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郷土史及び昭和史に関する講演延岡大空襲と戦後の戦犯容疑者の取り調べ経緯
・退職教職員協議会延岡支部では、平和教育の一環として、6.29延岡大空襲の群読シナリオを作成し、市内の小中学校で講演してきた。 ・そのシナリオの中で、延岡に投下された焼夷弾の数を、「延岡空襲殉難碑」の撰文を根拠に50万発としてきたが、ある時、東京大空襲が38万発なのに50万発は多すぎるのでは、という疑問が出された。 ・そこで、インターネットで検索すると「330th Bombardment Group (VH)」のサイトに、6.29延岡大空襲の記事があり、そこでは、「B29」32機で246.6トンの爆弾を投下したとしており、計算すると、投下爆弾数は約5万発となった。 ・しかし、その後、この330th爆撃グループは、6月29日に延岡を爆撃した314航空団の4グループ(19,29,39,330)の中の一つであることが判った。 2.「B29」は117機、投下爆弾数は約10万発 ・このことを記録したTactical Mission Report(作戦任務報告書)には、B29は先導機12機、爆撃機105機で、投下した爆弾は、E46集束焼夷弾(M69焼夷弾38個収納)を2,415発、M47-A2焼夷爆弾10,032発、閃光弾50発を投下したとある。合計すると投下爆弾数は101,852発となる。 ・爆撃では、目標を照らすため、まずM47焼夷爆弾(重さ100ポンド(45K)のナパーム弾で、鉄製の弾頭内にゼリー状に加工した油脂約18キロを封入)を投下し、次に、M69焼夷弾を投下した。 ・M69の発火は激突後で、貫通力を高めるため姿勢を垂直に保つリボンが取り付けられており、集束弾が上空で分解するとき着火し「火の雨」のように見えた。 3.戦後の戦犯容疑取り調べについて ・この「延岡大空襲」について、私は、昭和60年に「延岡戦災資料集」と題する資料集を作成した。その時『延岡空襲戦災記』の著者である市山幸作氏にいろいろと話を伺った。 ・その中に、延岡にパラシュートで降下した米兵について、戦後、戦犯容疑がかけられた話があった。北川に降下した5人の米兵の内の一人が降下直後亡くなっていたのである。 ・取り調べは約2年ほど続けられたが、最後にこの疑いを解いたのが、延岡大空襲で殉職した栗田彰子さんの日記だったというのである。 ・この戦犯容疑取り調べが長引いたのは、延岡大空襲で関係資料が全て焼失したこと。降下米兵の通訳に当たった栗田彰子さんが焼夷弾の直撃を受け亡くなったこと。B29には11名の搭乗員がいたが、延岡で死亡した一人を除く10名の米兵の行方が分からなかったためである。 4.栗田彰子さんの日記の発見 ・市山幸作氏の話では、取り調べが始まってしばらくして栗田彰子さんが日記をつけていたことが判り、その中に死亡した米兵について「重傷であった」ことが書かれていて、それが証拠となり容疑が晴れたということだった。 ・ただ、市山さんも、この話は甲斐幹文(医師で爆撃の負傷者の治療に当たった)さんに聞いた話だということで、市山さんはこれと同様のことを、氏が夕刊デイリーに連載した「野口遵翁と延岡(314)」に記している。 ・しかし、当の甲斐寛文氏は、昭和50年10月14日の「夕刊ポケット」に「延岡市救護隊─米兵の降下」を書いていて、そこでは「最後に看護婦の日記に、重体であった模様や治療の状態が書いてありそれを良き通訳者によって解明されたので、一切の調査が打ち切りになったと聞き及びました」と書いている。 5.戦後の戦犯容疑調査資料を入手 ・この話は、カナダ在住の栗田彰子さんの妹、永井ヨシ子さんが書いた『栗田彰子の生涯』(英文)の中でも紹介されている。彰子さんの日記には降下米兵4人の階級と名前(3人)、それに「空襲の間、受けたひどい傷がもとで、バセットは捕らえられてしばらくして亡くなった」(荒武千穂訳)と書かれていた。 ・私は、この件について長年伝聞ではなく明確な証拠を見つけたいと思い、インターネットで米軍の関係資料を探したが見つけることができず、今年の3月アメリカ国立公文書管理局(NATIONAL ARCHIVES )に関係資料にアクセスする方法を尋ねた。 ・二週間後30ページに及ぶ「戦後の延岡における戦犯容疑調査資料」が送ってきた。驚いて料金を尋ねると「あなたの研究に役立つなら無料」ということで二重に驚いた次第。以下、深尾裕之氏提供の資料も含め、本事件の概要を説明する。 6.B29が延岡に墜落した経緯 大刀洗飛行場爆撃 ・S20年5月5日、日本のほぼ零時頃、11機のB-29はグアム島北飛行場を相次いで離陸した。 このうち10機は約8時間後、攻撃目標である大刀洗飛行場上空に到達した。 ・8時25分10機のB-29は高度(約6000m)付近から、高性能爆弾(AN-M64型500ポンド爆弾)216発(計54ton)を一斉に投下した。 しかし、飛行場の東方2マイル付近に着弾した。 (深尾裕之氏作成史料より) 7.大刀洗上空、約30機の紫電改がB29を迎え撃った ・間もなくこの10機のB-29に対し、長崎県大村飛行場から出撃した日本軍戦闘機部隊である第三四三海軍航空隊の紫電改約30機が一斉に襲い掛かった。 (『源田の剣』(改訂増補版)米軍が見た「紫電改」戦闘機隊全記録) B-29 ”#42-65305”は、紫電改の1機と接触し(体当たりとの説も?)、その紫電改は大分県の山中に墜落した。B29はその後も激しい攻撃を受け続け、機体は大分県竹田市に墜落した。
・もう一機のB-29「#42-93953」も、鴛淵孝大尉指揮「紫電改」の20ミリ機銃、空対空ロケット弾の集中攻撃を受け、機長のミラー中尉は海上に出ようと必死だった。 ・僚機が左右を援護し救難機のいる海上まで誘導しようとしたが、炎に包まれ、宮崎県延岡市上空から豊後水道に向けて弧を描くように墜落した。搭乗員5名がパラシュートで脱出するのが目撃された。 ( 前掲史料より) ・延岡に米兵が降下する少し前、昭和20年3月28日には、B29が東臼杵郡富高町の不動寺の手前に墜落、11人がパラシュートで降下し、7人が同日、二人が29日、二人が30日日向市と門川町で捕虜になっている。 ・5月5日には、北川上空で撃墜されたB29の搭乗兵5人がパラシュートで降下し捕虜になった。 ・その時の証言【北川町の女性(1922年生まれ)の話】 当日は勤労動員で用水路の補修工事に出ていた。B29が1機だけ飛んで来て、北川町の黒原峠の上空で日本軍の戦闘機2機と空中戦になった。戦闘機がB29にもつれるように攻撃をかけていると、B29は火を吹いて低空を東の方へ飛んで行き、海の方へ落ちたようだ。その途中、落下傘が開き1人は北川小学校の裏山付近の木に引っかかった。(web「POW研究会」資料) 9.日本人の米兵に対する敵愾心 ・降下米兵は5人で、4人は2時間~4時間の間に捕まり、延岡の警察本部(所長は柳田盛・彦)に護送された。延岡警察署には約3,000名の市民がうわさを聞いて集まり騒然としていた。もう一人は、少し遅れて降下し、5月6日の午後に捕まった。(米資料) 一人の「米兵は相当な重傷で、在郷軍人が手当をしてやっていたが、後に死んだと聞いた。他の4人は北川町と延岡市の境界付近の山中に降下して地元の人たちに捕まった。彼らは長井の方へ連れて来られており、大勢の人が殴りかかろうとするのを、年輩者が制止していたが、見ていてかわいそうだった。」(「POW研究会」資料)他の4人は北川町と延岡市の境界付近の山中に降下して地元の人たちに捕まった。彼らは長井の方へ連れて来られており、大勢の人が殴りかかろうとするのを、年輩者が制止していたが、見ていてかわいそうだった。」(「POW研究会」資料) ・「当時の日本人は、米国に対して敵愾心を燃やしておりました。街角に藁人形を立て、竹やりで鬼畜米兵と気合を込めて突き刺していた心理状態は当時を経験した人でない限り到底理解されないでしょう。」 (甲斐幹文「延岡市救護隊─米兵の降下」) 10.死亡した米兵は善正寺に埋葬 ・「米兵4人の内の一名は、肩のあたりの貫通銃創で、瀕死の状態で救護隊本部に運び込まれたが、全く手の施しようのない状態でしたので、直ちに川南地区の外科富田維靖院長の来診を受け応急処置をしてもらったのでした。しかしこの米兵は重傷であったので間もなく死亡しました。遺体は、警防団の手によって延岡市山下町上ノ坊善正寺墓地に埋葬されました。 ・後に、終戦と同時に、芦野由吉氏が十字架の墓標を立て感心させられました。」 (甲斐幹文「延岡市救護隊─米兵の降下」) ・1946年9月(13)米軍が遺体を回収。「善正寺の住職(当時旧制中学3年)の話によると、米兵の遺体はあまり損傷はなくきれいで、墓地に土葬した。戦後、彼の両親が寺を訪ねて来て遺体を引き取ったとのこと」(「pow研究会」史料) 11.延岡における降下米兵の取り調べ ・生存した降下米兵に対する取り調べが、都農憲兵隊によって延岡で行われた。この時通訳として呼ばれたのが、Miss KURITAだった。 ・彼女は、カナダで日本語学校教師になるため母の故郷延岡に来て、延岡高等女学校、宮崎女子師範学校で学んだ後、安賀多国民学校で教育実習をしていた。 ・生存した四人の米兵は、延岡の取り調べが終わると、福岡の西部軍司令部の捕虜収容所に送られた。しかし、6月19日の福岡大空襲の翌日、捕虜と見なされなかったこともあり、報復のため斬首された。 ・B29には11名の搭乗兵がいたが、パラシュートで脱出した5人を除き、6人は、飛行機と共に延岡沖「豊後水道出口の海面」に墜落。機体は発見できず6人の生存情報もなく後墜死とされた。
