風邪引きさんの攻防戦

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「ゲホンッッ!! ……ゴホッ! ごほごほっ!!」
「……もう、無理しないで帰っちゃえばいいのに」

所長室から聞こえてくる盛大な咳に、真宵は応接室でこちらもまた盛大に眉をしかめる。
時折思い出したように起こる咳は朝よりも更に頻繁に、激しくなっている。

朝から傍で見ても判るほどにビリジアンな顔色で出社してきた成歩堂に驚き、
早く帰るように口煩く言ってはみたものの……

『風邪薬飲んだから……ほら、マスクもちゃんとしてきたし……』

誤魔化しているつもりか、ヘラッと見えている目元だけで笑って見せると
成歩堂はとっとと所長室に入って行ってしまった。

それから二時間近く……咳は止むどころかますます酷くなっていく一方だ。

正直、聞いてる方も肩が凝ってきてしまう。
視ているテレビの音すら聞き取れなくなりそうだ。

「こうなったら救急車でも呼んじゃおうかな……」

熱いお茶を啜りながら、半ば本気で真宵はそう考えた。
自分たちのお茶うけに置いてあった煎餅をバリッと噛み砕き、咀嚼しながら所長室の音に耳を澄ませる。

「グシュッ……ぅ~~」

どうやらくしゃみも始まったらしい。

生姜でもあれば、湯に溶いて砂糖と秘薬でも入れて飲ませるのだが……

生憎事務所には生姜なんか置いてないし、秘薬も里の蔵の中だ。
しかし放っておけば、成歩堂は間違いなく定時まで居続けるだろう。

ならばいっそ、仮眠室に押し込んでしまおうか……

頼みの御剣にメールを入れたものの、一時間経っても返事はまだ来ない。
仕事が仕事だから仕方は無いが……

御剣があてにならないならば真宵が何とかするしかない。
気分を変えるために、取り敢えず自分と成歩堂のお茶を入れ替えようかと真宵が席を立ったその時、

カチャ……

所長室のドアが開き、成歩堂が顔を出した。
朝見た時よりも案の定ますます顔色が悪くなっている。

「げほっ……真宵ちゃん……ゴホッゴホッ……今日はもう帰って良いよ」
「なるほどくん、帰るの?」

真宵は、とうとう成歩堂が観念したか、と、一瞬期待を持ったが……

首を振りながら続けた成歩堂の言葉に見事にその期待は打ち砕かれた。

「うつしちゃ大変だからね……コホッ……今日は特別には何もないし、さ……」

それだけ言うのも辛いのか、肩で大きく息を吐く。

「でも、私が帰っちゃったらなるほどくんはどうするの? まさか事務所開けとくつもり?」
「いや……今日は、、、事務所は閉める、よ……コホッ…流石に依頼人にうつす訳には、いかないからね」
「閉めるんだったら、もう病院に行って帰ったら?」

足元が覚束なくなってきている成歩堂を、支えるように腕を取りながら、半ば怒ったように真宵が言い募る。

「なるほどくん大きいんだから、倒れちゃったら私じゃどうにもできないよ」
「あはは……大げさ、だ、な……倒れるくらいだったら来てないって」
「…………それはどうだろうな」

押し問答のようになってしまった二人の会話に、唐突に別の声が割り込んできた。

「ミツルギ検事!」
「……ッ、ゴホッ……御剣!?」

いつの間に到着していたのか、ドアの入り口に御剣が文字通り仁王立ちしていた。

眉間の皺が3割増しになった表情は、見慣れた者でもかなり恐い。

「な、何でここに……? おま、げほっ!え……し、ご、と……ごほごほごほっ!!」
「咳をするか話すかどちらかにしたまえ。聞くに堪えんぞ!」

眉間の皺を倍増させたまま御剣はつかつかと歩み寄ると、やおら成歩堂の腕を掴みソファに強引に座らせる。その無理矢理な動きに、成歩堂は堪らず息を吸い込んでしまい盛大に咽た。
無理に抑えていた分反動がひどく、身を二つに折って咳き込む。

