわからない。
いずれにしろ、それはあまりにも希薄なものでしかなかった。
他の人間であれば気づくことはなかったろう。

だが、小狼は気づいてしまった。
さくらの体から感じるものに。

(この匂いは・・・男のもの!?)

さくらの体から感じられる「誰か」の感触。
小狼は匂いと表現したが、匂いというよりは気配と言った方が正しい。
人の残留意識のようなものだ。
長い時間、誰かと意識を通じ合わせていると、その人の意識の滓とでもいうものが身体に留まることがある。
誰とでも起きるものではなく、余程に心を通じ合った者同士にしか発生しない現象だ。
それはさくらが今日、心を通じ合った相手と長い時間を過ごしてきたということを意味している。
しかも、さくらから感じる気配はまだ若い男のものだ。

つまり、今日のさくらは長い時間を若い、それも心を許しあった男と一緒に過ごしていたのだ。
いや、おそらく今日だけではなくこれまでの非番の日はいつも。

それを理解した瞬間、小狼は全身の血が逆流したかのような感触に襲われた。

誰だ!?
お前は今日、誰と会っていた?

そう叫びたいのを辛うじて堪える。

何を気にしているんだ。
相手はただのメイドじゃないか。
こいつがどこで誰と会っていようと自分の知ったことではない。
李家の当主たる自分には関係ないことだ。
馬鹿馬鹿しい。
もっと他に考えることがいくらでもあるだろう・・・

そんなつまらないプライドに必死で縋りついて冷静さを装う。

だが、心の奥底ではわかっている。
なぜ、さくらに問いただせないのかを。

怖いからだ。

さくらの心の中に「特別な誰か」がいる。
それを知ってしまうのが怖かったからだ。
それを知ってしまったら自分がどうなってしまうかわからない。
それが怖かったからだ。

「小狼様、どうかいたしましたか?」
「ん?なにがだ?どうかしたのか?」
「いえ、急に難しい顔で考え込まれてしまったので。何かあったのかと」
「な、なんでもない!ちょっと明日の用事のことを考えていただけだ。あぁ、さくら、今日は無理を言って悪かったな。もう休んでくれ」
「はい。小狼様。では失礼します」

小狼が最後まで平静さを装えたのは賞賛に値する。
それほどに小狼の心は乱れきっていた。

(誰だ・・・いったい誰と会っていたんだ!どんな男なんだ!さくら!)

小狼はさくらが出て行ったドアにいつまでの厳しい視線を浴びせ続けた。


――――――――――――――――――――――――――――――


それからの1月は小狼にとってまさに修練の日々だった。
さくらに会う、さくらの声を聞く、その度に鼓動が激しくなる。
さくらに見つめられると顔が紅潮していくのが自分でもわかってしまう。

「小狼様。どこかお体の調子が悪いのですか?」
「なんでだ。どこかおかしいか?」
「今日はお顔が少し赤いような気がするのですが」
「(かぁぁぁ〜〜〜っ)き、気のせいだろう!なんともない!」
「そうですか?ならばいいのですが」

こんなやりとりも何回か繰り返された。
感情の起伏を抑えるどころではない。
だけど自分ではどうにもできない。
この不思議な感情。

さくらの心の中には特別な誰かがいるのかもしれない。
自分ではない誰かが。
それを意識すると感情が乱れてしまう。
どんなに頑張って気を鎮めても、さくらのことを思っただけで精神の集中が途切れてしまう。

さくらが「誰か」に微笑みかけ、その手をとり、唇を与え、そして・・・
そんな夢を見て夜半に飛び起きたのも1度や2度ではなかった。

それでも未だにさくらにその「誰か」について問いただすことが出来ない。
さくらの口から真実を告げられるのが怖いからだ。
もはや、さくらを抱くなど考えることもできない。
自分に抱かれながらも胸の中では他の男の顔を思い浮かべていたら?
閨で他の男の名前を呼ばれてしまったら?
その時、自分はおそらくさくらを壊してしまう。

それが怖くて手を出すことが出来ない。

そんな悶々とした日々。
小狼にとって無限の苦行にも感じる日々。
それでも時間はいつもと変わらずに過ぎていく。
そしてまた20日、さくらの非番の日がやってくる・・・


