『香港物語・2』



晩秋。
陽の長さもだいぶ短くなったある日の夕暮れ。

「あの、小狼様。1つお聞きしてよろしいでしょうか」

小狼はさくらからおかしな質問を受けた。

「ん?なんだ」
「その・・・いえ、差し出がましいかもしれませんが・・・」

この少女には珍しく、何かを迷いながら話しかけてきている。
なにか言い出しにくい内容のようだ。
その様子を見て小狼は

(ほう。とうとう言い出してきたか。まあ、そろそろいい頃合か)

と内心でほくそえんだ。
ようやく小狼に身を捧げる決心をしたのかと思ったのだ。
さくらが小狼に仕え始めてからもう三ヶ月以上がたつが、小狼は未ださくらに手をつけていない。
そろそろ小狼に抱かれないと李家にクビを言い渡される、それで自分から言い出してきたのだろう、そう小狼は判断した。

もう少しこの少女の可憐さを楽しんでもよかったけどな、等という邪な考えを隠して

「どうした。何か言いにくいことなのか?」

と何気ない風を装って聞き返す。
心の中ではこれから少女が晒す痴態を想像して舌なめずりをしながら。

だが、さくらの問いは小狼の意表をつくものだった。

「あの・・・小狼様。小狼様は寂しくないのですか?」
「・・・?」

一瞬、小狼は何を言われたのか理解できなかった。

寂しい?
寂しくないかだと?
どういう意味だ?

「お前は一体、何を言ってる?寂しくないかだと?何が言いたい?」
「いえ、その・・・。小狼様はいつもお一人なので・・・。それに、ここに来た時からずっと不思議だったんです」
「?」
「なんで小狼様のお部屋だけこんな離れにあるのかなって。お姉さま達の部屋は本館にあるのに、小狼様の部屋だけどうしてこんな外れの方にあるんだろうって。他のメイド達もここにはあまり近寄らないですし。まるで・・・その・・・」
「まるでなんだ?」
「小狼様を隔離してるみたいだって・・・す、すいません!」

なるほど。
そのことか。
どうやらこいつは李家の事情は何も聞かされていないらしい。

たしかにさくらの言う通りだ。
オレは「隔離」されている。
言うまでもなく、万が一魔力が暴走した際の被害を最小限に抑えるためにだ。
1日の大半を李家の敷地内に誂えられた特別製の別館に篭って過ごしている。
ここ数ヶ月は学校にも通っていない。
必要な学問は専用の家庭教師から学んでいる。
それもこの別館の中でだ。
そのため、オレが会う人間はさくらを除けば執事の偉と何人かのメイドだけ。
それも必要がある時だけに限られる。
実質、さくら以外の人間とは関わらずに生活していると言ってもいい。

これは李家の当主が成長の過程でくぐらなければならない試練の一つだ。
思春期の魔力が不安定な1〜2年の間、感情の起伏を抑えるために出来るだけ人と交わらぬ生活を強いられる。
その間は家族に会うこともままならない。
それは子供の頃からずっと聞かされていたことだ。
今更なんとも思っていない。

そもそも「寂しい」などどいう感情はオレにはないのだ。
李家の当主となるべく、幼い時から感情を抑えるように教育されてきた。
この生活を始めてから母上にも姉上にも会っていないが寂しいなどと思ったことはない。

だが、それを改めて他人に指摘されるのはあまり気持ちがいいものではなかった。

「なにかと思えばそんなことか。くだらん。寂しいかだと?子供じゃあるまいし。姉上達もいろいろと忙しかろう。わざわざ来ていただく必要などない」
「でも!一度もお会いに来ていただけないというのは。どうでしょうか。小狼様さえよろしければわたしからお姉さま達にお願いしたいのですが・・・」
「不要だ」
「でも・・・少しくらいは小狼様のためにお時間を割いて頂いても・・・」
「不要だ!さくら!お前は一体、何様のつもりだ!オレの教育係にでもなったつもりか?」
「そんな、小狼様・・・わたしは、ただ・・・」
「もういい!下がれ!」
「はい・・・」

とぼとぼと引き下がるさくらを見ながら、小狼は内心の苛立ちを抑えられなかった。
寂しくないかだと?
そんなものは弱者の感情だ。
李家の当主とは強者。
そんな感情には無縁の存在だ。
生まれてこのかた、寂しいなどと思ったことはない。

それを!
こともあろうに、金で雇われた生餌の分際で李家の当主たる自分を哀れむとは!
なんという屈辱!

どうやら自分は少し、あの少女と馴れ合いすぎてしまったらしい。
あのようなことを言わせる隙をさくらには見せていたということだろう。
巨大な一族を統括する当主にあってはならない油断だ。

もう遊びは終わりだ。
今夜、あの少女を汚す。
二度とあのようなふざけたことは言わせない。
もっとも残酷な方法で純潔を奪ってやろう。
自分がどれほどミジメな存在かを心と身体の両方に刻み付けてやる!
哀れむ必要などない。
最初からそれがあいつの運命だったのだ。


――――――――――――――――――――――――――――――


だが、その夜。
小狼は最後までさくらを呼び出さなかった。
幾度かメイドの呼び鈴に手を伸ばしかけはしたが、その度に躊躇してそれを引っ込めた。

(寂しくないか・・・か。いつだったかな。最後に「寂しい」って思ったのは)

さくらに言われた「寂しい」という言葉。
それが小狼の心の何かに引っかかったのだ。
昔・・・思い出せないくらいずっと昔に寂しいと感じたような気がする。
あれはいつだったか?
その時感じたのはどんな感情だったか?
それすら思い出せないくらいずっと昔。
でも確かにその時、「寂しい」と自分は思った。
記憶の中に埋もれてしまって思い出すこともできない誰かの顔。
それを想って寂しがり涙を流していた・・・そんな気がする。

(いつだったのかな、あれは・・・。もう思い出せない。寂しいって、どんな気持ちだったっけ・・・)

もう思い出すことも感じることもできなくなった「寂しい」という感情。
そしてそれを思い出させてくれた少女の存在。
それが小狼の指を抑えたのだ。

(さくら・・・。あいつといるとどうも調子が狂うな。だけど・・・いやな気はしない・・・。不思議だ・・・)

苛立ちが治まった後は不思議な安らぎが小狼を包んでいた。
それをもたらしてくれた少女の顔を想うとさらに心が落ち着いていく。
ひょっとすると、これがさくらの持つ力なのか?
さくらが雇われた真の理由はこの力のせいか?
そんな想像も頭をよぎる。

小狼はまだ気づいていない。
この安らぎがなんなのかを。
そして「寂しい」というのがどんな感情だったのかも。

やがて小狼はその二つの意味を知ることになる。
さくらという少女を通じて。

NEXT・・・



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