赤きナイトと青きポーン・1

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夜は完全に更けていた。
コンビニを通り過ぎてしまうと、事務所まではもう薄暗い街灯ぐらいしか灯りと呼べるものは無い。

そんな暗い道を成歩堂は一人歩いていた。

「あーあ……やっぱり遅くなっちまったな」

携帯電話で確認すれば、もう夜中の2時を回っている。
昼間はそこそこある人通りもさすがにきれいに途絶えていた。

「早く帰って纏めないと間に合わないな」

夜が明ければまた公判が始まる。
序審法廷の最終日……何としても決着を付けなければならない。

そのための調査に走り回って、やっと掴んだ決定的な証拠……
調べて来たことに間違いが無ければ、依頼人は無実だ。
そして真犯人は事件の裏側で情報を操作している。

危険な相手ではあるが、だからと言って怖気づくわけにはいかない。

念の為真宵を安全な所に送り届け、もう一つ保険を掛ける段取りをしている内にすっかり遅くなってしまった。

しかし休んでいる暇は無い。

事務所が入っているビルが見えてくると、少しだけ成歩堂の表情に安堵が見えた。


そう……成歩堂は油断してしまった為に気付けなかったのだ……


建物の陰から、悪意を持って彼を伺っている者に……





御剣の眉間にはいつも以上に深い皺が刻まれていた。

苦々しい顔で机の上に放り出された書類を一瞥する。
今担当している裁判の法廷資料だ。

「…………」

デスクに付いたまま感情の籠もらない眼で視線を流し、自分に割り当てられた執務室の中を彷徨わせる。

その眼がチェスボードの上で止まった。

赤いナイトと青いポーン……今回の法廷を想起させる。

「……チッ」

御剣は、彼にしては珍しく、小さく舌打ちをすると立ち上がり、少々荒い手つきで資料を纏めて鞄に放り込んだ。
そのまま帰路に就く。

誰にも会わず階段を下りていく間、御剣の脳裏にある言葉が繰り返し響いていた。

(明日の法廷で、証人を決して追い詰めてはならない……)
(万が一……のようなことが有っては困る……)
(わかるだろう?)

上からの命令……
いわゆる圧力……

今回の事件は初めから何やらキナ臭いものを感じていた。

いかにも被告人を指し示すかのような証拠品が上がる一方で、しかしどうにも拭えぬ違和感が存在していたのだ。

話がうまく出来過ぎている……そんな感覚が付き纏っていた。

しかもその被告人はことごとく弁護の依頼を断られ、最終的にそれを引き受けたのは……
御剣が認める数少ない男、成歩堂龍一だった。

その時点で御剣は全力で事に当たることを決意した。
そうしてぶつかり合った二日間の間に、真実はその姿を見せ始めていた。

初めに覚えた違和感は気のせいではなかった。
まだ決定的な証拠は出てきてはいないものの、明らかに手を加えられた証拠品が見つかった。
間違いなく情報が操作されている。

誰が、何故、そのようなことをしたのか?

