風邪引きさんの攻防戦 後編

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身体が痛い……
異様な寒気と身体中の関節に走る痛みに、成歩堂は呻きともつかない声を上げる。
誰かが会話している声が遠くで聞こえ、成歩堂はうっすらと眼を開けた。

「インフルエンザではありませんが、肺炎を起こしかかっていますので……」

ぼんやりした視界の中で、誰かが誰かに説明をしている。

「……そうですか……それでどのくらい時間が……?」

聞き慣れた声に、一人は御剣だと判断する。
もう一人の声がかなり時間が掛かる事を告げると、

「解りました。その時間に間に合うように来ますので……」

ま、待ってくれ……

そう言おうとしても声が出ない。
出てきたのは苦しい吐息にも似た呻き声だけだった。

身体を動かそうにも指一本動かすだけで身体中に悪寒が走る。
酷使され続けた身体は疲れを訴え、成歩堂の意識を再び眠りへと引きずり込もうとする。

たかだか風邪くらいで、情けない……

自由にならない自分の身体に歯痒さを感じながらも、再び瞼が重く閉じられていくことを止めることができない。

「では、のちほど……」

言ったのは誰の声か……

判断ができないまま、成歩堂の意識は再び深い眠りへと沈んでいった……

 
次に気が付いたときには、成歩堂は既に御剣の部屋のベッドの上にいた。

「あ……、あれ……?」

はじめは状況がうまく飲みこめず、ぼんやりと天井を見上げ成歩堂は二、三度眼をしばたいた。

「僕……どうしてここに……?」

カーテンが引かれた窓に眼をやれば、まだ外は明るい。
陽はまだ落ちてはいないようだ。

成歩堂は時間を確認しようと腕時計に眼をやろうとして、それが腕から外されている事に気が付いた。
それどころかいつも使うパジャマに着替えさせられている。

ドアが開く気配に眼をやると、御剣が顔を覗かせた。

「目が覚めたか……?」
「あ、ああ……」

成歩堂の返事に少し安堵したように微笑して入ってくる。

「気分はどうだ?」
「うん、もうだいぶいいよ……いま、何時?」
「もうすぐ4時だ」

答えながら御剣はベッドサイドに腰掛け、成歩堂の顔を覗き込んだ。

「少し落ち着いたようだな……良かった」
「うん、ごめんな、迷惑かけて……って、あれ……?」

あまりに御剣が自然に接するものだから失念していたが……

「御剣……仕事は?」

見れば御剣は完全に普段着姿だ。
しかもシャツの袖まで捲っている。

「重要な案件は片が付いている。今日は事務処理が殆どなのでな、持って帰ってきた」

当たり前のように答えて、御剣はサイドテーブルに用意してあった薬を手に取った。

「ふム……」

説明書きを確認し、薬を取り出す。

至極当然のように準備をする御剣に、成歩堂は思わず待ったを掛けた。

「いやいやいや! 御剣、まさか僕の為に仕事休んだのか!?」
「少し違うな……休んでいない。執務室からこちらに移しただけだ」
「いやいや! それってでもぼくのせ……ッ、ゲホッ!」

思わず大声を出したせいでまたもや激しく咽る。
治まっていたせいで咳の事をすっかり忘れていたのだ。

「…………馬鹿者、暴れるな。
インフルエンザでは無かったが、あともう少しで肺炎を起こすところだったのだから……」

御剣は身を折って咳き込む成歩堂の背を擦りながら咳が収まるのを待ち、
額に貼っている冷却ジェルの具合を確かめる。

「熱は少し下がったようだが……今日はもう横になっていたまえ」

楽なように寝かせると軽く汗に濡れた髪を梳く。

成歩堂はその手の温もりにうっすらと眼を閉じる。

しかし、どうしても素直に頷くことは出来なかった。

このままでは御剣に迷惑が掛かってしまう……いや、もう既に掛けてしまっている。
だからこそこれ以上負担にはなりたくない……

自分だってもういい大人だ。風邪を引いていたって、自分の事は自分でやらなければならない。

成歩堂は眼を開けると、真っ直ぐに御剣を見つめた。

「僕、やっぱり自分の家に戻るよ……お前にうつす訳には行かないしさ」
「……成歩堂?」
「もう、いい大人なんだしさ、自分の事くらいはやんなきゃね……そうじゃなくても病院……
そうだ、病院の費用……」

考えてみればずっと眠ったままで、いつの間にかここに連れてこられてしまっていた。

「病院に着いた時にはもう君の意識は無かったからな」
「どうして起こしてくれなかったんだ」
「起こせる状態ではなかった。
もっと端的に言えば何度か意識は戻ったが、殆ど朦朧としていたから、そのままにしておいたのだよ……
その様子からすると覚えていないようだな」
「そ、そんな……」

まったく覚えていない。

成歩堂は焦ってここに来るまでの事を思いだそうとした。
しかしほとんど何も思い出せない。熱とはまた違う冷や汗が出る。

表に現れた焦りを見ながら、御剣は少し意地悪く笑った。

「その状態で良く自分の事はやるなどと言えるな、弁護人? 今朝は朝食は取れたのかね?」
「うん、一応は……」

ここで摂っていないことがばれると何を言われるか分からない。

(いやいや……薬飲まなきゃいけなかったし、だからゼリーは確かに口にしたし……)