栗田彰子さんの写真と『栗田彰子の生涯』 12.延14回の上った延岡に対する空襲 ・『太平洋戦争延岡空襲戦災記』によると、延岡に対する米軍の爆撃は14回に上る。 ・中でも悲惨だったのは、5月2日島野浦を米軍機が機銃掃射し爆弾及び焼夷弾を投下し小学校児童4名、住民2名が死亡したことである。 ・そして6月29日には冒頭紹介した延岡大空襲があった。 ・市山幸作氏の調査では約180名死亡となっている。 ・なお、安賀多国民学校(現延中)で焼夷弾の直撃を受け殉職した栗田彰子さんの名は左の碑にはなく、延岡中学校に慰霊碑がおかれている。 13.2年以上継続された戦犯容疑調査 ・私は、先に紹介した「米国立公文書記録管理局」より入手した資料に、栗田日記に関する記述を探した。 ・しかし、確かに1946.2.1の文書に4人の兵士の階級と3人の名前(栗田日記による)はあるが、それ以上の記述はない。「バセットが飛行中に負傷」との記述は、延岡警察署長柳田盛彦の証言(1945.12)にもあり、米軍はこの段階では、降下後の負傷との疑いを持っていたようである。 ・その後、ワシントンDC民事局戦犯部門より、バセットを含む5人の降下米兵の状態や取り扱い、さらに海面に墜落した6人の行方などについて、延岡での再調査が命令されている。 ・1946.9.17の文書では、西部軍で処刑された31人に延岡に降下した米兵が含まれることが判明。 ・1947.2.10の文書では、福岡に送られた4人が殺害されたことが確認されている。 14.新たな証人Miss SHIGETAの発見 ・そして、1947.9.8の文書には、さらなる調査の結果「新たな証人が発見された」ことが記されている。それは都農町に住むカナダ移民二世のMiss Mary Yayoi SHIGETAで、彼女は、3月26日に富高に墜落し捕虜となったB29搭乗員の通訳を担当したが、5月5日に北川に降下した5人の米兵の尋問通訳にも呼ばれた。 ・彼女が延岡に着いたのは午後9時頃、延岡警察署には憲兵隊の堀之内大佐と通訳を務める同じカナダ移民二世で学校教師Miss KURITAがいて、すでに一般的な尋問を終えていた。 その際Miss SHIGETAは、B29後部砲手の二人の捕虜と次のような会話を交わした。 ・「私は、ただ二人の兵士と会い話しただけで、名前や階級は思い出せないが、彼らは、後部砲手であると言った。彼らから、私は、私がそこに居る間に2階で死んだ若い兵士について聞いた。 ・二人の内の後者は私に、死亡した兵士(バセット19歳)について「飛行中に前部室と連絡が取れなくなり、飛行機が墜落し始めたので、ケガで意識を失った少年を脱出させ、それから尾部射手に自分たちは脱出するお前も脱出しろと伝えた後(3人)一緒に脱出した。」と言った。 ・「傷を負った若い兵士はたしか19歳で、意識を回復しないまま、その日の夜10時頃死亡した。他の四人はその夜に延岡を離れ、福岡の本部に連れていかれたようだ」という旨の英文の宣誓供述書を調査団に提出し、s27年10月、本件戦犯調査は終結した。 ・この証言によって、飛行中銃撃を受け両腕がブラブラ状態で重傷のバセットがなぜ降下できたかや、4人の兵士が延岡から福岡に送られるまで健在だったことが判り、捜査は終了した。なお、この証言を根拠にバセットを降下させた後部室の3人には勲章が推薦されている。 15.Yayoi SHIGETAはアメリカで健在 ・なお、Miss SHIGETAさんは、昭和20年3月28日に富高で墜落したB29の搭乗兵の取り調べの通訳もしており、その時の状況について宣誓供述書で次のように証言している。 ・「私は、都農憲兵隊で、最後に、キャプテンLt GROUNDSの通訳をした。彼は頭部に包帯をし、上唇を切っていた。搭乗員らは私が会った時は皆治療を受けており、名前は忘れたが、一人は私に、予想よりはるかに良い扱いを受けたことに大変感謝するといった。 ・何人かの市民が物、あるいは素手で殴ろうとしたが、キャプテン堀之内は彼らの扱いにおいてベストを尽くしたと思う。」 ・私は、SHIGETAさんが都農出身と知り、都農に行きSHIGETA姓の家を訪問しYayoi SHIGETAさんを尋ねたところ、最初の家で「今アメリカにいます」との驚くべき返事。 16.延岡が忘れてはならない人 ・こうして、私は、Yayoi SHIGETAさんがご存命で今アメリカにいることを知った。 ・彼女は、栗田彰子さんと同じカナダ移民の二世で、昭和15年に日米関係が悪化する中帰国した。栗田さんも同じ船(氷川丸)に乗っていたという(?)。 ・幸い、都農でYayoiさんが通訳をした11人のB29降下米兵は、福岡ではなく東京に送られたため幸運にも生き残り、戦後、全員アメリカに帰国できたという。 ・Yayoiさんは、戦後、広島の呉の米軍基地で通訳の仕事をした関係で、米人と結婚しアメリカに住むことになった。その後、無事にアメリカに帰国した飛行士らとの交流もなされたという。 ・Yayoi SIGETA(茂田弥生)さんは、延岡にとって、延岡の戦犯容疑を解いた人であり、栗田彰子さんと同様、忘れてはならない人だと思う。
17.B29搭乗員の慰霊法要の実施 ・本講演が決まった後、不思議なめぐり合わせで延岡に降下したB29搭乗員の慰霊法要の運営に参加することになった。 ・そこで慰霊法要提唱者の航空戦史研究家の深尾裕之氏と出逢い、多くの貴重な米資料を得ることができた。本レポートはそれに負うところ大である。 ・今回の慰霊法要に追悼文を寄せたB29機長であったミラー氏のご遺族は、人間の「戦争を引き起こす本性」について語っている。それは相手を「人間と見ない思想」のもたらしたものだと。 ・では、戦争した者同士の和解はどうしたら可能となるか。自分が払った犠牲だけでなく相手の払った犠牲にも目を向けること。その時の悲しみを共有すること。それができれば一つになれる、そういうメッセージだった。
17.ミラー氏の追悼文を読んで思ったこと ・過去に向き合う姿勢の違い→戦勝国と敗戦国の差か? ・人間の本性に対する認識→性善説と性悪説(性善悪説?)の違い ・今日は1945年と大きく違ってはいないという世界認識→世界情勢の認識におけるリアリズムの違い ・人間性の共有を支える思想→宗教観念(唯一神信仰vs人間性信仰)の違い ・戦争で犠牲になった人々を敬う気持ちが和解へとつながるという認識→「犠牲」に対する見方の違い ・過去を記憶し伝えていくことの重要性の認識→歴史教育の重要性の認識の違い 18.自らの歴史認識を持つということ ・今回は、B29撃墜事件及びそれに伴う戦後の戦犯容疑取り調べについて説明したが、率直に言って、無差別爆撃と、その搭乗員に対する暴行殺害とを同列に論じることはできない。 ・日本は「喧嘩両成敗」の伝統を持つ国であり、喧嘩に正義を認めないが、戦後の戦争裁判では、正義は連合国にあるとして日本の罪だけが問われ、BC級戦犯では1,000人を超す処刑者を出した。この現実の重さを認識している日本人は少ない。 ・この点、ミラー氏遺族の歴史を見る視点は大変示唆的である。「戦争を起こす人間の本性」の自覚から、世界の現状と人間の歴史へのリアルな認識、それを直視し乗り越えようとする意志、その中で犠牲となった先人たちへの敬意等々。 ・つまり、自らの歴史に対する責任意識が明確なのである。日本人の学ぶべき点であろう。 19.以下補説/西部軍に送られたB29降下米兵の運命 ・国内のBC級裁判である横浜裁判が始まった当時、ほんの数カ月前まで「軍」を賛美し、戦争を煽ったメディアは既に大きく方向を変え、戦犯となった元軍人らへのバッシングを強めていた。横浜裁判を主導するのは米国。合計で1,039人が起訴され、有罪率は実に82%。「絞首刑」判決も123人に達し、実際に51人が絞首刑を執行されている。 ・「西部軍事件」とは、九州地方などを管轄していた旧日本陸軍西部軍管区の軍人らが引き起こした事件で、横浜裁判の審理は、70年前の1948 年10月に始まった。米軍機の搭乗員だった捕虜約33人を3回にわたって「処刑」したという内容だ。陸軍の定めた捕虜に対する裁判「軍律会議」を経たかどうかなどが焦点となり、日本側は処刑執行人ら32人が起訴された。 ・国立公文書館などに残る横浜裁判の資料によると、第1事件は、1945年6月20日だった。現在は小学校となっている福岡市内の場所で、福岡大空襲の報復として日本刀で首を斬り落とすなどして捕虜8人を殺した。第2事件は、敗戦5日前の8月10日で、広島・長崎原爆投下に対する報復といわれ、犠牲者は捕虜8人。袈裟斬り、斬首などによって殺害した。第3事件は、敗戦を告げる「玉音放送」の後に起きている。それまでの処刑に関する証拠隠滅のためだったとされ、捕虜16・17人が斬り殺された。(web西部軍事件「元B級戦犯が残したもの」武馬怜子) 20.米軍の無差別爆撃や原爆が生んだ捕虜処刑 ・冬至堅太郎氏は「西部軍事件」の第1事件に関わっており、米兵4人を斬首した。公開されている裁判記録や横浜市が保存している「桃井銈次家資料」などによると、こんな様子だった。 ・1945年6月19日福岡無差別爆撃による焼失面積は12.5平方キロメートル。朝鮮半島と結ぶ要衝だった博多港では建物の30%が焼失し、市内全域で1000人以上が死亡・行方不明になった。福岡市内の西部軍司令部にいた堅太郎氏は翌朝、母を捜して市内を歩き回った。遺体のほとんどは老人、女性、子ども。