明日に架ける橋・中編

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「早速練習をしよう」
御剣の提案でそのまま成歩堂は御剣の家に拉致されてしまった。
「そんなこと言ったってお前、伴奏ってどうするんだよ」
御剣がピアノが弾けることそのものも初耳だが、
「お前の家にピアノなんてないだろ?」
防音のしっかりした部屋であることは既に証明済み(!)であっても、肝心のピアノそのものをみたことが無い。
「うム、それは心配いらない」
涼やかに笑ってそうのたまうと、御剣は途中にあった楽器店であっさりと電子ピアノと、ついでに楽譜まで購入してしまった。
(こいつ、本気だ……)
それにしたってたかだか親睦会の余興のために、これだけの出費を厭わないなんて……
(僕じゃ絶対に無理だ)
そんなお金があったら、速攻で家賃に充ててるよ……
そんなくだらないことを考えているうちに、御剣のマンションにたどり着いてしまう。
促されるままその部屋の前に至って初めて、成歩堂は夢から覚めたようにハッとなった。
「いやいやいや! 待った!」
本気でこんなところで練習する気だろうか。
あることに思い至り思わず上がった大声に、鍵を開けようとしていた御剣の動きが止まる。
「どうかしたのか?」
冷や汗が滝のように流れる成歩堂を不思議そうな顔で御剣が見やる。
「本気でここで練習する気……?」
「そのつもりだが……何か問題でも?」
それとも君の家のほうが良かっただろうか……?
真顔で言われ、成歩堂はさらに真っ青になって思いっきり首を振る。
「と、と、とんでもないッッっ!!」
「ならばここでもよかろう」
成歩堂が何を慌てるのか理由がわからず、御剣はあっさりとそうのたまうと鍵を開けてさっさと中に入ってしまった。
「どうなっても知らないからな……」
小さくそう呟くと、成歩堂は深々と溜息を吐いた。
御剣はそんな成歩堂の戸惑いを後目に着々と準備を進めていく。あっという間に書斎に使う部屋が急ごしらえの仮スタジオへと変貌した。
「御剣、本当に伴奏するの……?」
椅子に軽く腰掛け、電子ピアノに向かって位置を調整する御剣に向かって、成歩堂は往生際悪く再三の確認をする。
御剣は沈黙したままその長い指を鍵盤に置くと…………
(…………うわあ)
流れるようなタッチでその指を滑らせ始めた。
(す、すごい…………)
弾いている曲はカノン……成歩堂にも聞き覚えのある曲だった。
風のようなメロディーが淀みなく紡がれていく。
(これならわざわざ僕が出なくても……)
十分に御剣だけでいけるんじゃないか…………?
実際想像すらしていなかった。
ピアノを奏でる御剣の横顔は穏やかで、その指運びに危なげなところはない。
完璧なる美しさ…………
(ずるいよな……狩魔はこんなところさえも完璧なのかよ)
今更嫉妬も湧かない……
しかし次の瞬間、成歩堂の耳に別の音が蘇る。
混声四重唱……そしてそのテノールパート
四人いて初めて成り立つ歌ではあるが…………
いつの間にか成歩堂はその音に合わせて歌いだしていた。
(…………! 成歩堂…………?)
