明日に架ける橋・前編

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ある晴れた平日の午後。
成歩堂の法律事務所を訪れた御剣は、一瞬ドアの前で立ち止まった。
中から歌声が聞こえてくる。
トーンから言って間違いなく男性のものだ。
「……?」
どこかで聞いたことのあるメロディーのようだが……
「……」
試しにノックして見ると、歌声がピタリと止み、代わりにパタパタと足音が聞こえた。
「あ! ミツルギ検事!」
ノックの音で既に判断していたのだろう。中からひょっこりと真宵が顔を出した。
「こんにちは! どうぞ!」
「ム、失礼する……成歩堂は?」
「いらっしゃい、御剣」
給湯室から成歩堂がひょっこりと顔を出す。
腕まくりをして雑巾を片手に、少し額に浮かんでいた汗を拭っている。
「……掃除でもしていたのか?」
「うん、まあね……」
「ひまだから!」
ね! なるほどくん!!
元気いっぱいに横から暴露されて、成歩堂は引き攣った笑い顔になった。
「いやいやいや……確かにそうなんだけどさ……」
そんなにはっきりとばらさなくても……
「いまさらでしょ! なるほどくん仕事選ぶから」
「まあ、君が暇なのはこちらとしては助かる所ではあるがな……」
「うわ、なにげにヒデェ……」
軽口を言い合いながら、成歩堂は御剣をソファに座るように促し、真宵はお茶を入れに入れ替わりで給湯室に入って行く。
「邪魔してしまっただろうか?」
いつも座る場所に腰掛けながら御剣が苦笑いを浮かべると、
「大丈夫だよ、真宵ちゃんの言う通り暇だからやってただけだから」
同じように苦笑して、成歩堂は雑巾を片付けた。
成歩堂が向かいの椅子に座ると、御剣が手にしていた袋をテーブルに乗せる。
「差し入れだ」
「あ、ありがと。いつも悪いね」
言いながら袋を覗き込む。皆で食べるつもりでいたのだろう。中にはトノサマンジュウが入っていた。
「あはは……真宵ちゃん喜ぶな」
トノサマンは御剣と真宵共通のヒーローだ。
クスクス笑いながら箱を取り出し中を開ける成歩堂に、御剣は少しチョイスを失敗したかと危うんだ。
「もしかして他の物が良かっただろうか?」
「ん? どうして?」
腕をまくったままの成歩堂が開けた饅頭の箱をテーブルの真ん中に置きながら、きょとんと御剣を見つめる。
「……いや、何でもない」
法廷で対峙する時とはまるで違う、あどけなささえ感じる瞳に眩暈を覚えそうになって、御剣は慌てて一つ咳ばらいをした。
あまりに可愛すぎて、このまま連れ帰ってしまいたくなる……
この男はどうしてこうあるのか……
体格的に言えば自分とはさほど変わらず、お世辞にも華奢とは言い難い……
確かに細身ではあるのだが、捲られた袖からはみ出ている腕を見れば意外に筋肉も付いている事が判る。
後ろに流されツンツンと撥ねた髪だってある意味男らしいし、意志の強そうな眉は精悍な印象を与える事すらある……
つまり、普通に言えば男らしい部類に完全に属するはずなのだ。
しかし今のように無防備極まりない表情で見つめてこられると、本当に20も後半なのだろうかと疑いたくなる。
有り得ない事なのだが、そんな時の成歩堂は本気であどけなく可愛く見えるのだ。
惚れた弱みと言うやつかもしれないが……
「……?」
御剣が照れてしまって視線を逸らすのを、成歩堂は小首を傾げて不思議そうに見つめる。
実際本人は御剣が何に照れてしまっているのか、全く見当がつかなかった。
たまに、どう言うわけか御剣はこうやって視線を逸らす。
照れているのは分かるのだが、いつも唐突で成歩堂には原因が読めない。
眉目秀麗で冷静沈着……御剣を知る人々の殆どがそう言う印象を持っているだろう。
冷静と言うよりも冷徹と言った方がしっくりくる時すらある。
しかしその印象が強い法廷の時ですら、ダメージを受けたりすると思いっきり顔に出たりもする。
ただ、それでも表情が少ない印象は拭えなかったが、成歩堂たちと関わっているうちに随分と感情表現が豊かになったと思う。
原因こそ分からないとはいえ、御剣の表情が豊かになって行くのは喜ばしい事だと成歩堂は内心喜んでいた。
(これっていわゆる“萌え”ってやつだよね……)
給湯室から顔を出した真宵が、半ば呆れながら溜息を吐く。
(で、なるほどくんは無自覚……と)
ある意味天然最強のバカップルだ。
いつものようにそう結論付け、淹れたてのお茶を持って給湯室を出た。
「お待たせしました~~」
敢えて軽い口調で湯呑を置けば、呪縛から覚めたように御剣が慌てて礼を言う。
「うム、ありがとう……」
「真宵ちゃん、御剣がお饅頭持って来てくれたんだ。お茶にしよう」
やはり何も感知していない成歩堂がニッコリと笑って真宵を促す。
