『香港物語・3』



その朝、小狼は少しだけ不機嫌な顔をしていた。
呼び鈴を鳴らした時に現れたメイドがさくらではなかったからだ。

「さくらはどうした?」
「さくらは今日は非番です」
「非番?そうか。今日は20日だったな」

毎月20日はさくらの非番の日だ。
この日だけはさくらの代わりに他のメイドが小狼につく。
彼女達は古くから李家に仕えるメイドであり、当然小狼の魔力のことも知っている。
そのため、小狼を見る目にわずかだが怯えの感情が篭っている。
それが小狼の気に障るのだ。

(まあ、しょうがないな。さくらと違ってこいつらは魔力のことを知ってるのだからな)

そうは思っても呼ぶ度に出てくるメイドが変わるのにはさすがに気が滅入った。
彼女達は明らかに小狼を避けている。
出来る限り小狼と接する時間を短くしようとしているのが見え見えだ。
おそらく、くじ引きでもしてハズレをひいたメイドが出てきているのであろう。

今に始まったことではない。
さくらが非番の日は一人で本でも読んで過ごしていればいい。
気がつけば1日が終わってる。
もう慣れた。
慣れたはずだった。

なのに。

今日は何故か落ち着かない。
ついついメイド達を呼んでしまう。
そしてその度に怯えの視線を受けて不快になる。
なのに、また呼んでしまう。
そしてまた不快になる。
そのくり返しだ。

今まではこんなことはなかった。
独りでいることが苦にならなかった。
むしろ独りの方が、剣や魔力の修練に集中できていいとすら思っていた。
それが今日に限ってなぜ?

「ハッ!ヤッ!トゥッ!」

身体を動かせば少しは気が晴れるかと思って宝剣を振るって稽古をするが、まったく身が入らない。

(くそっ。いったい何だっていうんだ!何でこんなに落ち着かないんだ!)

ついには宝剣を放り投げてベッドに横になってしまった。
体がけだるい。
何もやる気が起こらない。

(今日はダメだな。何もやる気にならない。こんな時・・・あいつがいてくれればな・・・)

あいつの一生懸命で、でもどこか抜けてる仕事ぶりでも見てると楽しくもなるんだけどな。
それとも紅茶かな。
あいつがこの前買ってくれた紅茶、あれは意外に美味しかったよな。
あれを飲めば落ち着くかな。
いや、あれもあいつが淹れてくれないと美味しくないのかな。
あいつが淹れてくれるお茶はいつも美味しかったな。
あいつ・・・さくらの淹れてくれるお茶は。

・・・。

さくら・・・

チリリ〜ン
そこまで考えた時、小狼の指は再びメイドの呼び鈴を鳴らしていた。

「お呼びでしょうか。小狼様」
「さくらはまだ戻らないのか?」
「はい。まだ戻ってきておりません。帰りは夕方になると思います」
「そうか。だったらさくらに伝えてくれ。戻ってきたらオレのところに来るように」
「はい。承知いたしました」

なんでこんなことを命じたのか小狼自身にもわからない。
さくらを呼んだところで何になるのか。それもわからない。
ただ、無性にさくらに会いたい。
さくらの顔が見たい。
その想いだけがある。
明日まで待つことができそうもない。
まるで母親から引き離された赤子のようにさくらを求めている自分がいる。


『小狼様、紅茶が入りました』
『ほえ〜〜〜っ!!し、失礼しました!小狼様!』
『小狼様』
『小狼様・・・』


さくらの顔が、声が、姿が小狼の心の中に浮んでは消える。

(本当に・・・どうしたんだ、オレ・・・。なんであいつのことばかり。なんで・・・)

それを寂しい、と感じることを小狼は必死になって否定した。
李家の当主は強くなければならない。
そんな弱い気持ちなどあってはならない。
自分がさくらを気にしている、という気持ちはさらに強く否定した。
偉大な李家の当主たる自分が、あんな金で雇われた餌を気にするなどあり得ない。

そうだ、これは不安定な魔力の影響せいだ。
今日はちょっと気の流れが悪いだけなんだ。
少しすれば落ち着く。
あんな卑小な少女を気にするなど馬鹿げている。
これはただの気の迷いだ。
あんな奴、いなくたってどうってことはないさ・・・


――――――――――――――――――――――――――――――


けれど。

「ただ今戻りました。小狼様」
「あ、あぁ。お帰り」

さくらの顔を見た瞬間、小狼は心の底からホッとしている自分を感じていた。
まるで、心にポッカリ空いてしまった穴に何かがすっぽりと収まるような感触。
自分に欠けていた何かが戻ってきたように感じる。
この安心感。

「お呼びということでしたが、何の御用でしょうか」
「いや!特に用はないんだ。その・・・」
「?戻ったら小狼様のところに行けと言われていたのですが?」
「そ、そうだったな。じゃあ、とりあえず紅茶でも淹れてもらおうか」
「はい。わかりました小狼様」

(どうして?どうしてオレはこんなにホッとしてるんだ・・・あいつがオレの傍にいる、それだけなのに。どうして・・・)

お茶の用意を始めるさくらを見つめながら小狼は自分の心を捉えることができずに、困惑していた。
その困惑さえ、さくらによってもたらされたもの、そう思うと心地良い。

さくらが今、自分の傍にいる。
自分の傍で自分に尽くしてくれている。
この少女の全てが今、自分のためにあるような錯覚すら覚える。
それが嬉しい。
小狼はその安堵感に酔いしれた。

至福の一時。


・・・そう、一時。
至福の一時は文字通り、ほんの一瞬の間しか続かなかった・・・

NEXT・・・



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