シャル・ウィ・ダンス?(前編)
「え?何ここ……」
黒目勝ちの大きな眼をさらに大きく見開いて、成歩堂はそのいかにも高級そうなブティックの前で立ち竦んでいた。
今日は土曜日。
久しぶりに休みが合ったものの、仕事が押してしまった御剣が、
「時には趣向を変えてみるのも良かろう」
と、機嫌の伺えない声で、電話で指定してきた待ち合わせ場所がその店の前だった。
待ち合わせの10時30分より少しばかり早く着き、何気なくショウウィンドウを覗けば、
ほとんど財布の中身も崖っぷちが多い弁護士には縁の遠い数字が並んでいる。
「……まあ、ぼくには必要ない所だけど」
呟きながらも首をひねる。
待ち合わせに選ぶにはいささか変わった場所だ。
「御剣、ここに用事でもあるのかな」
まあ、来れば判る事だとは思うが、ここに来てもう一つ珍しい事が起こっている。
肝心の待ち人の姿が無いのだ。
いつもであればとっくに到着していても良さそうなのだが……
「待ち合わせ場所、間違えたかな……」
少し不安になり、成歩堂は携帯に手を伸ばした。
時計を確認すると、もう時間になる。
やはり電話を掛けようとボタンに指を伸ばそうとした時……
「成歩堂、そこで何をしている。早く入りたまえ」
突然呼びかけられ、成歩堂は文字通り飛び上がってしまった。
「うわっ!! み、御剣!?」
振り向けば店の入り口で当の待ち人が仁王立ちの様に腕を組んで立っていた。
「もしかして先に入ってたのか!?」
「もしかしなくてもそうだが……中から合図を送ってみたのだが、一向に君がこちらを覗こうともしないのでな」
迎えに出てきたのだよ……
言いながら軽く肩に手を回し、成歩堂に異議を差し挟ませる隙を与えずに店の中に招き入れる。
「は……、えッ!?」
「いらっしゃいませ」
訳が分からず眼を白黒させる成歩堂に向かって、店員が丁寧なお辞儀をする。
そのいかにも洗練された仕草は、その店の教育の高さを覗わせる。
「あ、はい……お、お邪魔します」
思わず頓珍漢な返事をしてから、成歩堂はぺこりと頭を下げ、次いで隣の御剣の腕をそっとつついた。
「あのさ、ここに用事か何か?」
「うム、そうだが?」
小声で囁く成歩堂に、『それが何か?』と言った顔で御剣が視線を返す。
成歩堂は更に身を縮籠もらせて御剣にしか聞き取れない音量で囁いた。
「あのさ、僕、外で待ってても良いよ……時間が掛かるならどこかで適当に……」
「何を言ってるのだね、君は?」
呆れたような顔をしながら、御剣が成歩堂の背中を押す。
「私の用事ならばとっくに済ませている。用事があるのは君だ、成歩堂」
「は………………………ええっっ!!?」
「御剣様、そちらの方が……?」
「うム、成歩堂氏だ」
訳が分からず固まってしまった成歩堂を尻目に、店長らしき年かさの男と御剣は会話を続ける。
「あまり時間が無い。急いでくれたまえ」
「かしこまりました」
「今日は急だったのでな。レディメイドで構わない。サイズは大丈夫だろうか」
御剣の問いに男はさっと鋭い目を成歩堂の全身に走らせ、一つ頷いた。
「いささか細身でございますね……今すぐにご提供できそうなのは……」
言いながら店員に3着のスーツを持ってこさせる。
それを見て成歩堂の顔色が一気に青褪めた。
「み! 御剣!? これは一体!?」
全て一目でそれと分かるような高級品……
「説明は後だ、成歩堂」
スーツを吟味しながら、やや冷たい声音で御剣が遮る。
そこに来て成歩堂は、御剣の眉間にいつもより深い皺が刻まれていることに気付いた。
「…………後でちゃんと説明しろよ」
小声で呟くと、諦めたような深い溜息を吐いた。
「うム、了解した」
薄く口元に笑みを浮かべて応えながら、御剣はなお、しばらくスーツの吟味を続け、
「フム、とりあえずこのあたりか」
青みがかった光沢を放つ黒い生地のものを手に取った。
「と、とりあえずって……」
値段が見えない成歩堂に不安が増す。
それは3着の中でもずば抜けて高価そうだったからだ。
レンタルだったとしても、相当な料金が掛かりそうだ。
