バレンタイン・パニック!・前編

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バレンタインデーが近づき、街にハートが溢れかえっている。
仕事の帰りに立ち寄ったスーパーの入り口にまで特設のコーナーが設けられ、ちらほらと女性の姿が周りに見える。

「バレンタイン……ねえ」

山と積まれた色とりどりのチョコレートを横目に見ながら、成歩堂は小さく溜息を吐いた。

何か簡単に出来る夕食でも、と思い立ち寄ってみたものの、その光景にやや気後れしてしまい、
もともと少なかった食欲が更に減退しそうになる。

「何か面倒くさくなっちゃったな」

カップラーメンかお弁当でも買って帰るか……

つらつらと考えながらチョコレートの山を通り過ぎようとして……

「?」

ふと成歩堂の足が止まった。
特設コーナーの横にさらに設けられた数多くのチョコレート菓子の中に少しだけ気にかかるものを見つけたのだ。

「……へえ、ブランデー入り、ねえ」

呟きながら何気なく手に取る。
特別にプレゼント用にラッピングされているわけでもない。
大人向けではあるが普通のチョコレートだ。
それを買い物かごに放り込む。

「あ、そうだ……」

ふと何かを考え付いたのか、成歩堂は微かに笑うともう一つ同じものをかごに入れた。

 
 
大きな案件も片付き、久しぶりにゆっくりした朝だった。
成歩堂はいつものように事務所を開け、チャーリーに水やりをしてから、
仕事前に一息入れようとコーヒーを入れる準備をしていた。

時計に目をやるともうすぐ業務開始の時間だ。
念のためスケジュールを確認して、アポが入っていないことを確かめる。

お湯が沸く音に給湯室に行こうとした時、軽くドアをノックする音が聞こえた。
慌ててコンロの火を止めに行く。

「?……はい」

返事をすると同時にドアが開く。

「おはよ、なるほどくん!」
「おはようございます!」
「あれ、真宵ちゃん……それに晴美ちゃんも? どうしたの?」

今日は特別な用事もないし、休みにしていたはずだ。
何か忘れ物でもしたかと小首をかしげていると、真宵たちはとっとと事務所に入ってきた。

「今日はなるほどくんに日頃の感謝をってことで……」

はいっ!

と元気な声と共に真宵から突き付けられたものは……

「え、これってもしかして……」
「そ! 今日はバレンタインだからね!」
「はい! ばれんたいんなのです!」

元気で明るい声と共に晴美からも突き付けられる。

『くらえ!!』と言わんばかりの勢いに成歩堂は軽く冷や汗を流しながらも、
かわいらしくラッピングされたチョコレートを受け取った。

「ありがとう」

そう言いつつニッコリと笑う。
しかしふとその眉根が曇った。

「まさかこのためにわざわざ来たの?」

電車代だってばかにならないのに……
言いかける成歩堂を遮るように真宵がわざと言葉を被せてきた。

「モチロン! だってこう言うのってホラ、ジキモノってやつでしょ?」
「別に昨日でもよかったのに……」
「だ~って~、昨日までそんな暇なかったじゃん」
「まあ、それもそうだけど」

苦笑する成歩堂にむくれる真宵。
晴美の眼が少しだけ吊り上る。

「なるほどくん!! まさか真宵様のお気持ちを無碍になさるおつもりでは……!」

袖まくりを始める姿に、成歩堂は途端に降参の意思を示す。

「わーっ! 勿論ありがたく受け取るよ! ほんと、ありがとう」

言いつつ給湯室へと逃げ込み、すっかり冷めてしまったお湯を沸かしなおす。

「じゃ、このチョコレートでお茶でもしようか……開けていい?」
「うん、いいけど……それ、なるほどくんに買ってきたんだから食べちゃえばいいのに」
「僕はこんなには要らないよ。それよりもみんなで食べる方が美味しいだろ?」

そう言ってさっさとパッケージを解いてしまう。
現れたのは可愛らしいハート型の粒チョコレートとトリュフのそれぞれ詰め合わせだった。
三人でお茶をする分には充分だ。

「あはは、可愛いな。じゃあこれテーブルに置いておいて。真宵ちゃんはコーヒーで良い?」
「うん!」
「え、と……晴美ちゃんは……」
「わたくしはお茶でよろしいです」
「う~ん、お茶もいいけどせっかくチョコレートだしな……」