――――――――――――――――――――――――――――――


「闘・妖・開・斬・破・寒・滅・兵・剣・瞬・闇・・・」

小狼は鏡の前で呪を唱えていた。
この鏡はただの鏡ではない。
李家に伝わる神宝の1つ「遠見の鏡」だ。
魔力を籠めて呪を唱えると心に描いた人物の姿を映しとることが出来る。
これで今日のさくらの行動を盗み見するつもりなのだ。

(オレはいったい、何をやってるんだ。こんなストーカーまがいの真似までして・・・)

偉大なる李家の主がなんという卑小なことをしているのか。
さくらの心の中にいる「誰か」を確認してなんになるというのか。
それが自分と何の関係があるのか。
頭の中でそう叫ぶ自分もいる。
だが、呪を唱える口は止まらない。
それとは別に

(よく考えたらあんな「ぽややん」なさくらに男がいるなんて有り得ないよな。ははは。そうだよな。きっと何かの習い事でもしてるのさ。そうさ、そうに決まってる・・・)

そんな都合のいい夢想を語る自分もいるからだ。

(料理かな?それとも裁縫かな。あいつ、縫い物が苦手だって言ってたからな。そうだ、ちょっと覗いてやろう・・・)

・・・あまりにもミジメな理由で自分を偽って小狼は呪を唱え続ける。

「煙・界・爆・炎・色・無・超・善・悪・殺・凄・卍・哭・哀・狗・・・・・・」

しばらく呪を続けていると鏡にさくらの姿が浮かび上がり始めた。
いつものメイド服とは違う、余所行きの洋服に着ている。

(あいつ、こんな服も持ってたのか。まあ、あいつは何を着ても似合いそうだけどな)

見慣れたメイド服とは違うさくらの姿に一瞬、小狼の頬が緩む。
しかし、そのさくらと一緒に鏡に浮かび上がってきたものを見た時・・・

「・・・っぅ」

小狼の咽から押し殺したような苦鳴が洩れた。


――――――――――――――――――――――――――――――


さくらが居るのはどこかの病院の個室らしい。
白いベッドに点滴用のスタンドとチューブ、その他医療品らしきものが置かれている。
無論、小狼が気にしたのはそんなものではない。
小狼に苦鳴を漏らさせたもの。
それはベッドに横たわる青年の姿だった。

年齢は自分やさくらよりも2〜3才くらい上だろうか。
少し目つきのきつい、しかし爽やかな風貌をしている。
どうやらかなり重い病気にかかっているようだ。
表情に生気がなく、その頬もやつれて見える。

その青年にさくらは親しげに話しかけている。
さすがに遠見の鏡も音までは伝えらえないため、何を話しているのかはわからない。
だが、青年に話しかけるさくらの目、表情、仕草、そしてそれに応える青年の様子から二人がとても深く心を許しあった仲であることがわかる。

とても深く。
心を・・・。

(なんだ?オレはいったい何を見ているんだ?誰だ、この女の子は?オレは・・・知らない。こんな女の子は。こんなさくらは・・・!)

小狼は自分が何を見ているのか理解できなかった。
いや、小狼の心が理解することを拒んでていたのかもしれない。

さくらがいる。
さくらが笑っている。
とても嬉しそうに。
とても優しい表情で。
今まで自分には一度も向けたことのない和やかな表情で。

自分の知らないさくらがいる。
そしてそのさくらを鏡に映った男が独占している。
自分ではない、別の誰かが「本当のさくら」を独占している。

さくらの心にはやはり「特別な誰か」がいた。
それは自分ではない。
さくらと自分の関係は「雇い主」と「使用人」。ただそれだけのもの。
鏡に映った男のように本当の笑顔を向けてもらうこともできない。
さくらにとって自分はその程度の存在。
あまりにも残酷な「事実」。

それを理解した瞬間、

「あ・・・うああぁぁぁっっっ!」

今度こそ小狼の咽から魂が引き裂かれるような絶叫が上がった。

NEXT・・・



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