唐突に滑り込んできた声に、御剣は思わず成歩堂のほうに目を向け…………
ゾクリ…………
ピアノを弾く腕に鳥肌が立つのを覚えた。
うっすらと目を閉じ、軽く空を仰ぐようにして成歩堂が歌っている。
まるで音楽という風に乗ってその声で舞っているようだ。
二人は結局その曲を最後まで演奏し、歌いきってしまった。
「ごめん、邪魔するつもりはなかったんだけど……」
歌い終わり、大きく息をつきながら成歩堂は小さく苦笑いを零した。
「何を謝る……?」
御剣は頭を振ると楽譜を譜面立てに置く。
「知っていたのだな、この曲を」
「そりゃあね……有名な曲だから」
そう言いながら成歩堂はハハ、と小さく笑い声を立てた。
「でもさ、御剣がそんなにピアノが弾けるなんて知らなかったよ……ホント……いっそのことお前が出ればいいんじゃないか? 充分隠し芸で通るよ」
「ム? ㇺムウ……」
茶化しではなく本気の口調で言われ、御剣の眉間に皺が刻まれる。
御剣は腕を組むとその指をトントンとさせ始めた。
「そう言いながら君は、隠し芸の役を私に押し付けて逃げるつもりだろう……?」
確認するまでもないが……
小さくそう付け加え、下から成歩堂を睨みあげる。
「…………ダメ?」
「却下だ」
「うわ、即答…………」
「…………私が君の歌を聴きたいのだ」
ぽつり、と漏らされた一言に、成歩堂は思わず御剣を凝視してしまった。
御剣は眉間に皺を刻んだまま、照れたようにその視線を下げてしまう。
「………………わかったよ」
とうとう根負けして、成歩堂は白旗を上げたのだった。
 
「少し練習させてほしい」
そう言われて了解し、成歩堂は休憩用のソファに座ってそれを眺めていた。
実際弾いたことがあったのか、一度目は少しばかりたどたどしいところがあったものの、二度、三度と繰り返されていくうちにそれは消えていった。
「すごいな、もう完璧じゃないか?」
五度目の練習のころにはもうすっかり一聴衆になってしまっていた成歩堂が、素直な賞賛の声を上げた。
「うム、まあ、こんなところか……」
ノーミスで弾き終え、御剣が軽く溜息を吐く。
「だが、問題は君がこれで合わせやすいかどうかだ」
杓子定規な物言いに、成歩堂は思わず吹き出してしまった。
「そんなに固く考えなくていいと思うよ…………さてと」
ソファから立ち上がり、成歩堂が軽く伸びをする。
「合わせてみる?」
「やっとその気になってくれたか」
軽く手をほぐしながら、御剣の口元に笑みが灯る。
「しょうがないよ、約束したからね……真宵ちゃんと……それにお前ともさ」
御剣の笑みに苦笑で返しながら、成歩堂はネクタイを緩め、シャツのボタンを二三個外した。
「でも期待はするなよ?」
「わかった。大いに期待しよう」
「うええ……」
わざとらしく青ざめて見せる成歩堂にわざとらしい冷笑で返し、御剣はイントロを弾き出した。
その途端、成歩堂の表情が変わる。
無駄な力をすべて抜くように立ち、ゆっくりと呼吸を整える。
そこには何の気負いもない…………
まるで音楽そのものの中に入り込んでいくように…………
「…………When your weary…feeling small……」
抒情的に奏でられていくピアノに、滑り込むように歌声が乗せられる。
さっきの滑らかで完成されたテノールとも、初めに聞いた声とも違う、囁きかけるような、包み込むような、寂び寂びとした声……
それは決して法廷で聞くことのできない、成歩堂のもう一つの声……
(そしてこれが、成歩堂のもう一つの顔……)
熱唱などというわざとらしさなど微塵も無い……滔滔と淀みなく、まるで舞台の上で語るかの如く…………
そこにいるのは常の成歩堂ではなかった。
「I’m on your side……oh……」
溜息のように零れる声……その口元に微かな笑みが浮かぶ。
その目は薄く閉じられ、すでに何も見てはいない。自分の世界に入り込んでいるように見えるのに……なぜかその声は紛れもなく聴くものに向けられているのだと理屈抜きで感じることができる。
魂を丸ごと慰撫するかのような響きにいつの間にか誘い込まれ、ピアノを奏でる御剣にも変化が起きていった。
身体を支配していく痺れにも似た感覚に突き動かされるように、その伴奏に抑揚が生まれる。
こんなことは初めてだった。
…………いや、初めてではないかもしれない…………
