共同戦線(前編)

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朝の冷え込みが厳しさを増す、ある冬の水曜日……

「なるほどく~ん、おなかすいたよぉ~~」
「……真宵ちゃん、ひらがな喋りになってるよ」

持ってきてくれたお茶を受け取りながら、成歩堂は苦笑を浮かべて所長室の壁掛け時計に目をやる。
時刻は11時ちょっと過ぎ……まだお昼にするにはいささか早い。

「それに、さっきおやつ食べたばかりでしょ?」

再びデスクの書類に目を戻しお茶に口をつけながら、しれっとツッコミを入れる。

「今朝、元依頼人さんが持ってきてくれたお饅頭、結局ほとんど真宵ちゃんが食べちゃったじゃないか」
「あれは別腹だよ。それになるほど君だって2個も食べたじゃない」

こんな時だけ口調をしっかりさせて真宵が反論する。
成歩堂は再び苦笑を漏らすと、

「お饅頭、10個入りだったんだけどな……」

そう口の中だけで突っ込んだ。

別にお饅頭が惜しかったわけでもないし、自身は全く食べなくても良かったのだが……

実際、成歩堂は2個食べた時点でかなりお腹に溜まってしまい、後は真宵に譲ってしまった。
そして、それを真宵はキレイに完食してしまったのだ。

その食べっぷりを思い出してしまい、成歩堂は思わず背筋を震わせる。
しかしこれ以上突っ込んだところで話が進まないことも分かり過ぎるほど分かっている。

成歩堂は諦めたように溜息を一つ吐くと、顔を上げて真宵を見やった。

「後もうちょっとだけ待てない?」
「え~、あとどのくらい~?」
「この書類読み終わるまで……そんなに掛からないよ」
「やだ」
「いやいやいや! やだ、って言われても……」
「だぁ~ってぇ~、な~んにもすることないんだもん」

ひらがな喋りをさらに間延びさせながら、真宵が抗議する。

いつも以上の我儘ぶりに若干引き気味になりながらも、ある意味では何も言うことはできない。

掃除はあらかた終わってしまって、依頼人やアポイントもない今日のような日には、
真宵のやるべき事などお茶汲み位のものなのだ。

つい昨日、抱えていた案件を終わらせ、残務処理も成歩堂が手をかけるだけになった今日は、
もう真宵だけでも早く返して良いかも知れない。

(公判の疲れも溜まってるだろうしな……)

序審法廷の3日間をほとんどフルに証拠探しに奔走するのはいつもの事。

しかし今回は依頼がほぼ連続して入った事に加えて、
前回は難しい案件の上に休日返上で動き回った為に疲労も相当なものになっている。

一緒に動いてくれていた真宵も同じだろう。

あまり無理はして欲しくない。

「仕方無いなあ……」

成歩堂はやれやれ、といった様子で財布を取り出し、中身を確認する。
まだ今日の昼食代くらいは入っている。

「う~ん」

どちらにせよ依頼料の振込の確認をしに行かなければならない。

(無事入っていたら今日は奮発してあげても良いかもしれないな……)

そして昼食が終わったら、そのままあがってもらおう……

そこまで段取りを組み立てると、成歩堂は椅子から立ち上がり大きく伸びをした。

「じゃあ、ちょっと早いけど銀行に寄ってからお昼に行こうか」
「ほんと!? やったぁ!」

真宵の眼がパッと輝きを増す。
隠すことのない現金さに、成歩堂も隠すことなく特大の溜息を吐いた。

勿論、真宵に気にする様子は無い。しかし……

「今日は、その後はあがっていいから支度しておいで」

何気なく発せられたその言葉に、ふっと真宵の眉根が寄った。

「なるほどくんは?」
「僕は、もう少し書類整理が残っているからね……でもアポが無ければ定時であがれると思うよ」
「……」

Tururururu……
真宵が何かを言いかけたと同時に事務所の電話が鳴り響く。
真宵は言いかけた言葉を飲み込むと、電話を取りに所長室から出て行った。

その微妙な表情に気付いたものの、成歩堂はそれ以上大して気にも留めずに外出の準備を続けた。

「はい、成歩堂法律事務所です」
「真宵君かね? 御剣だ」
「あ、ミツルギ検事!」

受話器から聞こえてきた声に、真宵は思わず声のトーンを跳ね上げかけ……

そして何故か慌てて息を潜め、所長室の方を伺う。
何も変化が無い事を確認すると、詰めていた息を吐き出した。

御剣は何も感知していないかのように、真宵に要件を切り出した。

「成歩堂の様子はどうだろうか?」
「ええ、今は書類の整理をしてます……でも……」
「……うム、それで?」
「……で……」
「……」
しばらく声を潜めた会話が続く。
「……というわけで、今から食事に行こうって……でもなるほどくん、疲れてるみたいだし……なのに私にはあがっていいって……」
「そうか……」