無残な亡骸の中からついに変わり果てた母を見つけた。横浜裁判の後、堅太郎氏は当時の心境を後にこう記している。 ・母は総(すべ)ての人から親しまれ、誰よりも熱心に戦争の終わることを祈っていたのでした。母は惨死しました。真心を以(もっ)て母を愛している人であったならこの時の私の悲痛と敵愾心(てきがいしん)の混じった深酷且(かつ)複雑な興奮はよく想像して頂けると思います ・堅太郎氏は母の遺体と対面し、その後、西部軍司令部に戻る。すると、広場では既に数人の「処刑」が始まっており、数人の捕虜は穴の中で死体となって横たわっていた。堅太郎氏は進み出た。「私は処刑者として最もふさわしい者だ」と突差に考えました。そして眼の前に法務部長や参謀が居ましたから、自分の職、官位、姓名を告げ理由を言って処刑者を志願しました。(web西部軍事件「元B級戦犯が残したもの」武馬怜子) 21.無責任な「命令」が生んだ九州大学「生体解剖」事件 ・1945年5月(5日)、アメリカ陸軍航空軍のB-29が、熊本県・大分県境で第三四三海軍航空隊所属の19歳、粕谷欣三一等飛行兵曹が操縦する戦闘機紫電改の体当たりによって撃墜され、搭乗員12名が阿蘇山中に落下傘降下した。3名は現地で死亡。生き残ったのは9名。東京からの暗号命令で「東京の捕虜収容所は満員で、情報価値のある機長だけ東京に送れ。後は各軍司令部で処理しろ」とあった。残り8名の捕虜の処遇に困った西部軍司令部は裁判をせずに8名を死刑とすることにした。 ・このことを知った九州帝国大学卒で病院詰見習士官の小森卓軍医は、石山福二郎主任外科部長(教授)と共に、8名を生体解剖(生存を考慮しない臨床実験とされ、代用血液の開発や結核の治療法など)に供することを軍に提案した。これを軍が認めたため、8名は九州帝国大学へ引き渡された。指揮および執刀は石山が行った。(1945.5.17~6.2) ・その後GHQがこの事件について詳しく調査し、最終的に九州大学関係者14人、西部軍関係者11人が逮捕された。石山は、「私が行った手術のすべては捕虜の命を救う為だったと理解していただきたい」と生体解剖については否認し続け、独房で遺書を書き記し自殺した。 ・最終的なGHQの調査で、捕虜の処理に困った佐藤吉直大佐が小森に相談し、石山に持ちかけ実行されたことが判明したが、企画者のうち小森は空襲で死亡、石山は自殺したため、1948年8月に横浜軍事法廷で5名(軍関係2名、九大3名)が絞首刑とされ、立ち会った医師18人が有罪となった。(wiki「九州大学生体解剖事件」) 22.焼夷弾による無差別都市爆撃の非人道性 ・1943年のNDRC作成の情報部焼夷弾レポートでは「日本の都市はほとんどが木造住宅でしかも過密なため大火災がおきやすい、住宅密集地域に焼夷弾を投下して火災をおこし、住宅と混在する、ないしはその周囲にある工場も一緒に焼き尽くすのが最適の爆撃方法である」と報告された。 ・1943年8月27日、アメリカ陸軍航空軍司令官ヘンリー・アーノルド大将は、日本都市産業地域への大規模で継続的な爆撃を主張し、焼夷弾の使用に関しても言及していた。アーノルドは科学研究開発局長官ヴァネヴァー・ブッシュから「焼夷攻撃の決定の人道的側面については高レベルで行われなければならない」と注意されていた(が…)。 ・COAから1944年10月10日付で「極東における経済目標に関する追加報告書」が提出され、第一目標を航空産業、第二目標を都市工業地域、第三目標を機雷の空中投下による航行妨害としており、第二目標は本州六都市に対する焼夷攻撃であり、9月のCOA会議では六都市の住民58万4000人を殺した時に起こる完全な混乱状態の可能性が論じられた。戦略情報局長ウィリアム・マックガヴァンは心理的効果を主張し、地域爆撃を全面支持し、「地獄を引き起こせ。国中の日本人に参ったと言わせろ」と提案した。アーノルドはこの追加報告書を採択した。 ・アーノルドは中国からのB29の爆撃をやめさせてその部隊をマリアナに合流させ、1945年1月20日、ハンセルの後任としてカーチス・ルメイ少将を司令官に任命した。(wiki「日本本土空襲」) 23.カーチス・ルメイ「戦争は全て道徳に反するものなのだ」 ・ルメイの独創は、従来は高度8500mから9500mの昼間爆撃を行っていたが、高度1500mから3000mに変更、理由はジェット気流の影響を受けないこと、エンジン負荷軽減で燃料節約し多くの爆弾を積めること、爆撃が正確に命中すること、火災を密度で合流し大火災にできることであった。 ・しかし低空では敵の迎撃機、対空砲があるため夜間爆撃にした。また機銃、弾薬、機銃手を外し爆弾を200キロ増やせるようにし、編隊ではなく単機直列に変更、これに乗員は恐怖したが、B29の損害は軽微だった。(総出撃機数33,000、損失機数494、戦死・不明2,982) ・3月10日の東京大空襲から焼夷弾を集中投下する無差別爆撃が本格的に開始され、耐火性の低い日本の家屋に対し高い威力を発揮した。 3時間にも満たぬ間に、日本は死者行方不明含め10万人以上、被災者100万人以上、約6平方マイル内で25万戸の家屋が焼失したが、ルメイの部隊は325機中14機を損失しただけであった[ ・戦後ルメイは日本爆撃に道徳的な考慮は影響したかと質問され、「当時日本人を殺すことについてたいして悩みはしなかった。私が頭を悩ませていたのは戦争を終わらせることだった」「もし戦争に敗れていたら私は戦争犯罪人として裁かれていただろう。幸運なことにわれわれは勝者になった」「答えは“イエス”だ。軍人は誰でも自分の行為の道徳的側面を多少は考えるものだ。だが、戦争は全て道徳に反するものなのだ」と答えた。(wiki「カーチスルメイ」「B29」) 24.赤穂事件に見る「喧嘩両成敗」の思想 ・松ノ廊下事件がおきたとき、江戸幕府は喧嘩両成敗の採用を避け、加害者である浅野に対しては切腹、城地没収・絶家という重罰を加えたのに対して、一方の当事者である吉良に対しては何のお咎めなし、という判断を下した。 ・こうした幕府の処置に対して、多くの人から批判が寄せられ、目付の多門重共などは、「片落ちの御仕置」で外様大名に対して恥ずかしい、と抗議して、公然と幕府の裁許を批判したとされる。儒学者の浅見絅斎も「大法」である「喧嘩両成敗の法」を採用すべきだったと自著で幕府批判を展開している。 ・主人である内匠頭が「片落ち」に切腹させられたことに対する家臣らの不満が、「吉良邸討ち入り」という自力救済行為に向かわせた要因の一つと考えられ、一般庶民もその心情に喝采した。 ・幕府は赤穂浪士切腹の同日に、吉良家の嫡子義周(よしちか)に対して、邸宅に討ち入られたときの態度が不適切であったという、とってつけたような理由で、御家断絶を申し付けている。これは、幕府を批判する世論に押されて、焦った幕府が遅まきながら「喧嘩両成敗」をとった結果であろう。 ・後の儒学者荻生徂徠も『政談』の中で、「喧嘩両成敗のこと、当時の定法にて聖人の道に叶えり…当時、両成敗というは、片々を生かし置く時は、敵討絶えざるによりてかくのごときの御定ある」と論じている。(『喧嘩両成敗の誕生』清水克行P192~194) 25.東京裁判は「喧嘩両成敗」に反する! ・首席検察官ジョセフ・キーナンの冒頭陳述「文明の断乎たる闘争」という表現 に基づき、東京裁判に対する肯定論では「文明」の名のもとに「法と正義」によって裁判を行ったという意味で文明の裁きとも呼ばれる。 ・一方、事後法の遡及的適用であったこと、裁く側はすべて戦勝国が任命した人物で戦勝国側の行為はすべて不問だったことなどから、"勝者の裁き"とも呼ばれる。 ・この表現は日本滞在経験のあるアメリカの歴史学者リチャード・H・マイニアが1971年の著書『Victors' Justice; The Tokyo War Crimes Trial』(邦訳『東京裁判-勝者の裁き』1985年)で初めて使ったもので、「アメリカの原爆投下行為に人道に対する罪は適用されないのか」と被告の選定、すなわち連合国の戦争犯罪行為が裁かれなかったこと、また、昭和天皇の不起訴だけでなく証人喚問もなされなかったこと、判事が戦勝国だけで構成されたこと、侵略を定義するのは勝者であり従ってプロパガンダになる可能性などを問題視し、したがって侵略戦争を理由に訴追することは不可能であると主張した。レーリンク判事も後にこの裁判は「勝者の裁き」であったとした。 ・2013年2月12日衆院予算委員会において安倍晋三首相は「先の大戦」の総括は、日本人自身の手ではなく、「東京裁判という、言わば連合国側が勝者の判断によって、その断罪がなされた」と述べた。(wiki「極東国際軍事裁判」) おわりに──戦争を起こさない、起こさせないための平和教育とは? ・小中学校での「6.29群読公演」はすでに40回を超えている。ほぼ同じシナリオで、繰り返し戦争の悲惨さを子供たちに訴え、平和の大切さを説いているわけだが、なぜそうした悲劇が起きたのかという問題の核心には、なかなか踏み込めないでいる。 ・そこで、この機会に、この問題を考える際の事実関係を整理してみた。結果的には、日本の伝統的な政治思想である「喧嘩両成敗」の考え方を念頭に、アメリカによる無差別爆撃の罪と、それへの報復としてなされた捕虜虐待の罪を比較較量することになった。 ・歴史の現実としては、米軍の無差別爆撃の罪は問われることなく、日本の捕虜虐待の罪だけが問われ、多くのBC級処刑者を出したわけだが、それは、「勝者の裁き」の結果であって、法的な誤まりを含むものであることは言うまでもない。 ・もちろん、これは日本の犯した罪の免罪を求めるものではないが、こうした「片落ち」の判決を根拠に、今なお日本を貶めるプロパガンダに終始する国が周りにいることも事実である。 ・これにどう対処するか、第一、喧嘩両成敗の日本の伝統に立つこと。第二、法治主義の観点から公正に判断すること。第三、事実に即したリアルな歴史認識を持つこと。この三つであろう。 ・これからの平和教育は、こうした観点に立って、戦争を起こさない、起こさせないためにはどうしたらいいかを考えるべきであろう。 宮崎照雄氏の日本古代史研究における「日向神話」の魅力
