「な、なんてこった……」
呆然と立ち尽くしたスピードワゴンは、その事実に気が付いた。一分経っていない。自分とシマがその場に駆けつけてから、まだ一分経っていないのだ。その間に、ヨナールが倒され、ストレイツォが闇の中へと姿を消し……そして今、シマが惨殺された。
今、ここに立っている人間は自分一人なのだ。波紋法も身につけていない、ただの人間がたった一人になってしまったのだ。
背筋に、冷たい感覚が、広がっていく。
「まただ……何かがおかしい……」
ブラフォードが、二つに分かれて地面に落ちた女の身体を睨んだ。その向こうに、飛ばした剣が地に刺さっている。手元に帰ってくる筈だった剣が。
今の「剣のブーメラン」は、女の頭部を狙ったものだった。しかしそれが、女の目前で再び旋回の方向を変えた。結果として腹部を切断したとはいえ、自らの剣を二度も弾かれたのだ。当惑と、自らの誇りが傷付くのを、ブラフォードは感じていた。
(何故だ……分からぬ……)
背筋に、冷たい感覚が、広がっていく。
「…………ィィ…………ィィィィ…………」
スピードワゴンとブラフォードの耳に、小さな、鼠の鳴くような声が、シマの身体が転がるところから聞こえた。
「……ィィィ…………ィィィィーーーーーー…………」
「シ……シ、マ……?」
スピードワゴンが、おずおずとシマへと歩み出す……その時。
ドガンッ!
「うぐあッ!」
背中に強い打撃を受けて、スピードワゴンがその場に顔から倒れ込んだ。
ドガンッ!
「グワウゥッ!」
背中に強い打撃を受けて、ブラフォードがその場に膝をついた。
「な、なんだぁッ!? 背中に何か……『刺さった』のかッ!?」
「背には何も……ないぞォォ! しかしこの……『冷たさ』はあァァ?」
「せ、背中が……凍りそうに冷てえっ!!」
かさ、と暗闇に幽かに聞こえた物音に、弾かれたようにしてスピードワゴンとブラフォードが、その発信源へと視線を飛ばした。
「シ……シマ……?」
「貴様ァァ……まだ生きて……」
転がって伏せていたシマの上半身が、ピクピクと動いた。そして小さな、甲高い泣き声が発せられた。
「……ヒィィ……ヒィィィーーーー…………鏡が……鏡がぁ……ヒィ……お婆ちゃんんん…………」
「シ、シマ……?」
ドガンッ!
「ぐはあッ!」
スピードワゴンの背に広がる「冷たさ」が、一段と強くなる。その寒気を耐えながら、スピードワゴンは立ち上がった。そしてシマに目を向けて……ビクリと一層大きく身体を震わせた。シマが顔を上げて、血走った目でスピードワゴンを睨んでいたのだ。
血に濡れたバイオリンが奏でるような不気味な声で、シマが喋り出した。
「……スピードワゴン……オマエが悪いんだ。私は何もしていない……スピードワゴンスピードワゴンスピードワゴン……オマエがオマエがオマエが私を連れてくるから…………」
「シ……シマ……?」
「オマエがオマエが私を此処に此処に、連れてくるから……私が悲しい思いをすることになるんだよおぉ…………私は何も……なのにこんなにこんなにこんなに悲しヒィィーーーーー……」
ガシッ ガシッ
シマが自らの両手を使って、上半身だけで地面を這う。
ガシガシッガシガシガシガシッ
落ちている自分の下半身に近づき、掴んで、顔元に引き寄せた。
「可哀想に……可哀想に可哀想に可哀想にィィーーーーー……」
泣きながら、自らの下半身に歯を立てる。血に濡れるのに構わず、ガジガジとそれを噛み続けた。
ドガンッ!
「ヌグッ!」
立ち上がりかけたブラフォードの背中に、再び衝撃が走った。
「オマエ、よくもストレイツォさまを殺したな……」
自分の下半身から口を放して、シマがブラフォードを睨みつける。気の小さい者ならそれだけで死にかねないほどの殺気を帯びたその視線を、ブラフォードは無言で受け止めていた。
「私の愛していたストレイツォストレイツォストレイツォさまを……悲しい……よくもよくも……愛していたのにぃぃ…………」
「…………」
「ストレイツォさまを殺すなんて……私を私を私をこんなに悲しませるなんてえぇーーーー……!!」
「…………」
シマはいつ出したのか、自らの血で真っ赤に塗れた「櫛」を口にくわえた。両手を使って上半身だけで、断崖に向かって這っていく。スピードワゴンはその様子を、慄然として目で追った。
ガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシガシッ
「よくも憎い許せないてめぇら……でも何もしない…………因果応報……『運命』が刺さったあんた等はもう死ぬしかない…………『運命』は絶対だから……いつも『運命』は絶対だからねええぇえぇーーーー……」
ヒヒヒと甲高い笑いを響かせながら、シマはスピードワゴンとブラフォードを振り返った。
「姉さんだって、見ているだけで『運命』が刺さって死んだ…………ヒヒヒ……私は見ているだけ……そう、見ているだけでいいんだ……ヒヒヒヒ……」
そして遂にシマは、断崖へと身を投じた。声だけが、残った二人に聞こえる。
「私はじっと見ているわ……楽しいものね、『運命』に『とどめ』を刺されるヤツを見るのは…………私はじっと、見ているわ」
静寂がその場に戻った。
「……こ、これも『幽波紋』なのか……?」
スピードワゴンは、背中の強い「冷たさ」を感じながら、シマの消え去った断崖を見た。ぼそりと呟く。
「……まるでもう、人間じゃねぇ…………」
その呟きを聞いたブラフォードの胸に、自分自身が理解できない、怒りの感情がこみ上げた。
『人間じゃない』……そのあまりの強さ、常識を超えた技への怖れから、人間だった頃に自分へ浴びせられた言葉。自分の崇拝する者を陥れ、辱め、そして命を奪った者への最期の感情。自分、そして憎しみの対象への、共通の言葉。
ブラフォードには既に思い出せない記憶……しかし、ブラフォードの魂の奥底で、それが言葉に反応したのだ。
「では『人間』とはなんなのだ、人間の男よォォ……」
感情のままに、ブラフォードがスピードワゴンに投げかけた。
「人間でない『我ら』と、貴様ら『人間』はァァ……」
ブラフォードが、スピードワゴンを見つめる。
「何が違う? どう異なるゥ?」
両手を大きく広げて、ブラフォードが叫んだ。
「我に示せ! 人間の男よォ…… 我に『人間』を謳えいィィーーーーーッ!!」
ジャキ ジャキッ
スピードワゴンは咄嗟にトンファーを握り締めていた。人間のチンピラを相手にした時は、闘志を沸き立てる心強い感触を返していたそれが、今は穴の空いたスプーンのように頼りなく、意味を持たない物に思えた。震える手でそれを持つ自分を、とても滑稽に感じた。
「……『いない』んだな、もう……」
かつて、太陽の輝きを放つ両の拳によって、目の前の男を倒した誇り高き勇者がいた。その男を思い……そして呟いた自分自身の言葉に、スピードワゴンは身をすくませた。冷たく強張る背筋が絶望でさらに凍り付くように、スピードワゴンは感じた。
しかし、スピードワゴンの目はまだ屈していなかった。
「ジョ……ジョースターさん……ツェペリの旦那…………オレにッ……オレに勇気を分けてくれ…………ッ!!」
二人の間の、地面に刺さった剣。それに書かれた「LUCK」の文字が、流れる血によって覆い隠される。そして視線が闇の中から、二人の男をじっと見つめていた。