(必殺だね、こりゃ)
ある意味天然最凶の笑顔だ。御剣限定とも言えるが……
「ありがとうございます! ミツルギ検事!」
完全にやられてしまっている御剣を現実に引き戻すべく、殊更元気に礼を言うと真宵はもう一つある椅子に座った。
「ところで、今日は何か用事?」
忙しい御剣が就業時間に成歩堂の事務所に顔を出すのはそんなに多くは無い。
たまに有給を取ったとかで顔を出すときには、大抵成歩堂を心配してである。
しかしこのところそんなに立て込むことも無く、無理も重ねてはいない。
「うム、少しばかり相談したいことが有ってな……」
御剣はそこで珍しく言い淀む。うろうろと視線を泳がせる様はどうにも落ち着きが無い。
「……? 何だよ、大変な事なのか?」
いつもと違う雰囲気に、成歩堂の眉が顰められる。
身構える成歩堂に御剣は苦笑して見せた。
「いや、大したことではないのだが……ところで今日は誰か他の者がいるのだろうか?」
「へ……? いや、僕達だけだけど……どうして?」
「さっき、歌声が聞こえたような気がしたのだが……」
「ああ、あれ……?」
お茶を飲もうとした手を止め、成歩堂が苦笑する。
「やだなあ……聞こえてたの?」
「そりゃあ、聞こえるんじゃない? 結構響いてたよ」
饅頭を口に運びながら真宵がニヤニヤと笑う。
「そんなに大きな声だったかなあ……」
「では、あれは成歩堂が歌ってたのか?」
「うん、まあね……掃除してたらつい、さ」
そう言って後ろ頭を掻く。聞かれているとは思ってなかったのか、誤魔化すような笑い声を上げた。
「ふム……残念なことをしたな……」
冷やかしなどせずに、御剣はそう呟く。
「ノックなどせずにもっと聴いていればよかった」
「うわ、それは勘弁してくれよ……」
本気で言われ、本気で焦って成歩堂は冷や汗を垂れ流す。
その様を笑みを含んだ目で見やりながら、御剣は緑茶を啜った。
「でも、なるほどくん上手だったじゃない。あたしびっくりしちゃった」
「そうだな……君は声楽もやっていたのか? 一瞬誰の声か分からなくなりそうだった」
地声と歌声は若干ながら声質が変わるものだ。
しかし完全な歌声は時に地声とはまるっきり違って聞こえることが有る。
壁一枚を隔てればなおの事だ。
「いや……やってた、ってほどでもないんだよ……ただ、ミュージカルとかも一応……さ」
成歩堂は俯きながらしどろもどろになる。
本当に自分の事となると、途端に口下手になるのだ。
「そんなことはどうだっていいだろ!? で、何の用事なんだよ!」
照れが極まって、成歩堂は誤魔化すように大きな声でそう言い、盛大な音を立ててお茶を啜った。
「うム、実はだな……今私の所属している地方検事局で、今度親睦会が企画されていてだな……」
どう言えばいいものか、と、今度は御剣がしどろもどろになりながら言葉を組み立てていく。
「……親睦会?」
「ム、そうなのだが、今回は趣向を変えようという話になって、法曹界全体での親睦会にする案が出て……」
「……まさか、あれ……?」
「君の所にも招待状が届いたはずだが」
「え、と……あれの事かな、真宵ちゃん」
「ああ、あれ? ちょっと持ってくるね」
そう言って真宵が席を立つ。
「ところで、その親睦会がどうかしたの?」
「うム、実はな、その親睦会のレクリエーションを企画しろと……」
「まさ、か……御剣に言ってきたの……?」
いかにもしぶしぶ、と言った様子で御剣が頷く。
なんて無謀な……
どうリアクションを取っていいのか判らずに、成歩堂はやや引き攣った笑顔を見せた。
確かに御剣は有能な検事だが、だからと言ってレクリエーションの企画ができるほど器用には見えない。
「私と他に数名ではあるが、な」
「あ、それなら……じゃなくって、御剣そんな暇ないだろ?」
「まあ、な。それに案件も重なってそれどころでは無かったし、部下に任せておいたのだが……」
「うん」
「どうやら隠し芸大会をすることになったらしい……」
「…………はい??」
法曹界の親睦会で隠し芸大会って……
「いやいやいや! 人集まるのか? それ!?」
「ううム……」
眉間の皺を深くして御剣が腕を組む。
その表情から成歩堂は思いっきり察しがついてしまい、溜息を吐いた。
「……集まってない訳ね」
「うム、今集めているところだが、今一つかんばしくなくてな……それで」
言おうかどうか御剣が一瞬戸惑ったその時、
「はい、これだよね、なるほどくん」
真宵が一通の封筒を持って戻ってきた。
「うん、たぶん……これだよな? 御剣」
封筒を受け取り、既に開封されていた中身を取り出す。
四つ折りにされた紙には確かに親睦会開催の知らせと、参加不参加の返信用の紙が入っていた。
「そこに一応隠し芸希望者募集の一文も入れていたのだが……」