1『宮崎県史』の「日向神話」理解 ・「日向神話は高天原の神々の営みを受けて、以下に展開される天皇統治の時代を導き、両者を連続的に結ぶよう置かれている。日向神話の持つ二つの重要な意義としては」、第一、天皇権力基盤を打ち立てること。第二、隼人の服属の起源を説くことと考えられている。 ・高天原が「葦原中国」に加えて海原を手中におさめるという話の展開上、「日向地方の伝承や信仰とは全く関係なく、神話の構成上の舞台として地名を借りたに過ぎないとする見解は妥当であると考えられる」(シンポジウム『日本の神話』吉井、岡田、大林)。とすれば、「やはり「日向神話」の舞台がなぜ日向の地でなければならなかったのかが問われなければならない。」 ・「日向神話の舞台が日向に設定された最大の理由」は第二であり、ニニギの降臨の地が、政府の支配地と隼人の地の境界の峰(日向襲高千穂)とすることに意味があった。高千穂については「知鋪郷」の郷名も手伝ってかなり早い段階で、高千穂説も力を持つに至ったと考えられる。(『宮崎県史』通史編古代2 p105~106) 2宮崎県『史跡調査報告』の結論 ・明治以後の近代史学では、「歴史の再構成は古文書、日記等の同時代史料によるべきであって、他の史料を史料批判なしに使ってはならない」という原則が、広く受け入れられつつあった ・ただし同様の原則を古代史に適用することは、直接皇室の歴史を疑うことにつながるゆえに、禁忌とされてきた。(wiki「津田左右吉」) ・こうした時代背景の中で、『記紀」』神話をもとに、いわゆる「高千穂論争」が盛んに行われた。宮崎県「史跡調査報告」(大正13年)もその一つで、天孫瓊瓊杵尊の高千穂への天下りを所与として、その地が西臼杵か霧島かを論じた。 ・『調査報告』の結論としては、「源平盛衰記」が書かれた当時、霧島には未だ高千穂の呼称はなく、西臼杵の高千穂のみで、その経路は、遺跡や遺物の発見とも相関連して、阿蘇→高千穂→吾田の長屋の笠狭崎(愛宕山)であること疑いなし、とした。 3津田左右吉の『記紀』神話理解 ・こうした中で、明治以降の近代実証主義を日本古代史にも当てはめ、記紀の成立過程について合理的な説明を行ったのが津田左右吉である。 ・津田は、記紀の神代は観念上の所産であり、歴史的事実を記したものではないとして、次のような主張を行った。 ・「神武東征」否定:大和朝廷は大和で発生した。それを日向からの東征としたのは、神代(観念)と歴史時代をつなぐ「かけ橋」を必要としたからである。 ・「日向神話」否定:なぜ、日向のような僻陬(へきすう)の地が皇室発祥の地となったか。それは政治的統治者としての皇室の由来を「日の神」につなぎ神性を持たせるためである。 ・「現人神」否定:高天原の神々の能力や行動は、神的であるより童話的であり、宗教的性質はない。死もある。つまり人間である。(「神武天皇東遷の物語」及び「神代氏の性質およびその精神」津田左右吉参照) 4戦後、幻と消えた「高千穂論争」 ・こうした津田の主張は、s15年に関連著書の発禁、早稲田大学教授辞職に追い込まれただけでなく、「皇室の尊厳を冒涜した」として起訴され有罪判決を受けるに至った(s19年時効により免訴)。 ・しかし、津田の所説は、第二次大戦後の懐疑的な風潮の中でよみがえり、わが国史学会で圧倒的な勢力を占めるようになった。 ・ただし、津田自身は、マルクス主義の立場からの天皇制否定には批判的で、「天皇制は時勢の変化に応じて変化しており、民主主義と天皇制は矛盾しない」とする立場を堅持した。 ・戦後は、天孫降臨を前提とした「高千穂論争」はほとんど行われなくなり、代わって「邪馬台国論争」が盛んに論じられるようになった。 ・そこでは、津田左右吉流の文献批判が主流となり、「端的に言えば、神代や古代天皇の話は、いわば机上で作られた虚構であり、事実を記した歴史ではない、ただ、それを伝えた古代人の精神や思想をうかがうものとしては重要な意味を持つ」とされた。(安本美典『邪馬台国はその後どうなったか』p17) 5安本美典氏の「記紀」神話解釈 ・こうした戦後の歴史学会の論調に対して、安本美典氏は次のような所説を展開している。(以下「前掲書」) ・「戦前のわが国の歴史学のすべてが皇国史観によっておおわれていたわけではない。津田史学の盛行は、皇国史観を否定するとともに、津田史学と相いれない面を持つ、多くの理性的・科学的成果をも顧みない傾向をもたらした。 ・私は、「天孫降臨伝承」や「高千穂伝承」は、かってこの地上で起きた史的事実を伝えている部分があると考える。 ・私は、北九州の甘木市付近にあった邪馬台国の一部、または主要な勢力が、卑弥呼(天照大神)の死後、三世紀後半に、南九州へ移動した事実があったであろうと考える。これが「天孫降臨」という形で伝承化したと考える。 ・南九州の邪馬台国勢力は、さらに東にうつり、大和朝廷をうちたてたと考える。それは三世紀末のこととみられる。すなわち私は、邪馬台国東遷の史実が「神武東遷」という形で伝えられたと考える。」 6大和朝廷の力の源泉はどこから ・では、そうした日本古代史を推進した天皇家の力の源泉は何であったかというと、氏は、主に二つあったという。(「前掲書」要約) ・一つは、伝統からくる力である。中国の魏によって承認された、日本を代表する邪馬台国の後継勢力であり、宗教的・政治的な伝統を持つことからくる力。 ・もう一つは、「魏志倭人伝」に倭人は「租賦を納む」とあるが、租税をとることによって国家ははじめて部族国家の域を脱する。兵士を雇い、最新式の武器を持ち、組織的訓練を受けた兵士に一般の人は勝てない。 ・なお、日本書紀でさえ「膂宍の空国」(荒れてやせた不毛の地)と記されている南九州から、大和朝廷の起源となる勢力が勃興することがあるであろうかとする疑問については、「私は、歴史を考えるばあいに、「歴史の必然性」や「可能性」以外に「英雄性」なども考慮しなければならないと考えている。元の勃興がジンギス汗という個人の「英雄性」に負うところが大きい」のと同様である。(*辺境から英雄が出る!) 7邪馬台国が降臨した高千穂は何処 ・安本氏は、こうした議論を経て、天孫降臨の高千穂の地が西臼杵であるか霧島であるかについて、次のように言う。(「前掲書」要約) ・私は、邪馬台国を伝承的に伝えた「高天原」は北九州の甘木市付近と考える。北九州と都城付近と大和の地名の類似は、天孫降臨や神武東征の伝承と関係するであろうと考える。 ・魏志倭人伝に「水行十日、陸行一月」とあるのは、邪馬台国の勢力が北九州から南九州に移ったという伝承(「天孫降臨」)が混乱し、(それが)邪馬台国までとなったのではないか。 ・いずれにしても、瓊瓊杵尊らが北九州から南九州に至ったことは確かであり、経路としては、私は、西臼杵の高千穂を通り、霧島の高千穂に至ったとする本居宣長の折衷説を支持する。 ・ただし、神代三山稜の比定地から見ても、日向三代の都(高千穂の宮=宮崎神宮)の伝承地から見ても、高千穂の峰は霧島山とする説の方が、西臼杵説より有利と考える。 8安本美典氏の説に対する私の疑問 ・こうした安本氏の議論の中で、特に問題となるのは、高千穂論争の考察において、延岡方面には、可愛の山稜があるだけで、「瓊瓊杵尊が至ったとされる笠沙に当たる地は求めにくい」としている点である。(「前掲書」p244) ・延岡には、このほか、祝子川とホオリ、五ヶ瀬川とイツセという名称の一致や、西階地区が古来高天原と言われていたこと。吉野や三輪など大和と一致する地名が残されていること。さらには、近隣の門川や日向に、伊勢地方の地名と一致する五十鈴川や伊勢が浜があることなどの事実が無視されている。 ・また、論理的な問題としては、「魏によって承認された伝統的な力を持ち、租税をとる脱部族国家」であるはずの邪馬台国が、なにゆえに、生産性の低い九州南部に降臨しなければならなかったか、についての説明が不十分である。(辺境から英雄が出るはよしとして) ・こうした論理的な疑問は、津田左右吉が提出したものでもあり、安本説はこうした疑問に十分答えているとは言えない。 9石川恒太郎『延岡市史』の日向神話 ・ここで、昭和25年に、個人で『延岡市史』を書きあげた石川 恒太郎(いしかわ つねたろう、1900年8月25日 - 1990年10月30日)の、日向神話についての所説を見ておきたい。 ・経歴:「宮崎県日向市生まれ。宮崎県立延岡中学校、専修大学卒業。「日州新聞」「大阪毎日新聞」などの記者を経て1940年、宮崎県立上代日向研究所特別委員となる。戦後は宮崎県文化財専門委員として考古学や地方史研究に携わる。歴史研究のかたわらラジオ番組で郷土史の講義を行う。1960年宮崎県文化賞を受賞」(wiki「石川恒太郎」) ・この『延岡市史』は、昭和14年に延岡市の紀元二千六百年記念事業として計画され、石川氏がその編纂を委嘱され、昭和19年に原稿が出来上がったが、戦災で焼失。戦後は、市や市議会の制度が変わったため、石川氏の個人出版として出版を続け、昭和25年までに三巻を出版したものである。 10日向神話の史実性は考古学が決する ・この『延岡市史』では、日向神話は、第二章(付録一)「高千穂の伝説について」として、約20ページが充てられている。 ・ここで石川氏は、戦後の風潮も反映したのだろうが、「伝承上の「筑紫の日向」は必ずしも現実の日向国とは限らない。それはあくまで説話上の日向であったと思う」と言いつつ、「ただ然し、日本民族の古い伝承が、全然事実を伝えるものではなく、空想的なものであると断言することもできないであろう。何故ならば、『古事記』や『日本書紀』が大和朝廷の淵源を説明するために編纂されたのに、尚ほその朝廷の初源地を大和国と言わずして、日向国と書いていることは、日本民族の古い伝承の上では、日向国として伝えられていたためであると考えられる。」 ・「従って、この皇祖の日向降臨の伝説が事実を伝えるものであるか否かは、今後に於ける考古学の研究の進歩によって、決する以外に方法はないのである」(「上掲書」p312)と但し書きしている。 11石川恒太郎の『邪馬台国と日向』 ・石川氏には、この他に、昭和47年発行の『邪馬台国と日向』という著書がある。石川氏はここで、「古代日本の国家形成との関係においては、邪馬台国と対立していた狗奴国の研究が最も重要である」として、魏志倭人伝に書かれた邪馬台国、狗奴国と、日向の位置関係を確定することの重要性を説いている。