それも食事と言ってもいい……はずだ……

「ほほう……」

と、御剣の口元に恐い笑みが浮かんだ。
冷笑ではない、引き攣ったような微笑みに成歩堂は思わずたじろぐ。
御剣はその恐い笑みのままズバリと言ってのける。

「○ィ○―inゼリーを一袋……でもか?」
「エッ……!?」

思いっきり銘柄まで言い当てられ、成歩堂の血の気が引く。

「ど、どうして!?」

言ってない筈なのに……
御剣のこの余裕の笑みはハッタリなどではない。
明らかにしっかりばれている。

「チェックメイト、だ。成歩堂……これで証明完了だ」
「ハァっ!?」

眼を文字通り白黒させる成歩堂に、御剣は冷笑じみた笑みのまま種明かしをする。

「教えてくれたのは君自身だ、成歩堂……診察の時に、な。どうやら全く覚えていなかったようだな。
まあ、あの時には高熱で殆ど意識も無かったから無理も無いが……」
「…………ううう」
「つまり君はもう殆ど自分で何もできない状況だった。それを自分で証明してしまったな」
「うう……い、異議、あり」
「まだ諦めないか……なんだ?」
「あの時は、その……多分御剣が連れて行ってくれたから油断したんだと思う……」

成歩堂はもじもじと小さく呟いた。

「自分で行ったなら、たぶんもう少しましだったと思うよ……」
「移動中に倒れる事は無かった……と?」
「うん、多分、御剣だったから安心しちゃったんだよ……寝るつもりは無かったんだけど」

そう、これ以上迷惑を掛けないために、起きているつもりだったのだ。
病院までは世話にならざるを得ないとしても……

「病院行ったら、そのまま帰るつもりだったから……自分で」

送って貰ったら、お礼を言って後は一人でするつもりだった。
それなのに、車に乗せられ、眼を閉じた途端に意識が無くなってしまったらしい。

「それだけ私を信頼してくれているのならば、喜ばしい事だな」

御剣の口元から冷笑が消え、代わりに眼が優しく細められる。

「心配しなくても、君が起きていたところで結果は同じだった。むしろ君が眠っていてくれて助かったくらいだな」

それに、眼を閉じさせてしまえばすぐに気を失うだろうことも充分に予測できていた。
むしろそれを狙って眼を敢えて塞いだのだ。
そのくらい成歩堂は既に限界だった。

「そんな……でも、大変だっただろ? 僕も小さい方じゃないし……」

それどころか身長だけで言えば殆ど同じだ。

しかし御剣は「そんなこと……」と小さく呟き、頭を振った。

「君は軽いからな……そこは問題ではない。
それに待ち時間がそれなりに長かったのでな、起きていて苦しむ姿を見るよりはましだったよ」
「あうう……」

つまりは本当に殆ど記憶にないと言う事だ。
成歩堂は頭を抱えたくなった。

つまりその「それなりに長かった」待ち時間の間、御剣はずっと成歩堂に付添っていたことになる。

「それよりも無理にでも起こしてくれればよかったのに…………わざわざ無理に付添わなくても……」
「いいや、誰かがしっかり付いていてやらなければ、君はいつ脱走するか分かったものではないからな……
そして私はその役目を他の誰にも譲る気は無い」

言いながら髪を梳き続けていた手を離し、成歩堂の肩に上掛けを掛けなおす。

「さあ、もう観念したまえ……
もう一つ付け加えておくならば、あの時君が眠らなかったなら、その唇を塞いでしまうつもりだったのだよ……
だから結果は同じだ」

とんでもない事をさらりと言って、御剣は軽く上掛けを叩く。

成歩堂は何も言えずに口をパクパクさせた。

御剣は元々真っ直ぐな性格だ。真っ直ぐすぎて不器用なほどに……
その御剣が言うのだ。
本気で実行しかねない……いや、きっとする……
あんな状態でキスされてしまえば、落ちるどころか気絶してしまっただろう。

だから結局は同じ結果にしかならない……

「もう……御剣には勝てないな……」

法廷ではいざ知らず、人の運命が掛からないプライベートでは御剣に成歩堂は一切勝てない。

「君との戦いは法廷だけで充分だ。恋人としてくらいは華を持たせてほしいものだな」

言いながら御剣はクスクスと笑い、軽く唇にキスを落とした。

「さあ、薬を飲まなければな……食欲はあるか?」

成歩堂は一瞬どう言おうか迷ったが、強がることを止め素直に首を横に振った。

「まだ、あまり欲しくない……少し喉は乾いたけど……」
「うム、解った……ではお粥でも作って来よう」

言いながらベッドサイドに用意してあったボトルの水を手に取ると、
成歩堂の身体を少しだけ起こして、飲み口を差し付けた。

「良いって……自分で飲めるから……」


そう言いながらも成歩堂は小さく笑い、両手を御剣の手の上に添えて水を口にした。

心地良い温度の水が火照りを帯びた身体にスッと染み渡って行く。
熱も先ほどよりも下がったのだろう。
ずっと感じていた関節の痛みは気付いてみればもうあまり感じられなかった。