成歩堂はしばらく思案顔をしていたが、

「……うん、よし」

一つ頷くと、粒チョコレートを二つ取出し、

「後は持って行っておいて。じゃ、ちょっと待っててね」
「うん、じゃあ私たちはちょっと向こうを掃除でもしておくね」
「ありがと」

真宵と晴美が応接室の掃除を軽く済ませたころ、成歩堂はカップを三つ乗せた盆を持って給湯室から出てきた。

「ご苦労様。お茶にしよう」
「待ってました!」
「はい、真宵ちゃん……晴美ちゃんはこれね」

それぞれにカップを渡す。

「なるほどくん、これは?」
「ああ、はみちゃんのはココア? ってあれ? うちにココアってあったっけ?」
「ホットチョコレートだよ」

笑いながらソファに座る。

「お口に合えばいいけどね」
「いい香りです」

ホカホカと上がる湯気に鼻をうずめるように香りを嗅いでから、晴美がおもむろにホットチョコレートを啜る。
次の瞬間、晴美の顔が輝いた。

「わあ! これは美味しいですわ!」
「気に入っていただけたなら何よりだよ」

子供らしい表情に成歩堂の顔も和む。

「良かったね、はみちゃん」

真宵もニコニコと二人の顔を見つめていた。

 
「ところでミツルギ検事、今日は来るの?」

お茶も終わり、チョコレートも食べつくされた頃、真宵が急に思い出したように言った。

「御剣? いや、今日は来る予定ないけど……」
「そっか~、じゃ、行く予定は?」
「今は公判も抱えてないから予定はないよ」

テーブルを片付けながら成歩堂は苦笑を漏らす。
そんなにそうそう気軽に赴ける場所でもないし、ましてや成歩堂は曲がりなりにも弁護士だ。

「え~~、だってミツルギ検事はちょくちょく来てるじゃん」
「それはそうだけどさ、逆も然り、って訳には行かないよ」

盆にカップを片付ける成歩堂の表情に、微かに複雑そうな色が現れる。
しかしそれを一瞬で消し去って、成歩堂は盆を給湯室へと運ぼうとした。

「あ、わたくしがやりますわ」

晴美に小さな手を差し出され、一瞬うろたえる。
その隙を突いてさっと盆を取り上げると晴美はパタパタと給湯室へと消えて行った。

「あ……、ま、いいか」
「なるほどくん、エンリョしてるの?」
「うえっ!?」

唐突に話を戻され、成歩堂が文字通り飛び上がる。
振り向くと真宵が小悪魔的な笑みを浮かべていた。

「な、何で僕が遠慮なんかしなきゃいけないんだ?」

反論する声が何故か上擦る。
真宵はますます笑みを深めると、

「だって、つまんなそうに見えたよ、さっき」
「さっき、って……あ」

確かに口実が無いと逢えないのは少し寂しい……
それは事実だが……

「まいったな……」

ほんの一瞬現れた表情を、ばっちり真宵には見抜かれてしまったようだ。
成歩堂は諦めたように溜息を一つ吐くと、微かに笑った。

「確かにさ、いつでも会えるわけじゃないし、立場的にも……ね。
でも、仕事の時には会えないのは誰だってそうだし、何より僕は検事である御剣が好きだからね」
「ふ~ん……強がってない?」

諭すように言う成歩堂にさらに真宵が詰め寄ろうとした時、

「大人ってそう言うものよ」

助け舟は意外なところから出された。

「えっ!?」
「あ、お姉ちゃん」

思わず聞こえた懐かしい声に成歩堂が振り返る。

「お久しぶりね、ナルホド君」
「千尋さん!」

給湯室の前に立っていたのは晴美の装束を着た綾里千尋だった。

おそらく初めからこう言う段取りだったのだろう。
真宵はたいして驚く様子も見せずにそのまま話を続ける。

「だってさ、なるほどくんとミツルギ検事って……じゃない?」
「たとえ……だとしても、それぞれの立場もあるのよ。お互い高校生でもないから……ね?ナルホド君?」
「……って何を伏せてるんですか……って、ちょっと待った!」

口の中で小さくツッコミを入れてから千尋の発言の不穏さに気づいて成歩堂は思わず大声で待ったを掛けた。

「千尋さん、今どんな意味で!!?」
「どんな、って、事実のままよ」

成歩堂のツッコミを小首を傾げる仕草でさらりと躱し、千尋は当然の如く宣告する。

「あなたたちの関係くらい、オミトオシよ。だってここは私の事務所だったんだから」
「ま、まさか真宵ちゃん話したの?」
「ううん、話す前に知ってたよ……って言うかバレバレなんだけど……」
「うぎゃあっ!!」
「そういうことよ。今更でしょ? 観念なさい、ナルホド君」