・氏は、冒頭「今から152年前の文政元年に、現在の宮崎県串間市今町で、中国の前漢の時代のものと思われる「穀璧」(こくへき)が発掘されたこと、同じ穀璧が福岡県の怡土郡(奴国)でも出たことを述べ、これは串間市に「漢と交わりを結んでいた国があったことを証明するもの」としている。 12狗奴国が東遷し大和朝廷を建てた
・女王国では、卑弥呼に代わって男王を立てたが大乱となり、卑弥呼の長女壱与という13歳の少女を立ててようやく国が収まった。魏は265年に倒れ西晋の時代となった。翌266年、倭人が朝貢しているがこの倭人は女王国とは記されていない。 20卑弥呼の死と狗奴国の日向移住 24山幸が訪問した海神宮は福岡の奴国 邪馬台国論争における第一の関門が、魏志倭人伝における邪馬台国の場所の特定であるが、著者は、従来の見方と異なり「魏使は方位と二国間の目視(概算)距離を一支(壱岐)国を起点にして記録した」と理解すれば、松廬国、伊都国、奴国、不弥国の比定地と整合する。しかし、その南の邪馬壹(臺)国は目視できないから、当時の日本は距離を日数で表していたとし、隋使は邪馬台国に至る道程を帯方郡から「水行十日陸行一月」とした。一月は、
伊都国に邪馬台国の出先機関が置かれていたことからして「一日」の誤植であり、その位置は、伊都国から背振山を超えた丘陵地=山臺、つまり、現在の吉野ヶ里台地にあったとする。 25天皇が小橋君を優遇したわけ 都城歩兵第23連隊の悲劇(延岡史談会講演プレゼン資料)
・「大東亜戦争」当時の日本人は、この戦争についてどんなイメージを持っていたか。中国との戦争については、通州事件(s12.7.29)などもあり、当初は「暴支膺懲」(s12.8)が唱えられた。 ・戦争が拡大し、英米が中国を支援し日本との対立が深まると、欧米のアジア支配に対抗して「東亜新秩序」(s13.11)が唱えられた。 ・それが、米英を刺激し、経済封鎖されると、日本は資源を求めて南進。さらにアメリカがハルノート(s16.11.27)で、日本軍の中国からの全面撤兵他を求めると、日本は対米英蘭戦争に突入、その戦争目的は「自存自衛」(s16.12)とされた。 ・しかし、戦争が全東亜から南西太平洋全域に拡大すると、戦争目的を世界に通用するものとするため「植民地解放・人種差別撤廃」(s18.10「大東亜宣言」)が唱えられた。 ・しかし、日本はあえなく敗戦。GHQは、その最初の仕事として、この戦争の性格を大東亜戦争(=植民地解放)ではなく、「世界支配のための侵略戦争」であるとして、この言葉の使用を禁止した。 ・東京裁判の判決は「侵略戦争を共同謀議した」だが、事実は、日本に、日中、日米戦争に対する先を見通した戦争計画があったわけではなく、「持たざる国vs持てる国」論を背景に「行き当たりばったり」の戦争をしただけだった。 2.『都城歩兵第23連隊戦記』発刊の言葉―坂本昵(編纂委員長) ・歩兵23連隊は明治19年6月5日に創設、初め熊本、次いで日向(都城)に駐屯、「光輝ある軍旗の下に一致団結、平時においても精強無比を謳われた連隊」であった。 ・日清日露の両戦役、満州、支那両事変、大東亜戦争と、我が国運を賭した戦いにはことごとく参加し、日露戦役では十八個、支那事変では八個の感状を受けた。これほどの武勲に輝く連隊は史上類例を見ず、われらの最も誇りとするところである。(中略) ・本書は主として支那事変以降の作戦行動を記録したものであり、軍全般の作戦の中で連隊の占める地位を明らかにし、各大隊、各中隊の行動も判明する限り明記することに努めた。 ・これがためにはあらゆる手段を講じて真相を究明し、聊かも修飾を加えずありのままを忠実に記述したもので、巷間に出ている興味本位の戦記物語に類するものとは趣を異にし、文章は稚拙ながら、これこそ真の歩兵第23連隊の正史である。(後略) 3.都城歩兵第23連隊戦死者約6000名のデーターベースから判ること ・23連隊の場合、戦死者の約8割は、ブーゲンビル移駐以降の米・豪との戦いの中で生じた。 ・都城歩兵第23連隊の将兵の出身県は、宮崎63%、沖縄10%、鹿児島9%、大分8%となっているが、その他に、北海道や東北などの出身者も含まれる。 ・これは、中部ソロモンには、ガダルカナル戦生き残りの部隊も配置され、戦争末期に解体され、23連隊他に編入されたためである。 ・昭和19年2月にラバウルが戦略的に孤立して以降、ブーゲンビルも孤立した。その結果、ラバウルでは約10万の将兵が生き残ることができた。 ・しかし、ブーゲンビルでは、将兵約6万の内約3万が生き残ったが、23連隊の場合、上海出発時は約5千数百人の内、生き残ったのはわずか400名(NHK)に過ぎなかった。 4.23連隊戦いの軌跡「済南事件」が日中戦争に至る日中反目の種を蒔いた! *s2.3.24 第一次南京事件発生、その処理を巡り第一次若槻内閣退陣、田中義一内閣誕生、その対支積極外交が済南事件(s3.5.8)を引き起こした。 ・s3.4.19 第6師団出動電報受領 都城→門司→青島→済南(4.25)→日本軍と北伐軍が衝突(邦人男女十数名惨殺)→済南城攻撃(5.8)、23連隊は商埠地西南方12キロの覚家荘攻撃・掃討 *日本軍の済南城攻撃で北伐軍に多大の犠牲が出た(中国側調査死者約3200とするが、児島襄『日中戦争』ではその1/10)ことが、中国の統一妨害と受け取られ、蒋介石の対日政策が硬化した。*外交部長を親日派の黄郛から革命外交の王正廷に代えるなど *その後、「張作霖爆殺事件」s3.6.4)発生。これが張学良の恨みを買い、満州の易幟(12.29)となり、以後、満州でも、排日運動が激しくなった。 5.「熱河作戦」→日本の国際連盟からの脱退を余儀なくさせた ・s6.9.18 満州事変勃発、満州国成立(s7.3.1) ・s7.12.6 第6師団に満州派遣命令→都城出発→門司→鴨緑江を渡り通化→奉天→通化警備(s7.12.27~s8.2.5) ・23連隊は、2月15日、師団司令部から熱河作戦集中を命ぜられた。→赤峰 (零下40度)周辺の敵を掃討。 ・関東軍は、熱河省の敵を掃討して満州国の建設を確立するため、長城線に進出することを決した。 *s8.2.24 国際連盟は、リットン報告を元に満州国を認めない勧告案を成立させた。松岡、国際連盟脱退演説。 ・23連隊、赤峰→冷口東側長城線占領(s8.4.11) *政府は、国際連盟に止まる方針だったが、国際連盟の勧告案が出された後に軍事行動(熱河作戦)を行うと、連盟規約16条により対日宣戦または経済制裁を受ける恐れがあり、そこで、こうした制裁を防ぐため、日本政府は勧告前の脱退を決意したとされる 6.「華北作戦」→満州事変は塘沽停戦協定で収束、日中親善を模索 ・s8.4.10 23連隊第6、7中隊、冷口付近から関内突入、建昌営→永平(4.16)・河東岸一帯占領 ・s8.4.19 師団は軍命令により長城線に引き返す。その後、中国軍が進出してきたとして反撃、林南倉まで押し返す。 ・s8.5.10 昭和天皇「熱河作戦は関内に進出しないが条件」然るに「勝手にこれ之を無視したる行動を採るは綱紀上、統帥上穏当ならず」(本庄日記) ・s8.5.31 塘沽停戦協定成立(非武装地帯設定など) ・23連隊「林南倉」出発(6.12)→燎源(6.19~9.26警備に任ず)→都城帰還(10.11) *満州事変は、塘沽停戦協定で一応収束。これ以降、蒋介石は、剿共作戦に邁進、日本の広田和協外交を歓迎、日中親善を図ることがアジアの平和ひいては世界戦争の危機を免れるとし、日本政府に対し、1.相互の独立尊重、2.真正の友誼、3.紛争の平和的外交的解決、という中国側三条件を提案。満州問題については「不問とする」とした。 7.「北支事変」→不用意な華北分離工作が抗日戦争を招いた *支那駐屯軍および関東軍は、非武装地帯での反満抗日活動を抑える名目で、梅津何応欽協定、土肥原秦徳純協定を中国側に強い非武装地帯の拡大、さらには親日傀儡政権の樹立を図った(華北分離工作s10.6)。*中国に満州国を承認させる事が目的 *このため日中和平交渉は頓挫、 s11.12.12西安事件発生、蒋介石は剿共作戦から安内攘外政策に転換 * s12.7.7盧溝橋事件発生。