しかしやはりそんな成歩堂にはお構いなしに、店長は細い顎に手を当てると、
「そうでございますね……私もその辺りがよろしいかと」
「貴方がそう仰るのであれば、間違いないだろう」
頷き、腕時計に目を走らせてから、
「後1時間で支度を頼む」
「かしこまりました」
恭しく頭を下げてから、店長は成歩堂に向かって会釈をした。
「では、成歩堂様、こちらへ……少しお直しをいたしますので、一度ご試着を」
「あ……は、はい」
流れるような話の持って行かれ方に、
(営業のプロってこんなにすごいものなのかな……)
などと言う、明後日な感想で現実逃避しつつ、
「お願いします……」
結局、成歩堂は従う他は無かった。
「結局、仕事がらみって訳ね……」
既にぐったりと疲れた様子でタクシーの座席に身体を預けながら、成歩堂は何とも言えない表情で溜息を零した。
スタイリストに髪をいじられながら御剣から聞かされた話を思い出す。
もともと、御剣自身今日は出かける予定など無かった。
どちらかと言えば久しぶりに会える分、ゆっくりと二人きりで過ごしたかったのだ。
仕事が押して会える時間が少しばかりずれ込むのはよくあること……
だからこそ二人にとって時間とは無駄に出来ない大切なものなのだ。
しかしよりによって昨日の昼を過ぎてから御剣が上司から言い渡されたのは……
「パーティーへの出席…………ねぇ」
それもただのパーティーではない。
表向きは親睦会のような形をとっているが、メンバーが違う。
海外の資産家、日本の外交官、官僚を始め、法蔵界からも実力者が参加するらしい。
「そんなところに僕が行っていいのかよ」
「構わない。それを条件に引き受けたのだから」
正確には、一人、エスコートすることを条件に、だが……
「元がプライベートと言うことになっているからな。向こうも断れぬよ」
「でも、仕事も絡んでるだろう?」
「若干は、だな。厳密に言えば、招待を受けたのは私自身、でもあるからな」
「……? どういうことだ?」
「恩師なのだよ、アメリカに居た時の」
それだけ言って、御剣は薄い微笑を浮かべる。
それを鏡越しに見ながら、成歩堂はそれ以上追及するのを諦めた。
セットが終わり、着替えをしなければならなくなったからである。
「…………成歩堂? どうした、具合でも悪いのか?」
声を掛けられ、ハタと我に返る。
「いや、大丈夫だよ」
言いながら少しばかり襟を緩める仕草をする。
「ちょっと着慣れない服だから、肩が凝りそうだけどね」
服に皺が寄らない様に気を使うのは、実のところかなり疲れる。
それを素直に表現できるのは御剣の前だからだ。
「そうか? その割にはなかなか着こなしているようだが?」
喉の奥でくつくつと笑いながら御剣は恋人の姿を横から眺めた。
見立てはまあ、上手くいったと思う。
光沢のあるスーツは成歩堂が着てみれば上品で、しかし盛装としても立派に通用する。
やや腰のあたりのラインにあやふやさはあるものの、急場しのぎではこのくらいが妥当な線だろう。
(……いや、このくらいで丁度良いだろうな)
絶妙なラインを持つ身体つきをあまりに見せられては、自身の理性の手綱が引けなくなりそうだ。
それに何よりあのラインを他の者に見せたくは無い。
「だが、少し失敗だったかもしれないな……」
「……え? 何かおかしい?」
御剣の呟きに、成歩堂が少しばかり不安げに眉を寄せる。
そしてどこか着崩れているのかと自分の身体をチェックし始めた。
「いや、そうではない」
思わず抱き寄せそうになるのを危うく踏み止まり、少しだけずれた蝶ネクタイを直す。
タクシーが曲がった瞬間、バランスを失い倒れこんできた成歩堂の身体を抱きとめたついでに耳元で囁く。
「君が少し魅力的になり過ぎてしまったようだ……
心配が増してしまったよ」
耳元に掠めるキスを送り、何事も無かったかのように成歩堂の身体をシートへ戻すと、御剣は涼しい表情で前に向き直った。
「な……なん……」
言葉が出ない成歩堂は、耳元を押さえたまま、真っ赤になってしまった顔を隠すように俯けてしまった。