小さな溜息が受話器の向こうから聞こえてきた。
同じような溜息を真宵も吐いてしまう。

「事情は了解した。成歩堂と換わって貰えないだろうか」
「はい、解りました」

真宵は電話を保留にすると、コートを片手に所長室から顔を覗かせた成歩堂に声をかけた。

「なるほどくん、ミツルギ検事からだよ」
「え、御剣?」

差し出された受話器を受け取りながら、成歩堂はちょっと驚いたような顔をした。
だが、それ以上は何も言わず、保留を解除する。

「もしもし」
「成歩堂か」
「うん、って言うかどうしたんだ? 事務所の電話に掛けてくるなんて」
「ああ、真宵君に少し聞きたい事があったのでな。携帯が判らなかったのでこちらに電話させてもらった。すまないな」
「いや、それなら別にいいよ。でも珍しいな。こんな時間にさ」
「別に他意は無い。君の声が聴きたくなったのだ」
「昨日まで法廷でさんざん聞いていたのにか?」

少しばかりからかいを混ぜて成歩堂が言う。

「それは弁護士としての君の声だ。今はプライベートで恋人の声が聴きたくてな」

しかし御剣は意に介さず、さらりと言ってのける。
そのセリフに成歩堂の顔が微かに赤らんだ。

わざとらしく咳払いをしてから言葉を返す。

「はっきり言うよな、お前って……僕も嬉しいけどさ……でも、それだけで掛けてきたわけじゃないんだろう?」
「ああ、昼をどうだろうと思ってな。勿論、真宵君も一緒に……」
「それ、真宵ちゃん喜ぶとおもうけど……」
「心配は要らない」

言外に匂わせたニュアンスを汲み取ったのだろう。
受話器の向こう側で微かに笑う気配がした。

「どちらにせよ、昼時はどこも混むしな。こちらの方から弁当でも買って行こう」
「御剣……今出先?」
「ああ、研修会で、な。さっき終わったところだ。昼から懇親会があるがそちらの方はキャンセルした」
「良いのかよ、そんなことして」
「構わない。意義など無いも同然だからな」

怖いことを事も無く言い切り、さらに言葉を続ける。

「それよりも有給を取って君と過ごす方がよっぽど有意義だ」
「検察局きっての天才検事の言葉とは思えないな……ま、いいけどさ」

オーバーワークの激しい御剣だから、たまには休暇を取るのも必要なことだろう。
敢えてそれ以上は突っ込まずに話題を変える。

「でも、弁当買って来るって……」
「何か?」
「いや……イメージ湧かないなあ、って」
「くだらないことを言ってないで、何かリクエストが有るなら言いたまえ」
「ううん、僕は別に無いよ……あ、ちょっと待って……真宵ちゃん、御剣がお弁当買ってきてくれるって。何かリクエストある?」
「大盛りがいい!!」
「どんな弁当の?」
「なんでもいいよ!!」
「……だそうだけど……」
「ククッ……了解した。大盛り、だな。君は? 本当に何でもいいのか?」
「贅沢は言わないよ。飲み物はこっちで用意しようか? 紅茶?」
「いや、今日は緑茶が良いな。今から向かう。12時ごろには到着するだろうから待っていたまえ」
「了解。気を付けてな」

電話を切って振り返ると、真宵が大きな眼を期待で一杯に見開いてこちらを凝視していた。
その様に思わず笑ってしまう。

「御剣がお弁当買ってきてくれるんだって。良かったね、真宵ちゃん」
「うん、ミツルギ検事のお弁当、楽しみだなー」
「そうだね……(ちょっとイメージじゃないけど……)真宵ちゃん、お茶の準備してもらってもいい? 僕はもう少し事務処理するから」
「うん、いいけど……まだ掛かるの? 何か提出するものあったっけ?」
「いや、提出書はもうあがってるから大丈夫だよ。するのは裁判の記録さ。溜まってしまわないうちにやっておかなきゃ後が怖いからね」
「ふうん……」
「じゃ、頼んだよ」

成歩堂はそう言って軽く片手を挙げると、そのまま所長室へと戻っていった。

その後ろ姿を見送った真宵の表情が心持ち沈む。

「なるほどくん……」

顔色はさほど変わったように見えないし、態度もいつも通り……
心配は要らないのかも知れないが、裁判が結審したのはつい昨日の事だ。
疲れはまだ取れていないはず。

実際、朝の一番に元依頼人が挨拶に来て成歩堂を呼びに行った時、彼はデスクに両肘をついて船を漕ぎそうになっていた。
真宵の呼びかけにすぐに目覚め、元依頼人の前では居眠りの痕跡など見せたりしなかったが……

「あんまり……無理しちゃだめだよ」

小さく呟き、真宵はお湯を沸かすために給湯室へと入っていった。

 

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