日本は不拡大方針をとるも、中央軍の北上を恐れ内地3師団派兵を決定(7.11)、廊坊事件、公安門事件(7.26)、通州事件(7.29)発生、中国の抗日機運は止められなくなっていた。 ・s12.7.27第6・5・10師団に動員下令、23連隊「神柱神社」で出陣式(8.1)→釜山→山海関を経て北京南東黄村に下車(8.13) ・23連隊、北京西方板橋・千軍台の戦い(8.22~9.17)→保定占領(9.24)→石家荘占領(10.17) 8.「中支作戦」→激戦の末、総崩れとなった中国軍を追って南京へ *石原莞爾が危惧していた通り、北支の戦線は上海に飛び火(s12.8.13)。8.15第3、11師団、9.9第9、13、101師団派兵、さらに第16師及び第十軍( 6、18、114師、国崎支隊他)を増派した(11.5上陸)。この時点までに日本側の戦死傷者数は4万に達した。 ・第6師団は、北支から塘沽を経て船で杭州湾に上陸、雨、ぬかるみ、クリークで、車、馬は上海に回送、重火器は分解搬送。中国軍は、第10軍の杭州湾上陸を機に一斉退却に転じた。 ・23連隊は、杭州湾上陸後、第10軍から上海派遣軍に編成替→松江(11.7)→青浦→崑山占領(11.14)後第10軍に復帰、南京めざし平望鎮(11.25)→広徳→・水(12.6)と進撃。 * 12月9日、日本軍中国軍に降伏勧告。中国軍応ぜず南京城総攻撃開始(12.10) 9.「南京戦」→南京大虐殺と都城歩兵第23連隊 ・23連隊の南京城攻撃は、城壁西南角を担当、s12.12.13城壁占領、城壁に沿い城内を清涼山まで北上、その間「敵兵はほとんど見ず住民も退避して大した銃声もなく」その後、連隊は水西門東側地区に後退し付近に宿営、翌年1月3日まで南京に駐留。 ・この間発生したとされる南京大虐殺について「戦記」は、「戦後喧伝されたこの事件について、当時全く見聞したこともなく、また夢想だにしなかったことであり、戦後そのことを聞いて甚だ驚いた次第である。 ・また、仮にも万々一そのような事実があったとしても、我が連隊の関知する所ではないことは言うまでもない。戦場ではよく戦った訓練精到な軍隊には、非違行為等のないことは旧陸軍の定説である。」*都城23連隊「ニセ写真事件」 10.「武漢攻略戦」→なぜ、23連隊は漢口入場の前衛となったか? *南京陥落(12.13)、徐州会戦(s13.5.19)後も、蒋介石政権は日本に対し、「持久」による徹底抗戦を継続。日本軍は、中国の要衝を攻略することで、蒋介石を屈服させようと、30万以上の兵力を動員して本作戦を強行した。 ・第6師団は蕪湖に移動、その後約半年間周辺地区を警備。 ・s13.7.5、第11軍戦闘序列(第6、9、27、101、106師、台湾独立混成旅団、司令官岡村泰次)を発令、6師団は揚子江北部を漢口に向かった。 ・潜山(7.25)→黄梅(8.2)→広済(9.22)→田家鎮(9.29)→漢口(10.26)→漢口入場式(11.3) *漢口入場に際して、第11軍司令官岡村寧次は、南京事件の再発を恐れ、第6師団中「最も、軍規・風紀の正しい都城連隊(宮崎県)の2大隊に限り、・・前衛」とした。(『岡村寧次大将資料(上)』)。 11.「南昌作戦」→仏印ルート、援蒋ルート遮断及び(かん)湘作戦 *南昌は、大陸沿岸→長沙に通ずる援蒋ルート、ハノイを通ずる仏印ルートの拠点 ・そこで、第11軍はこの南昌を攻略し、反抗拠点を覆滅せんとし、第6師団に武寧方面の作戦を命じ、石灰窟(s14.2.13)→瑞昌(2.19)→若渓(2.24)→靖安(3.29)と進み、武寧周辺の敵を掃討(4.11)して、南昌作戦を終結した。 ・その後、第6師団は、武昌に転進し、その地区の警備に当たり、9月下旬から(かん)湘作戦を実施した。 ・(江西省)湘(湖南省)作戦とは、粤漢線沿いの蒋介石直系中央軍主力を撃破して、継戦意思挫折を促進することを目的に実施したもの。新墻→崇陽→長楽街→汨水渡河し、金井近くまで進出(9.28)したが深追いを避けて反転した。 12.「冬季反撃作戦」→中国軍の反攻が強まり、持久戦の様相 *武漢三鎮攻略作戦終了後、日本軍の占領地域は著しく拡大。陸軍の動員余力は底をつき、国内の軍需生産能力も限度に達した。 *一方ソ連は、s13年来ソ連国境に24個師を集結 *そこで、対ソ戦に備えるため、「中国戦場においては自今積極作戦実施せず、治安の回復を第一として、政謀略により事変の解決を図る」こととした(汪兆銘工作のこと) *蒋介石は、これを見て攻勢に転じた。 ・ これに対する反撃作戦が、第一期(s14.12.12~12.19)、第二期(s15.1.15~1.22)冬期反撃作戦で、板橋、白霓(ゲイ)橋付近の蒋介石軍の攻勢を撃退。その後、持久戦の様相を呈し、各部隊は現地自活態勢に入った。 13.「宜昌作戦」→重慶との和平工作推進のため圧力かける *宜昌は、重慶に圧力を加える戦略上の要衝で、この地の第五戦区軍を撃破することで、蒋介石との和平工作(桐工作)を促進しようとした。 ・23連隊からは池田支隊に、第3、7、12中隊、第二機関銃中隊、第二大隊小隊他が参加。 ・第一期作戦 池田支隊は、随県(s15.5.4)→棗陽(ソウヨウ)→安陸を経て漢水渡河準備(5月末)。第二期作戦 襄陽、宜城付近で漢水を渡河→荊門→沙市。宜昌攻略は6月12日。 ・陸水・・陽作戦 大雲山東方及び通常西南方地区の中国軍に痛撃を与える。桃林(s16.1)→通城→・陽(2.17) ・「宜昌確保」は兵力増強できず反転(6.17)。しかし、ドイツ軍快進撃(6月パリ無血入場)で積極論が台頭、宜昌を再占領。*重慶では、日本軍の重慶進攻の噂が流れ、国民政府内部での抗戦・和平派の分裂が激化。蒋介石総統が抗戦8年間に最も危機を感じたのは、この宜昌作戦の時であったとされる(wiki)→カイロ会談 14.「第一次長沙作戦」→「南進」を前に中国第9戦区軍に打撃 *長沙には、中国軍第9戦区軍司令部があり、その戦力は充実していた。宜昌作戦で追い詰めた蒋介石にさらに打撃を与えることで、事変の早期解決を図ろうとした。 *ところが、昭和16年6月独ソ戦が勃発、松岡洋右の日独伊ソによるアメリカ牽制が崩壊、南進論or北進論が拮抗する中、「関特演」への兵力転用や、日米交渉の難航による南方作戦準備で、長沙進攻中止論が台頭した。 *しかし、第11軍司令官阿南惟幾中将は、南方や満州への兵力抽出の前に中国軍に打撃を与え、以後の自存自活を容易にするため、この作戦を実行に移した。(wiki) ・23連隊は、新墻河~汨水間の敵撃破(s16.9.18)→汨水渡河し金井に突入(9.24)、長沙に向かい追撃、74軍壊滅→長沙突入(9.27)→11軍は、敵骨幹戦力(74軍、37軍、26軍、10軍)を壊滅させ、作戦目的を達成したとして反転(10.1) ・「第二次長沙作戦」→日米開戦後の南方作戦に呼応 *対米英開戦(s16.12.8)により始まった香港攻略作戦(第23軍)を支援する目的で、広東方面へ南下した中国軍を牽制するのが目的。 *あくまで牽制が目的だったが、阿南軍司令官は、中国戦線が戦争の主戦場で無くなったとみる風潮が広がるのを恐れ、積極的攻勢策をとった。 *しかし、第一次長沙作戦とは異なり、第3師団以外は準備不足で、弾薬・食料・医療品・輸送手段などの十分な準備もないまま長沙への進攻を開始。そのため、長沙周辺で準備していた敵の頑強な抵抗を受けた。(wiki) ・第6師は、新墻河北岸地区に集結(s16.12.20)→汨水渡河(12.27)→長沙追撃(12.29)するも苦戦の連続、ついに、第11軍は各師団に撤退命令(s17.1.3)「撤退作戦間は常に敵の重囲に陥り、終日突撃の連続で敵と一体となって後退」を余儀なくされた。 15.「淅(かん)作戦」→ドーリットル空襲に衝撃を受け浙江の飛行場を潰す *s17.4.18、米航空母艦2隻(エンタープライズ、ホーネット)を基幹とするアメリカ海軍機動部隊が本州東方海域に到達、ホーネットよりB-25双発爆撃機16機が発進し、東京、名古屋、大阪を空襲。 *日本本土爆撃を終えたB-25のうち、15機は中国大陸に不時着、飛行機は全損。搭乗員8名が日本軍の捕虜(3名処刑)となった。また1機はソビエト連邦支配地域に不時着して、搭乗員は抑留された。 *日本陸軍は、ドーリットル空襲に意表を突かれ、その再発を防ぐため、作戦に利用された浙江省以南の国民革命軍の飛行場を利用できなくすることを目的として、浙・作戦を実施した。(wiki) ・23連隊は、警備地長安・出発(5.20)→(武昌・九江を経て徳安(5.31)→南昌→撫州→建昌→貴渓→横峯(7.1)と進み西部隊と相会、淅(かん)打通作戦に成功(7.1) 16.「南方への転出」→ガダルカナルに行く予定がブーゲンビル島へ *淅(かん)打通作戦を終えた23連隊は、中支における作戦の幕を閉じ、揚子江を船で下って12月初旬上海周辺に集結。*その目的は大体南方転進と思っていた。 *編成装備改変し連隊総人員は五千数百人に達した。 *12月18日、師団の行き先判明。畑総司令官「第6師団は日本陸軍を代表して、ガダルカナルに行くのだから、しっかりやって貰いたい」 ・上海出航(s17.12.20)→パラオ(s18.1.1~3)→トラック島(s8.1.9)入港、翌日ガ島奪回作戦中止、 *第6師団は、第17軍に編入ブーゲンビル島へ。途中、敵潜水艦の魚雷攻撃を受け、23連隊は第3、7、8中隊、第3機関銃中隊から37名の戦死者と1800名の水難者を出した。受領した新兵器、弾薬、食糧の大部分を失った。