c調です! お元気?
seesaaブログより面白い。「漫画コミュニケーション」
2020/11/15 日 2017
seesaa
技術というのが
技術というのが、漫画の技巧なのかもしれないけど、これは捉え方が曲解かもしれない。
技巧というのはあるけど、巧みさや構成の必然さがあって、巧いといった作者も読者の
評価ごとも、それは必然から生まれる。 どこの必然というかというと、それは多分に
エラン・ビタール的な作者と読者のそれぞれの工夫やモチベーションと、期待によって
生まれてくるものだと思う。
こうすると佳いといった客観としての技術はそもそも、技術だけでは作品の中にあって、その効果の基盤として機能しない。
このことを何だか、達磨安心の神光のことと対応させてみる。
心というのは勝手に、嬉しくなったり楽しくなったり怒りもし、不安にもなる。
不安だけ捉えてなんとかしようもないものだ。
あまりの嬉しさに浮かれたり泣いたりしても、それも心許ないとも言える。
心は平静であるべきというか、平静である方が佳い。
判断も曲がるからでもある。そうでないと。
それに、当人の主体である心自体が、そんな風にざわつき、騒いでいるとすると
どきどきする時みたいに、あまり佳い状態とも言えず、行動にしても(付随する)佳い
結果も招かないこともあり得る。
馬祖は、平常心を立てた。
常の心という。
でもそれは、不動心ではない。不動を目指して、誤ったのが神光の喩えであることも
言うまでもない。
不動であれば安心であるのでない。
泣いたり笑ったり、騒いだり、疑心暗鬼不安となって、落ち着かない心こそ、それが
落ち着かせようと思う心に他ならない。
自立と言っているのは、心そのものが、そんなような喩えに当てはまるからであるし、
私らは、辛くて哀しくて、泣きたい時に、楽しくなれるものでもない。
こんな処のどこに、安住した心があるのかとなってくる。
さりとて、惑わされているというのでも情けない。
それらを回避するには、ストレス対策にも通じることだけれども、心身上げての
自信を伴ったような本人の在り方を、自然なまま身につけ発揮出来るようにすることだ。
漫画にもそんなことが言え、大体が、書き慣れると技術も必要性から自ずと生まれてくる。そういったものだ。
感動効果のような技術は、作者が素材に取り組んで初めて、効果が発揮される形態(ようす、ありよう)を生み出す。
個性なんかは、自性のものであるから、それが何かとは、心のように取りだしてみ、検討できるものでもない。
こうしたらいい、こうしたらよいといった方法論ばかりが浮き立ってばかりいると、
残念な結果に共すると陥ることがある。技術以前のモチベーションや工夫つまり、創作に対する取り組む姿勢が大切だ! お、言いましたね。笑い
技術を求めるのは、それも自ずからのもので、仕方がない。でも、もう私らはそれが
外にある内は、還ってこちらがぎくしゃくしてしまうことも十分に学んだはずでいる。
どうしよう(?)と立てる時に、既に私らは魂を売り渡してしまっていることになる。
踊り、楽器演奏、漫画にしてもどれも同じで、どのようにと立てる時には既に
ぎくしゃくする元を作り出すことにもなっている。
難しいのは、根っこに認められたい系の欲望な心は自ずとあって、それがために
そういった、憧れ的な物事に私らを走らせる。
理想な在り方があれば、色々な悩ましいことは解消されるからである。
ここが間違っている。
私らは理想になれ得ない。
ここに、漫画など、踊りでも、下手でもよいという理屈が成り立つ。
大体が、周囲の侮れない人、観客が見て感心するのは、技巧によってではない。
人が感嘆するのは、ひとえに何らかの巧みさによっている。
それは、技術などで、推し量れる筋合いのものでない。
作為にしても同様だ。
技術によるのだったら、私らがないがしろになってしまうからだ。
優れた人はそこを心得ている。
ゲシュタルトとしての現れ、現前する原稿そのものにこそ、注力すべきである。
私らの心や姿勢がどうであっても、そんなものは決して理解されはしない。
私らがどう思おうとも、現れた以上のことは理解され得ない。
こんなことも、アサーションや感受性訓練でも学んだはずだ。にも関わらず、人は何かしら、よい方法がないか、上手く出来ないかとそれを追っている。
丁度、高額なステレオのアンプを買えば、佳い音がするだろうと大枚をはたくようなものである。
アキュフェーズを導入してから、今、今日の音がするまで2年かかった。
まだ上昇の余地はある。
でも、足許も見た方が佳い。
案外に、気が付かなかった妙な処に、素晴らしい効果が得られるものがあったりするので。
前ばかり見ている人の眼にそれは映らない。
今回のSPを作ってから半年か1年余りは、これは完璧な失敗かと思った。音がひどい。
これは騙されたのだ。すぐにも別のユニットに換えよう。でも、何かとそうそう、つぎ込めるものでもないから、鳴らしておいた。
その度に、変な音がするばかり。藤圭子はこんなじゃない。美川さんもこんなじゃない。
これが、ジャズとも思えない。第一、音場感に優れたバックロードといっても、
こんなののどこが、いいのかとさえ思った。
その内、諦めた。
自分はまたも、失敗したか蹉跌を踏んだのだ。
処が、2年目も半年となってから、ますますサウンドが落ち着いてきた。
箱とユニットが今さらになって、こなれてきたのだ。
こんなに時間がかかるのかと、それは驚いた。
でも、ハーモニーやプレゼンスもすごいものになっている。
観客は何を求めているのか、それは技術でもないし、上手いことでもない。
何だかそれは、~。
E・フロムは「愛」を立ててるけど、自分はそれには反対だ。実存とか、言ったほうが佳いと思われる。
E・フロムも思慮がそこでは足りなんだ。
「愛」を立てたのも、実際は編集の方針だったのだろう。
「愛」とか言えば、売れるに違いないからだ。