(まるでこれは…………)
法廷の時のようだ…………
知らず、御剣の口元に同じような笑みが浮かび始める。その目はすでに楽譜など追ってはいなかった。全身の感覚が成歩堂の声を追う。
二人の間で交互に音のバトンが受け渡されていく。一つでも間違えればすべてが台無しになってしまう……
その緊張感がまた、心地良い。
間奏に入る一瞬前、成歩堂と目が合った。
(さあ、お前の番だよ、御剣……)
そう、心の声が聞こえたような気がして、御剣は軽く頷き返すとそのまま成歩堂の声を引き継いだ。
力強いタッチから徐々に静かなものへと変化していく。
(すごいな、御剣…………)
水平線の向こうから現れる朝日のようなこの間奏が成歩堂は好きだった。本来はピアノのソロから静かに他の楽器が合流してきて世界が一気に広がるシーンだ。
しかし、御剣のピアノはソロのままでその世界を創り上げていく。
(…………)
本当に、このピアノだけで充分に聴かせることはできるのに…………
たとえピアノ伴奏用とはいえ、これだけの世界を創り出すのは並大抵の技量ではない。
しかしそんな思考も過ったのはほんの一瞬だった。
成歩堂はもう一度大きく深呼吸をすると、再び音の海へと乗り出した。
「Sail on silvergirl…………Sail on by……」
声音がそんなに変ったように思えないのに…………
その声はまるで聴く者の背を優しく押すかのようだった…………
たった4分52秒という短い時間に、一つの世界が姿を現し、そして消えていった。
「………………」
短くも長い夢の余韻に浸るように、二人はしばらく口をきかなかった。
「すごいじゃないか、御剣……」
沈黙を破って、成歩堂が微笑みながら御剣の肩を軽く叩いた。
「…………う、ム」
「どうした? 何か気になった?」
緩慢な受け答えの御剣に、成歩堂は不安そうに眉を顰める。その声も、表情も、いつもの彼そのままだ。
その表情を見つめたまま、御剣はやっとその口元に笑みを浮かべた。
「いや、何も…………ただ、少しばかり戸惑ってはいるが、な」
「やっぱり僕の歌、どこかおかしかった?」
久しぶりだったから喉が硬くなってるのかな…………
御剣の「戸惑い」に真剣に考え込む。つい数分前まであれだけ圧倒的な存在感で歌っていた人間と、とても同一人物とは思えない…………
(いや……)
御剣は思う。
あるいはあれこそが成歩堂龍一の本性なのだろうか……
人の魂をも根こそぎ奪っていくような歌声……
これはもう、隠し芸のレベルではないようにも思える。
御剣はその思いを正直に口に上らせた。
「君の歌がおかしかったのではない。期待するな、と言っておいて、君のその態度は矛盾とも思えるがな……実際、称賛しようにも言葉も出ない」
「それって言葉も出ないくらいひどいってことですか? 検事殿?」
「まぜっかえすな、弁護人。勿論逆の意味だ。どんな称賛も君の歌の前では色褪せてしまう……本当に、君には困ったものだ」
肩に置かれていた成歩堂の手を取り、その身体を引き寄せる。成歩堂は導かれるように御剣の膝の上に横向きに座った。
今一つ要領を得ない顔の成歩堂に、御剣はもう一度微笑んで見せる。
「君のあの声を、他の誰にも聴かせたくなくなってしまいそうだ……それなのに同時にそんな君を見せびらかしたくもある……」
言いながら、ピアノを奏でていた長い指で成歩堂の頬のラインをたどる。その指に自分の指を絡め、成歩堂はクスリと笑った。
「それって矛盾だよ、御剣」
そして次に声を立てて笑った。
「それにお前、買いかぶりすぎ。何とかの欲目ってやつだよ」
「そうか…………ならばいいが」
「そうそう、お前が思うほどには大したことないって」
そう言いながらするりと指をほどき、成歩堂は軽やかに立ち上がった。
「それよりもきっと、お前のピアノにみんな度肝を抜かれるって」
言いながら大きく伸びをして御剣を振り返る。
「あともう少し練習する?」
「…………そうだな」
夜にはもう一つの音を奏でてもらおう……
この指でもう一つの音を奏でよう……
きっと至上のものになるに違いない……
全く無自覚の恋人に思わず出そうになった溜息を苦笑にすり替え、御剣は頷くと鍵盤の上に指を置いた。

 

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