3分の1ほど飲んだところで成歩堂が息を吐く。

「もう良いのか?」
「うん、ありがと」

御剣は頷くと成歩堂を再び寝かせる。
成歩堂はもう抗う事もせず大人しく横になった。

それを見て満足げに微笑み、次いで御剣は困ったように苦笑した。

「私は風邪を引いたことがあまりなくてな……生憎、看病の仕方が解らないのだ」
「別に気にしなくていいよ。こうやって傍に居てくれるだけでさ……」
「そうか……だが、寒かったりしたら遠慮なく言うのだぞ? 
あと、欲しい物とかして欲しい事が有ったらちゃんと言ってくれ」
「そんな我儘ばかり言えないよ……って言っても、無駄なんだよね……?」
「その通りだ。やっと解ったか……
どちらにせよ君はしばらく毎日通院だそうだから、我儘になるしかないのだよ」
「何? その理屈……って、通院って?」
「インフルエンザでは無かったが、咳をし過ぎたようだな。
高熱が出ていたのは肺炎のせいだったのだ。その治療に一週間の間通院が必要らしい」
「一週間……も?」

驚いて眼を見開いてしまった成歩堂に、御剣はすっと眼を細めて半ば睨みつける。

「これでも軽く済んだ方だそうだ。もしあともう少し行くのが遅かったならばこれでは済まなかった……
君は一か月の通院と二週間の入院、どちらを希望するかね?」
「あうう……」

出来ればどちらも御免こうむりたい……

黙り込んでしまった成歩堂の表情を観察しながら、御剣は勝利を確信したような笑みを浮かべた。

「そう言う事だ。ここで大人しく静養して、身体をしっかり治す事……それが復帰への一番の近道なのだよ」
「それは解ったよ……でも、それと僕が我儘になるしかないって、どう繋がるのさ」

大人しく負けを認めたふりをして、やはり尚も成歩堂は食い下がる。
しかし、その反論が来ることも既に計算済みだったのだろう。
御剣は余裕の笑みを崩さずにやれやれ、と首を振った。

「まず二日間は薬を飲ませて静養させるように医者から言われている。勿論仕事もダメだ。
部屋を暖かくして充分に栄養を取らせること。
言っては悪いが空調に関しては明らかにここの方が整っているからな。
栄養に関してもその身体では粥の一つもまともに作れまい?
それにそもそも起き上がれる身体ではないのだから、君は我儘になるしかないのだよ」
「強引な論法だよな……」
「そうでもないと思うが?」
「でも、お前が仕事の時とかまでは我儘言えないだろ? 僕に付きっ切りって訳にもいかないんだしさ」
「その時には真宵君にでも君の事を頼むとしよう。ただ、今日明日はここでも仕事は出来るからな。
そこは心配ない」
「良いのかよ。検事局って暇じゃないんだろ?」
「私に回ってくる事件が多かっただけだ。
それに君はあまり知らないだろうが、仕事の大半は本来事務処理だからな。
自宅のパソコンと繋げば、ここでも充分に仕事は出来る」

会話をしながら、御剣は成歩堂の額に貼ってあった冷却ジェルのシートを取り換え、
置いてあったタオルで浮かんだ汗を拭いた。

時計を確認して立ち上がる。

「さあ、後はもう大人しく寝ていたまえ。少し食べるものを持ってくる」
「うん……」

成歩堂はついに観念して頷いた。
御剣は言い出したら最後、絶対に引かない。
そして成歩堂自身も、これ以上反論するだけの体力は残っていなかった。

「どうだ……少しは何か食べたいものは出てきたか?」

優しく問われ、成歩堂は小さく笑うと頷いた。

「梅のお粥が食べたい……お茶漬けの素でもいいから……」

素直に出てきた要求に、御剣は心底嬉しそうに微笑むと、

「解った。では少し買い物に行ってくる。君はゼリーが好きだったな……ついでに買って来ようか?」
「じゃあ、お願いしようかな……ありがとう」
「うム……他には何か欲しい物は?」
「今の所はそのくらいかな……」
「では、行って来るとしよう。大人しく寝ているのだぞ」
「了解……気を付けてね」

御剣は満足げに微笑んで頷き、成歩堂の髪を一撫ですると額に軽くキスを落として出て行った。

「ほんとにもう……御剣ったら……」

ドアの方を見ながら、成歩堂は小さく苦笑してそう呟く。

自分が一つ我儘を言っただけで、あの喜び様……
しかし本当はそれも分からなくはない。


もしも自分が同じ立場だったら、こんな時くらい頼って欲しいと思うだろうし、
して欲しいことが有れば出来る限り叶えようとするだろう。

たまには良いのかもな……
あんなに喜んでもらえるのなら……
小さな我儘くらいは言ってみても……

そう思い、成歩堂は小さく笑うとゆっくりと眼を閉じた。


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