「え……? これに……って、あ……」
確かに良く見ると告知文のはるか下に小さく何か書いてある。
「え、と……? 『隠し芸希望者募集、希望者は下記まで連絡されたし』……ありゃりゃ」
真宵がわざわざ声に出して読み上げ、呆れたような声を上げた。
「いくらなんでもこれは……」
応募するのに勇気がいるぞ……
言いかけて成歩堂は辛うじて踏みとどまった。しかし真宵は全く躊躇いをみせずにズバリと言い放つ。
「まるでチラシの端っこにある注意書きみたい……効果には個人差が有ります、みたいな?」
「ウグオッッ!!!!!」
「真宵ちゃんストップ!! 御剣が法廷以上のダメージを受けてる!!」
成歩堂が慌てて真宵の口を封じるが時すでに遅し……
御剣は白目をむきながらテーブルに突っ伏していた。そん唇は紫色に染まり、わなわなと震えている。
「御剣、落ち着いて!! それで結局、どのくらい集まってるの?」
とりなす事も容易に出来ず、成歩堂は半ば強引に話を戻そうと試みる。
「まだ、一人も……」
まだダメージから復活できずに、御剣はふるえる唇でやっとそれだけを言う。
「うわ……ほんとに?」
その表情と言葉に掛ける言葉を本気で失って、成歩堂は滝のような汗を流した。
一人としていないとなればかなりユユシキ事態だ
成歩堂はもう一度案内状に視線を落とし、更に絶句する。
「もう、あと二週間も無いじゃないか……」
……訂正。既に崖っぷちに近い……
「力になってあげたいけど……」
生憎自分にはそう言ったエンターテイメント系の才覚は無い。
唸り声をあげて考え込んでしまった成歩堂に、御剣は苦笑を漏らして頭を振った。
「いや、気にしないでくれ、成歩堂……いざとなったら部下に責任を取ってもらう」
フフフ……
ダメージから立ち直った、と言うよりも開き直ったように御剣が呟き、低い嗤い声を上げる。
「いやいやいや……御剣、笑顔が怖いって」
一つ間違えば血の雨が降りかねないダークなオーラに、成歩堂が遠慮がちな待ったを掛けた。しかし先が続かない。
まるで法廷にでも放り出されたかのような感覚に、成歩堂は眩暈を覚えた。その時、
「って言うかぁ、なるほどくん、出ちゃえば?」
唐突に切り出された言葉に、思わず二人は真宵の方に眼を向けた。
「ぼ、僕が!?」
いきなり振られて、成歩堂が素っ頓狂な声を上げる。
「でも僕、隠し芸なんて出来ないよ!」
「それはあたしがやるからさ……なるほどくんもやればいいじゃん」
「な、成歩堂……が?」
「いったい僕に何しろって言うの!? 僕に出来る事なんて弁護くらいなもんだよ?」
本気で困り果て、成歩堂はカモメのような眉をへたらせる。御剣は何も言えずにあんぐりと口を開けていた。
しかし真宵はそんな二人に余裕の笑みを浮かべ、御剣が法廷でやるようにチッチッチ、と人差し指を振って見せる。
「歌っちゃえばいいじゃない! 今みたいにさ!」
「いっ……!? 異議あり!!」
「却下だ!!」
「早エエエエッ!! って、何で御剣が却下するんだよ!!」
真宵の提案に乗ったのは意外にも御剣の方だった。
速攻で異議を却下され絶句する成歩堂を余所に、御剣と真宵が盛り上がって行く。
「それは名案だ、真宵君。あれだけ歌が歌えれば充分に隠し芸で通るぞ」
「でしょう?? いつも軽く歌ってるだけだけど、結構上手いんですよ。あ、でも……」
真宵は思案するかのように斜め上を見上げて唸り声を上げた。
「伴奏はどうします? カラオケじゃ何か味気ないですよねえ」
「うム、その点は問題ない」
腕を組みながら御剣もまた考えを纏める時のポーズをとる。
「成歩堂にばかり荷を負わせる気は無い。私が伴奏をしよう」
「えっ!! ミツルギ検事、何かできるんですか?」
「うム、ピアノくらいならばな……先ほど成歩堂が歌っていた曲ならば知らない事は無い。それでどうだろうか、成歩堂」
「う……」
二人に熱く見つめられ、成歩堂は滝のような冷や汗を流しながら頭をフル回転させていた。
どうにか逆転する方法は無いか……
しかし、まともな反論も思いつかず、出てきたのは陳腐な悪あがきだった。
「僕なんかが出てもしらけるだけだよ……ブーイング出ても知らないからな」
「それはそれで受け狙いで良いじゃない! はい、なるほどくん! あきらめる!」
「………………ううう」
結局真宵には勝てないのだ。
「君は必ず私が守って見せよう」
「何から守るんだよ…………」
その上御剣にまで敵に回られては、全く勝つ見込みは消え失せてしまった。
「どうなっても知らないからな…………ほんとうに」
不満げにブツブツと呟くと、成歩堂は盛大な溜息を吐いた。

 

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