1月21日ブーゲンビル東南端エレベンタ海岸に上陸。 17.「山本五十六遭難」→第23連隊兵士による救出作戦 ・ブーゲンビルでは、6師23連隊各大隊はムグアイ、タイタイ、モシゲタに分駐。 ・この頃からロッキードp38の偵察飛行が始まる。日本軍は万一を考慮し現地自活態勢を取った。 *s18年4月18日、山本五十六長官「イ号作戦」でラバウルからブインに行く途中、アク西方上空で米軍戦闘機に邀撃され墜落戦死。 *連隊砲中隊浜砂少尉以下12名捜索を行い遺体収容、第7中隊西門軍曹、宇垣纏参謀長海中より救出。 ・4月28日、第3大隊サンタイサベル島派遣 ・5月、海軍の要請で「南島支隊」編成、ガダルカナルを撤退した38師3個大隊でムンダを中心に中部ソロモン防衛 ・6月下旬、ラバウル待機中の第6師歩13連隊、コロンバンガラ進出 18.「中部ソロモンからの撤退」→ブーゲンビル島に兵力集中 ・s18.6.30米軍レンドバ島上陸、7月2日ムンダ上陸開始、南東支隊苦闘、 ・ショートランドの第2大隊、米海軍の艦砲射撃15000発の集中攻撃を受ける。「従来体験したことのないすさまじさ」(6.30)。8月上旬ブ島帰還。8月下旬撤退部隊支援のためチョイセル島に派遣。 *大本営は、中部ソロモン防衛は限度に達したとし南東支隊を後方転用(8.13)、コロンバンガラ守備隊もブ島に撤収。第3大隊ブ島上陸(10.13)しマワレカ北部で戦力回復 ・第1大隊10月上旬マワレカ進出。米軍上陸に備え、水際撃滅のための陣地構築。 ・タロキナに守備隊( 第1大隊第2中隊、機関銃1小隊、連隊砲1分隊、無線1分隊、計234名)を置く。 19.「第一次タロキナ作戦」→ラバウル空襲の米軍飛行場攻撃 *s18.11.1 米軍タロキナ砲撃開始、米軍タロキナに上陸し橋頭堡設置。目的は、タロキナ岬にラバウル空襲のための航空基地建設。日本側守備隊全滅。 *同日、日本海軍は「ろ号作戦」発動、ラバウルよりブーゲンビル島のアメリカ軍へ航空攻撃を行い、以後ブーゲンビル島沖航空戦が六回(12.3まで)に渡り行われた。 ・第6師団長は、タロキナ上陸の報に接し、23連隊に上陸した米軍攻撃を命令 (第1、3大隊計2240名(戦闘要員1200名、輜重兵1000人)7日分糧食)。 ・第1大隊マワレカ出発(11.4)タロキナ道~ビーバー河小支流の線に躍進。第3大隊敵陣地攻撃(11.8) *米軍一旦後退。第1大隊攻撃前進(11.9)、米軍集中射撃、「弾量の差1対150。戦闘と言うより一方的な殺戮に等しい」。各隊に対し離脱命令(11.10)。ナボイの戦い(11.29)では、1大隊規模の米海兵隊の上陸を阻止 20.「第二次タロキナ作戦」→ラバウル孤立、米軍追撃せず ・s19.1月末、第2大隊チョイセル島より帰還。 *s19.2.20 ラバウル基地航空部隊の撤退と、s19.2.29アメリカ軍のアドミラルティ諸島上陸で、ラバウルは完全に孤立。ラバウルからブーゲンビルへの補給も途絶えた。 *日本の第17軍は、第6師団を主力とする2万人の兵力で、タロキナ航空基地制圧を再度試みたが(3月8日) 、圧倒的なアメリカ軍の火力で損害が増え、食料・弾薬にも事欠き、攻撃中止を決定(3.25)。この作戦での第6師団の損害は、死傷1万3千人の壊滅的なものであった。 *第6師団長神田中将回想「軍紀も勅諭も戦陣訓も百万遍の精神訓話も、飢の前には全然無価値だった」 *第二次タロキナ作戦後、アメリカ軍第37師団長ロバート・S・ベイトラー少将は、降伏しようとする日本兵を捕虜とせずに射殺するよう命令。(wiki) ・「現地自活」→豪軍、日本軍の全面的撃破に出てきた ・第6師団、パポナ(ナボイ西方2キロ)からモシゲタ転進後(s19.3.25)米軍の追撃なし。次期作戦を準備しつつ現地自活始まる。 ・椰子の葉を編んで作った屋根の家、兵士の半数は食糧採集、半数は農園作り。主食は甘藷の葉の茎をゆでたもの。ジャングル野菜、トカゲ、蛇、蝉、ねずみ、鬼椰子澱粉(団子やかゆ、澱粉虫採集)等。甘藷の植え付けは2ヶ月半で一人一日100グラム支給できるようになり、食糧の危機を脱した。 *しかし、将兵の体力は極端に弱っており、医薬品もなく、マラリヤ、栄養失調で死亡するものが続出。 *s19.11.22 米軍は豪州軍と交代。米軍がタロキナ橋頭堡確保後その航空基地からラバウル、ブインに対し戦略爆撃を実施する作戦に終始したのに対し、豪州軍は、ブ島の日本軍を全面的に撃破する積極方針に出た。 21.「プリアカ作戦」→米軍、豪軍と交代、豪軍全面撃破に出る ・s19.12.23豪州軍、モシゲタ方面に対して作戦開始。 ・20年2月末、西地区警備隊はプリアカ河以東に撤退。 ・師団では、19年4月の自活生活以降、甘藷の代わりに陸稲に転換指導。立派に成長し、将兵一同稲刈り、脱穀、もみすり等考慮中、プリアカ作戦開始(s20.4)され、一粒も利用できぬまま戦場に。 ・豪州軍、プリアカ河渡河し東岸の豪州台占領。第6師団反撃開始(4月~5月)。豪州軍ハリ河の我が陣地を攻撃(5.28)。23連隊は、師団命令でモビアイ河西岸に後退。 ・第6師団は、豪軍の前進を阻止するため、23連隊はA道(ルナイ・\ルイセイ・\シシガキロ、ミオ河)方面の要所を占領し、豪州軍の進撃を阻止(6.29~8.9)。 22.無条件降伏、軍旗奉焼、復員 ・s20.8.16「日本は8月15日無条件降伏」の知らせ ・8.20 参列将校の嗚咽の声も高く場内に流れる間に厳粛に軍旗奉焼。 ・8.25 武装解除とファウロ島移駐、キャンプ生活始まる。 ・s21.2.12 病院船氷川丸入港、第一次は入院患者と負傷兵送還。 ・2.25 復員船空母「鳳翅」入港、「生死を誓い合った戦友の大半は忠勇護国の神と化し、数多くの先輩僚友を残しての別離は、真に断腸の思いで、将来必ずお迎えに参りますと心の中に誓った」 ・佐世保入港(2.27)、歩兵第23連隊解隊(2.28)。 ・「上海出発当時、精鋭五千数百名を数えたわが連隊の将兵も、この時(復員船で)帰還した者は僅か百三十五名に過ぎなかった。」(入院患者負傷兵を合わせ約400名) 23.ソロモン諸島は、世界屈指の親日地域 ・ブ島の先住民に対する宣撫工作では、日本兵に略奪禁止を徹底、先住民には日本式農園の作り方や塩、魚の取り方、ドラム缶からスコップやナイフ等を作る技術を教えて信頼関係を築き上げた。特にブカ島では先住民向けの学校を設置し、各地の青年を集めて上記の技術を教えた。 ・戦争終結後、現地に於ける軍事裁判で、旧日本軍側に対する恣意的な判決が続出した際、多くの現地住民が日本軍将兵を擁護。また、過酷な捕虜生活に於いて、困窮している日本軍将兵を原住民が助けた。この影響は終戦後も続き、ソロモン諸島は世界でも屈指の親日地域となっている。 ・「結局は誠意の問題である。白人は彼らを人間として扱わなかったが、私達は彼らを人間として扱った。そこが違っていたのだろう。」(wiki) 24.問題は外交より軍事が優先したこと ・以上、日中戦争を最前線で戦い、日米豪戦争で殿を務めた都城歩兵第23連隊の戦いを見てきたが、その「あわれ」は、第6師団長神田中将回想「軍紀も勅諭も戦陣訓も百万遍の精神訓話も、飢の前には全然無価値だった」という言葉に尽きている。 ・日本軍は、「生きて虜囚の辱めを受けず」で人命尊重しなかったと言われるが、板東捕虜収容所における捕虜の人道的取り扱いは有名である。 ・また、国際連盟における日本の「人種差別撤廃」提案や、幣原喜重郎の国際協調外交は、英米だけでなく中国の信頼も集めた。 ・しかし、敗戦の結果、日本は、侵略戦争の烙印だけでなく、南京大虐殺、慰安婦強制連行等、残虐非道の汚名を着ることになった。 ・もし、この時期、日本が「植民地解放・人種差別反対」の先見の下に、武力によらず、粘り強い外交を展開していれば、済南事件以降の中国との関係悪化は防げただろうし、日中戦争も日米戦争も起きなかっただろう。 25.大東亜戦争に至る危機的局面で、日本が取りうる外交的選択はいくつもあった ・仮に、(1)コミンテルン・中共の謀略があったとしても、華北分離工作をやらなければ、蒋介石との講和は可能だったのではないか。 ・(2)それができず、アメリカに経済封鎖され、さらに「ハルノート」を突きつけられたとしても、逆に、戦争反対のアメリカ世論に訴えることで日米戦争を回避できたのではないか。 ・(3)もしや回避できなかったとしても、日本からはアメリカに宣戦せず、戦域を東アジアに止め、邀撃戦を展開すれば、勝利は望めなくてもドローに持ち込めたのでは? ・よく、ポイントオブノーリターンはどこか、ということが言われるが、このように、外交には、多段階の、いくつもの選択肢があることを忘れてはならない。 26.先見性→外交→国内体制整備→軍事力は、それぞれの局面でどう間違ったか ・日中関係を悪化させた事件の連鎖→済南事件、張作霖爆殺事件、満州事変、華北分離工作等(軍) ・トラウトマン和平工作等和平工作の失敗(外) ・ヒトラードイツとの同盟締結(先) ・真珠湾攻撃でアメリカ世論を一気に戦争に向かわせたこと(外) ・米豪遮断のためのFS作戦、MO作戦、珊瑚礁海戦、ガダルカナルの戦い、ニューギニア戦、ブーゲンビル戦等、補給困難な遠隔地での消耗戦を強いられたこと。(軍) ・アッツ島、ギルバード諸島、マーシャル諸島における玉砕戦、特攻攻撃など(軍) ・植民地解放・人種差別反対の先見性を堅持し、正しく、外交→国内体制の整備→軍事力の手順を踏んでいれば、あるいは・・・。 27.