「……真宵君、体温計は有るだろうか」

その成歩堂の様を怒りと心配のないまぜになったような瞳で見下ろしながら、御剣が真宵に尋ねる。

「はい、持ってきます!」

速攻で頷き、真宵が仮眠室へと駆け込んでいく。

「ま、真宵、ちゃん、か……? 連絡したの……」

咳がやや収まり、成歩堂は切れ切れの息で御剣にそう尋ねた。

「確かにメールは受け取った。君が風邪で辛そうだ、とな」

御剣はそう答えながら成歩堂の前に膝を付きそっとその肩を支える。

「まったく……真宵ちゃんったら……」

言葉が続かず眉根を寄せる成歩堂の背をゆっくりと擦りながら、御剣は苦笑を滲ませた声で笑った。

「真宵君を責めるな……どちらにせよ、私も確認を取ろうと思っていたのだから」
「えっ……?」

真宵をフォローしているのか、と、成歩堂が顔を上げた時、

「これでいいですか? ミツルギ検事!」

真宵が体温計を手に戻ってきた。
中を取り出し、御剣に差し出す。

「うム、ありがとう」

御剣は頷くと成歩堂の隣に座り、背を擦っていた手を肩に回すとがっちりと抱き寄せた。

「な、……なに……ゲホゲホゲホッ……」
「騒ぐな。じっとしていたまえ」

反抗を命令で封じ、成歩堂のネクタイを手早く緩め、シャツのボタンを二つ三つ外す。
そして真宵から体温計を受け取ると、それを成歩堂の脇に無理矢理ねじ込んだ。

「2日前、裁判所で君を見かけた時に、どうも様子がおかしいとは思っていた」

体温計を固定させるように腕をしっかり抱き込みながら御剣は呟いた。

「昨日まで、私の方も公判が有ってな……
君も裁判が昨日まであったと聞いて今日、連絡してみようと思っていたのだよ」

入って来た時の怒りは薄れ、心配が大きく表面に出た顔で、御剣は真宵の方に視線を流す。

「すまなかったな、真宵君。君のメールはすぐに見たのだが、会議中で返せなかった」
「そ、そんな……いいんです! 来てくれただけで……」

何よりきっと来てくれると信じていた。
だから……

PiPi……

計測終了のアラームに御剣は成歩堂が反応するよりもはるかに素早くそれを取り上げた。

表示された数字を確認して、その眉間に更に皺が刻まれる。

「馬鹿者が……」

小さく悪態をつくと、成歩堂の目の前にその数字を突きつけた。
それを確認させられ、成歩堂は思わず目を伏せた。

「もう、一切の異議は認めんぞ」

体温計を真宵に返しながら、恐いともいえる目つきで成歩堂を睨む。
しかし成歩堂はいやいやをするように首を振った。

真宵は体温計の数字に眼を落とし、仰天してしまう。

「さ、……39度超えてるじゃない!」

これではもう仕事を続けるかどうかの話ではない。
御剣は肯定するように頷くと、成歩堂を拘束したまま真宵に指示を出した。

「真宵君、成歩堂のコートを持って来てくれたまえ。このまま病院に連れて行く」
「はい! あの、荷物は?」
「後で重要な物だけ取りに来る。厳重に戸締りをして、鍵を私に預けてくれたまえ」
「わかりました!」

二つ返事で勢いよく事に取り掛かった真宵に、成歩堂が慌てて待ったを掛ける。

「ま、待って! まよ……ッッ! げホゴホゴホ……ッ!」
「異議は全て却下だ、成歩堂。強情な我儘は一切認めん」
「っみ、、、、みつ……!?」

咳き込みながら見上げる完全に涙目になった黒い瞳を見つめ返しながら、
御剣は敢えて低温の声で宣告する。

「今日は私の我儘を通させてもらう。君には従ってもらうぞ」
「だからって、お前の手を……煩わせたくない……よ……」
「そう思うならば大人しくしたまえ。そうすれば必要最小限で済む」
「……なんだよ、それ……もし、お前にうつったりしたら……」

一時的に咳が収まったのか、成歩堂は尚も何かを言い募ろうとする。
しかし朦朧とし始めた頭ではうまく言葉が構成できない。
咳をし過ぎて乱れた呼吸は整わず、削ぎ落とされた体力は限界を迎えていた。

「……なるほどくん、大丈夫ですか?」

戸締りを終えた真宵が、成歩堂のコートを持って帰ってきた。

それをすぐに受け取り、御剣は成歩堂の身体をそのコートで包み込んで抱き上げる。
殆ど力を失った成歩堂は御剣になされるがままだった。

その様を真宵が心配そうに見つめる。
御剣はそんな真宵に頷いて見せた。

「成歩堂はすぐに病院に連れて行く。君は今日は帰りたまえ。結果は後で連絡をしよう」
「はい」

段取りを示し合せると二人は成歩堂を連れて事務所を出た。
そこで鍵を御剣に預け、真宵は帰って行った。

御剣は成歩堂を駐車していた車まで運ぶと、
成歩堂を横抱きにしたまま器用にドアを開け、助手席に降ろした。
車のシートを倒し、成歩堂に楽な姿勢を取らせてからさしあたりベルトを掛ける。

「少し苦しいだろうが、我慢してくれ」

初めに見せた激情がすっかりなりを潜めたように優しく微笑みながら、
御剣は汗で濡れた成歩堂の髪をそっと撫でた。

成歩堂はその手つきに少し落ち着いたようにうっすら目を細めると、小さく頷いた。

「うん、大丈夫…………ごめんな」

御剣はそれに頷き返し、自分もすぐに車に乗り込む。

エンジンを掛け、もう一度成歩堂が寒くないように自分の着ていたコートを掛けると、
自分をじっと見つめる成歩堂と目が合った。

「ほんと……ごめん」

閉じ掛かる眼を何とか開けてそう言う恋人に、御剣は優しく微笑み首を振る。

「気にするな……これは私の我儘だ」

小さく囁き、左の掌で成歩堂の眼を覆う。

「! ……みつるぎ?」
「眠らなくていいから、しばらく目を閉じていたまえ。少しは違うだろう……」

「…………」

小さく頷くとともに成歩堂の眼が閉じられる。
それを確認してから手を退けても、成歩堂が眼を開ける事は無かった。

そしてすぐに聞こえてきた小さな寝息……

「それでいい……後は休んでいたまえ……」

成歩堂が眠りに落ちたことを確認して、声に出さずにそう呟くと、御剣は静かに車を発進させた。


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