汗をダラダラ流し頭を抱える成歩堂に、千尋は悪戯っぽく笑って見せた。
そうしていると、意外に真宵とそっくりに見える。

(って言うか真宵ちゃんが千尋さんに似てるってことか? やっぱり姉妹だよな)

現実逃避にも似たことをぼんやりと考えていると、千尋が真宵のバッグから何かを取出し、成歩堂に差し出した。

「はい、これ私からよ」

思わず受け取って目をやる。
それはシンプルだがシックなデザインの包装を施された箱だった。
大きさからみてチョコレートであることは充分推測ができる。

「これ、もしかして……」
「そう、私からのバレンタインよ」
「ならばさっき一緒にくれれば……」
「真宵たちと一緒にって言うんでしょ? 残念だけどそれ、真宵たちには上げられないのよ」
「?……! まさか……?」
「ご名答。運転しなきゃいけない時には食べちゃダメよ?」
「やっぱり……まあ、ぼくは運転は……」

しない、と言いかけてハタと気付く。
もしや、と千尋の顔を見れば、その口元は微かに笑みを湛えていた。
意味深に細められた優しい瞳に、意図するところが伝わって、成歩堂は微かに苦笑した。

「やっぱり千尋さんには敵わないな……」

呟いてから箱を持った手をおもむろに身体に引き寄せた。

「ありがとうございます」

軽く頭を下げる成歩堂に、千尋は慈愛に満ちたやさしい微笑を向けた。

既に鬼籍にいる自分が彼にしてあげられる事など本当はもうたいしてない。
弟子だった青年は今、自分の力で起とうとしている。

何より彼は一人ではない。

多くの人々によって支えられている事を、誰よりも彼自身が知っている。

だからもう彼は自分がいなくても大丈夫……

千尋の瞳にほんの少し寂寥の色が浮かんだ。

それを隠すように一度軽く俯く。
再び顔を上げた時にはもう、元の余裕を見せる表情に戻っていた。

「頑張っているご褒美よ」

所長の威厳を込めて言うと、成歩堂が少年のような表情で照れたように笑った。

~~~♪

不意に成歩堂の携帯が鳴りだした。
慌ててディスプレイを確認する。

「え? 御剣?」

表示された名前に少し驚いてから、

「すみません」

断りを入れて所長室に入って行った。

「別に隠さなくってもいいのにね~」

そそくさ、と言った体で慌てて所長室へ姿を消した成歩堂に、真宵は千尋に向かって悪戯っぽく笑って見せる。

「そう言わないであげなさい」

千尋は一応窘めるようなセリフを言うが、眼が完全に笑っている。
二人はくすくすと笑いあうと、

「お姉ちゃんもワルよの~」
「失礼ね。真宵ほどではないわよ」
「いえいえ、ゴケンソンを」
「ふふふ……」
「……へへっ」

 小さく声に出して二人は楽しそうに笑った。

「お待たせしました……何か楽しそうですね」

電話を終えて戻ってきた成歩堂が不思議そうな顔をして二人を見比べた。
その表情はそれでもどことなく柔らかい。

姉妹はもう一度だけ視線を交わして笑うと、成歩堂に向き直った。

「何でもないよ! それよりミツルギ検事さん、何だって?」
「うん、何か急用らしくて……呼び出されちゃったよ」
「急用って何だろ?」
「さあ……」

ちょっとだけ眉を寄せて首を傾げてから、

「千尋さん、すみません。せっかく……」
「気にしないで。どちらにせよ私ももう還らなくてはいけないから……」

何かを言いかけた成歩堂をやんわりと遮り、千尋は微笑む。

「今日は逢えて良かったわ」
「!……こちらこそ!」

まだ話したいことは山ほどあるが……
成歩堂は敢えてそれ以上は言葉を重ねず、もう一度頭を下げた。

「今日はありがとうございました」

弟子の言葉にしなかった部分を汲み取り、千尋はゆっくり頷くと、

「じゃあ、私はそろそろ逝くわね……真宵、ナルホド君、二人とも元気で」
「うん、またね! お姉ちゃん」

そして二人に見送られ、千尋は去って行った。

(真宵……ナルホド君をお願いね……)

去り際、真宵にだけ聞こえる言葉を残して……

(うん、任せて……お姉ちゃん) 

真宵もまた誓いに似た響きで、千尋にしか聞こえない言葉で、そう囁いた……


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