答えはある意味明白だ。
誰かが被告人に罪を着せようとしている。

恐らく成歩堂は、その人物にアタリを付けている。
ともすれば今頃はもう何かしらの情報を掴んでいるかもしれない。
糸鋸の報告から御剣はそう推測していた。

だとすれば最終日の法廷は大荒れになるだろう……

その時の為にありとあらゆる状況をシミュレーションしていた時に、上からの命令が下ったのだ。

ここで、御剣は確信してしまった。

真犯人は、明日の証人だ。
権力者である父親辺りが真相を知って圧力を掛けてきた……
そう言った所だろう。

「…………」

御剣は不愉快そうな表情を隠さないまま、車に乗り込むとエンジンを掛けた。
シートに体を預け、深く大きな溜息を吐く。

「裁判を何だと思っているのだ」

小さく呟くと、スーツの胸ポケットから携帯を取り出す。
半ば無意識にアドレスを開くと、親友の弁護士の名前を探していた。

その名はすぐに見つかる。

「成歩堂……君ならばどう出る?」

再び呟き、しばらく黙考して…………

フッ……

御剣は、嗤った。

考えるまでも無い……
たとえこちらが小手先の逃げを打ったところで、あの男には通用しない。
他でもない御剣自身が嫌というほど思い知らされているのだ。

一番初めに対峙したあの法廷で……
素人同然に近かったはずのあの男は、悪夢のような喰らい付きを見せた。

無様だろうが形振りなど構わない。
その様は時に法廷に居る者たちに畏怖の念すら抱かせる。
そして法廷で対峙する度毎に、成歩堂は確かに凄まじい成長を遂げているのだ。

今の彼に嘘は通用しない。

ならば、自分が為すべきことはただ一つ……
ただひたすら真実を追求するのみ……

法廷で最も大切な事を、その身を以て教えてくれた親友に対する、それが御剣なりの礼儀だ。

「そうだ、何も変わりは無い……」

証人が無実であれば恐れることなどないはずだ。
もし後ろ暗い事があるならば、成歩堂が見逃したりはしない。
その時はその真実に従って自分も行動するのみ……

無性に電話がしたかった。
特別な意味などなかったし、今は敵対関係にある者に連絡を取るなど甚だ非常識ではあるが……

無性にあの力強い声を聴きたかった。

「……フゥ」

しかし躊躇ったのはほんの一瞬だった。
ディスプレイに表示された時間を見て現実に返ったのだ。

もう日付が変わってしまっている。

御剣は軽く苦笑を漏らすと携帯を閉じ、車を発進させた。


この時の事を後に後悔することになるとも知らずに……




「あ、ミツルギ検事……おはようございます」

翌朝、裁判所のエントランスで、御剣は真宵と遭遇した。

「ム、真宵君か……おはよう。……成歩堂はどうした?」

見れば真宵は一人っきりで入り口に立ち、ずっと門の方を伺っている。
その眉が少し困ったように顰められていた。

「それが今日はここで待ち合わせてて……まだ来てないんです」

そう言いながら時間を確認する。
御剣も釣られて腕時計を確認した。
開廷まではまだ少しあるが……

「おかしいなぁ……いつもならもう着いてる筈なんだけど」
「連絡は取ったのだろうか」
「あ、はい。さっき電話して……もうすぐ出るって言ってたんですけど」
「事務所からか?」
「え、と……はい、多分」
「ならばそんなに時間は掛からないのではないか?」
「ええ、きっと寝過ごしちゃったんだと思います」

真宵はわざと悪戯っぽい表情で笑って見せる。

「なるほどくん寝汚いから」
「いくらなんでも公判の時には寝過ごさないだろう」

少し呆れたような顔で御剣が言うと、真宵はひょいと肩を竦める。

「と言うか寝てないって言うのが本当かも……何せいつも崖っぷちだから」
「……こらこら、余計な事は言わないの、真宵ちゃん」
「きゃわぁぁっ!」
突然声を掛けられ、文字通り真宵は飛び上がった。
二人が振り向くと、すぐそばで成歩堂が苦笑しながら立っていた。

「ム、やっと来たか。おはよう、成歩堂」
「おはよ、なるほどくん! もう待ちくたびれちゃったよ」
「あはは、ごめんごめん。おはよう……って言うかちょっと恐いツーショットだね」

いつものように苦笑ともつかない微妙な笑みをこぼしながら、成歩堂がポリポリと後ろ頭を掻く。

慌ててきたのだろうか、微かに息が荒く、服装もどことなく乱れている。

「まったく……きちんとしたまえ」

見咎めて、御剣は成歩堂のスーツの襟に手を掛けた。
そのまま服装を正す。

「…………っ」

小さな呻き声を聞いたような気がして、御剣は思わず顔を上げて成歩堂を見た。
しかし成歩堂は照れているかのように明後日の方に顔を向けているだけだった。

その顔に苦悶などの表情は無い。

「……これでいいだろう」

最後にネクタイをきちんと締め直して、苦笑を一つ漏らした。

「あ、ありがとう」

成歩堂はばつが悪そうにしながらも素直に礼を言う。
その素直さが御剣にとっては好感の持てるポイントでもあった。

しかし敢えて表情には出さず、逆に少々呆れたような顔をする。

「全く、君は替えのスーツは持ち合わせていないのか?」
「え?」
「皺がひどいぞ。それに背中の腰のあたり、少し汚れている」
「あ……」

あからさまにぎくりとした表情を見せ、成歩堂はますますばつが悪くなったように頬を掻いた。

「やっぱ見つかっちゃったか……」
「え、後ろの腰って……あ、ほんとだ」

真宵がわざわざ後ろに回り込んで確認する。
そして不思議そうに首をひねった。

「昨日、どっか潜り込んだっけ?」
「ああ、真宵ちゃんを送った後にね……ちょっと、さ」
「またあの後現場に行ったの?」
「うん……まぁ、ね……気になったことが有って。それよりそろそろ行かないか」

携帯で時間を確認しながら言う。

「準備とかあるしさ」
「うん! でも間に合ってよかったよ。私はてっきり寝過ごしたかって思っちゃったよ」
「こらこらこら。裁判の日にそんなわけないだろ」

言い合いながら、真宵が先に立って歩いていく。
それに倣うように成歩堂と御剣は肩を並べて歩いた。

「昨夜はちゃんと寝たのか? 成歩堂」

周囲には聞き取り辛い声で御剣がそう訊いてきた。
成歩堂はちらりと御剣に視線を送ると苦笑いをした。

「うーーん、寝たのは寝たよ……2時間くらい」
「本当に眠れたのか?」
「うん、そのつもりだけど……どうして?」
「うム、あまりにも顔色が冴えないからな……」

言いながら成歩堂の横顔に視線を注ぐ。
普通にしているように見えるが、どことなく覇気が薄いようにも感じられる。

何より蟀谷あたりの色が極めて悪く、もう整っていいはずの息はまるで落ち着いていない……

決して要領のいいタイプでは無いようだから、また証拠を足で稼いできたのだろうが……

「寝不足だからと言って法廷は待ってはくれないからな」

心配を押し殺し、敢えて軽口を叩く。
本当はもっと問い詰めたいがもう時間も無い。

何よりお互い替えが利く立場でもないのだ。
そのあたりは成歩堂自身も弁えているだろうし、御剣がとやかく言うべきものでもない。

その御剣の心情を察して、成歩堂は心の中で感謝すると、

「分かってるよ。って言うかお前に睨まれながら寝られる度胸は無いよ」

殊更明るい口調で返した。

「ああ、勿論容赦はしない。覚悟しておきたまえ」
「ハハハ……お手柔らかに……と言いたい所だけど、僕も手加減はしないからな」
「それでこそ君だ」

軽口を叩き合う内に分かれ道に差し掛かる。

「じゃあ、ここで」
「ああ」

そうしてお互いに不敵な笑みを交わすと軽く拳を合わせ、それぞれの控室へと向かって歩き出した。

 

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