なぜ、GHQは、「大東亜戦争」という言葉を禁じたか? ・「大東亜戦争」は、日本が昭和16年12月8日、米国・英国・オランダ・中華民国との間に始めた戦争に、東条内閣が12月12日の閣議で、それ以前の支那事変を含めて名付けたもの。 ・昭和の戦争は、満州事変が引き金となり、北支事変(盧溝橋事件(s12.7.7)発生以降上海戦が本格化火するまで)→支那事変(s12.9.2近衛内閣閣議決定)→大東亜戦争(s16.12.10)と変化した。 ・また、その戦争目的は、支那事変は暴支膺懲から東亜新秩序、大東亜戦争は自存自衛から植民地解放と変化した。 ・つまり、日本は、欧米の植民地主義に対する批判を根底に持ちつつも、中国との連携に失敗して戦争となり、その中国を英米が支援したため、戦争目的を暴支膺懲(s12.8.15)から東亜新秩序へと格上げしたのである。 ・それが、さらに米英を刺激し、日本に対する経済封鎖が強化されため、日本は日独伊三国同盟(s15.9.27)+日ソ中立条約(s16.4.25)でアメリカを牽制しようとしたが、独ソ開戦(s16.6.22)で破綻、その後、北進か南進か迫られ、南進=南部仏印進駐となった。 28.日本の将兵、国民は植民地解放という戦争目的を信じた! ・これに対してアメリカは、在米日本資産凍結(s16.7.25)対日石油全面禁輸(s16.8.1)、さらにハルノート(s16.11.26)で、中国からの全面撤兵他を要求し日米交渉は決裂。こうして日本は、「自存自衛」を目的とする大東亜戦争に突入した。 ・戦争は、全東亜から南西太平洋全域に拡大。戦争目的は「自存自衛」から「植民地解放・人種差別撤廃」(「大東亜共同宣言」s18.11.6)へと格上げされた。 ・これに対してアメリカは、この戦争を「世界の自由な人民」と「ヒトラーと同じ世界征服を目指す軍国主義者」との戦い」であると宣言(「カイロ宣言」s18.11)。 ・東京裁判では、日本は「世界支配のための侵略戦争を共同謀議した」と断罪された。そのため、植民地解放という「大義」を内包する「大東亜戦争」という言葉の使用は、GHQにより禁止された。 ・世界侵略戦争か植民地解放か?いずれにしろ、戦争終結後、世界の植民地解放・民族独立が進んだことは事実であり、また、当時の日本の将兵、国民がこの「大義」を信じて、米英と戦ったことも事実である。 昭和史の謎を解く30の視点(延岡史談会講演プレゼン資料)
1.軍が政治に関与しなければ昭和の戦争はなかった 軍縮:第一次世界大戦後、世界的に軍縮が叫ばれ、日本陸軍は山梨軍縮、宇垣軍縮で将兵約10万を削減、4師団を整理した。そのため、多くの軍人が早期退役、ポスト削減、減俸を強いられ、世間の軍人に対する人気も悪くなり、ともすれば軽んぜられるようになった。そのため軍内に「10年の臥薪嘗胆」という言葉が生まれ、軍縮を行った政党政治が敵視されるようになった。一方、海軍でも1922年のワシントン海軍軍縮会議で主力艦が米英日比5・5・3・に制限され、さらに1930年のロンドン海軍軍縮会議では、補助艦比率が10・10・6.975に制限されたことで「統帥権干犯」問題が勃発した。この後、統帥権の名のもとに「軍の編成や装備に関する予算」に政府が口を出せなくなり、結果的に、軍の暴走を許すことになってしまった。 2.政党政治への国民の失望:原内閣以来、日本の政党政治は定着するかにみえたが、昭和初期の経済不況や政治的混乱の中で金権腐敗、党利党略の政党政治に対する国民の不満が高まった。 3.普通選挙:昭和3年から普通選挙が実施されたことで、政治に対する国民の不満が、直接、政治に反映するようになった。このような状況の中で、いち早く政治宣伝の重要性に気づいたのが軍だった。ここで、軍が目を付けたのが「満州問題」で、これを「日本の生命線」と宣伝することで、軍に対する国民の支持を得ようとした。 Q2なぜ、国民は満州事変を支持したか?石原は国民が支持しなければ失敗すると考えていた 4.石原莞爾の思想:石原の思想は、西洋(覇権)文明と東洋(道徳)文明を対立的に捉え、最終的には後者が前者を倒し、世界平和が実現するというものだった(これは近衛の「持てる国」vs「持たざる国」論の延長上にある)こうした思想をベースに、石原は満蒙領有論を唱え、その手段として「霊妙なる統帥権」を梃に、満州事変を引き起こした。この頃、軍の宣伝効果もあり、「満州問題」の解決に武力を用いることを支持する国民は9割に達していた。 5.真相の隠蔽:ここで、満州事変が関東軍一部将校の謀略だった事実は隠された。国民はあくまでこの事件を「報償=侵害された条約上の権利を取り戻す」と捉え、満州国の成立は、満州人の自治運動の結果と説明された。真相が明らかになったのは昭和30年のこと(「花谷正」証言) 6.結果オーライ主義:実は、「満州問題」の処理に関する軍中央の方針は“武力を使うにしても国際社会の支持を得べく約1年隠忍自重する”だった。満州事変はこうした軍中央の命令に反し、かつ天皇大権をも無視するものだった。当然、軍紀違反で処罰されるべきだったが、軍はこれを「結果オーライ」で褒章。国民はこれを大歓迎、この結果、軍内に下克上的統制破壊が蔓延することとなった。 Q3なぜ、関東軍は華北に進出したか?日本が満州に止まれば、日中戦争にはならなかった 7.満州国確保:満州国成立後の日本の基本方針は“長城を超えて関内に入らない”だった。1933年5月には塘沽停戦協定が成立し、華北には非武装地帯が設定された。しかし、華北における反日活動が止まないことから、支那駐屯軍や関東軍の一部将校が暴走し、梅津・何応欽協定、土肥原・秦徳順協定を中国側に強要し、華北から中国軍を排除しようとした。その態度が強圧的であったことから、中国人は華北の満州化を恐れるようになった。 8.対ソ防衛:関東軍は、対ソ防衛を確実にするためには、満州国確保だけでなく、華北、内蒙地域に反日容共でない政権の樹立が必要と考えた。綏遠事件はその一環。しかしこれは失敗し、かえって中国軍の抗日意識を高める結果となった。この頃、参謀本部作戦部長だった石原莞爾は、こうした工作は日中戦争を誘発する危険があるのでやめさせようとしたが、“満州事変当時の石原さんの行動を見習っている”と反論される始末だった。 9.軍事資源の獲得:華北には満州では得られない良質の石炭や鉄鉱石が多くあった。対ソ防衛、さらには将来の米英との戦争に備えるためにも、華北の軍事資源が必要とされた。 こうして、華北の非武装化に止まらず、さらに進んで、華北に親日政権樹立を目指す「華北分離工作」が行われるようになった。 Q4なぜ、日本は中国と戦争をしたか?日中双方とも戦争を望んでいなかった、望んだのは? 10.敵か友か」(1934年12月、南京で発行された雑誌「外交評論」に発表された蒋介石の見解):「理を知る中国人はすべて、究極的には日本人を敵としてはならないということを知っているし、中国は日本と手を携える必要があることを知っていることである。これは世界の大勢と中日両国の過去、現在、そして将来(もし共倒れにならなければであるが・・・)を徹底的に検討したうえでの結論である」蒋介石は、この論文で、「満州問題」処理における中国の拙速を反省するとともに、日本が中国の主権を尊重するならば、「満州問題の棚上げ、日中親善・互助互恵」は可能とした。 11.西安事件:その一方で、蒋介石は塘沽停戦協定以来「掃共戦」を推し進め、共産軍を陝西省の延安に追い詰めた。1936年12月12日、紅軍の根拠地撲滅の闘いの督励に来た蒋介石を張学良は拉致「内戦停止」他8項目を要求した。国民政府はこれを受け入れ蒋介石は解放されたが、国民党は、翌1937年2月の三中全会で中国共産党の完全掃滅を決議した。 12.船津工作:こうした状況の中で、1937年7月7日北京郊外の盧溝橋で日中両軍が衝突した。日本は不拡大に努めると共に、中国との和平の道を開くため、日本の出先軍が1933年以降積み上げてきた華北既得権の大半を放棄する「寛大な案」を中国側に提示した。特に満州承認問題については、「今後問題にせずとの約束を隠約の内になす」ことで足りるとした。 Q5なぜ、日本軍は上海に止まらず南京を攻めたか?居留民保護が目的だったが 13.第二次上海事件:盧溝橋事件に端を発した日中の衝突は、1937年8月には上海に飛び火した。盧溝橋事件もそうだが、この第二次上海事変も、中国の抗日意識の高まりの中で発生した。日本は上海でも不拡大に努めたが、1937年8月14日、国民党軍機が上海の日本艦艇を空襲するに及んで日中全面戦争となった。日本軍の戦争目的は、当初、上海の「居留民保護」だったが、上海周辺はドイツ軍の指導で堅固な防御陣地が築かれ、中国軍兵士はドイツ式の訓練を受け、武器を供与され、中国軍精鋭部隊の投入もあって、上海戦は激戦(中国軍総兵力約80万、日本軍総兵力約20万)となり、日本軍の死傷者は4万を超えた。この予期せぬ膨大な犠牲が、杭州湾日軍10万上陸の報で総退却に転じた中国軍を、南京まで追撃することになった。 14.参謀本部の制令線設置:参謀本部は二つの制令線設置によって軍の追撃を制止しようとした。しかし、軍の勢いは止まらなかった。また、上海派遣軍司令官松井石根は、1937年12月10日、南京城の中国軍に投降勧告を行ったが、中国側は応ぜず、日本軍は南京城を総攻撃することになった。ところが、南京城(12.13)陥落直前の12月12日夕刻、南京防衛司令官唐生智が南京城を脱出したため、逃げ遅れた中国軍将兵がパニックに陥り、ここに「南京事件」と呼ばれる事件が発生することになった。 Q6なぜ、日中戦争は泥沼化したか?中国国民は汪兆銘でなく蒋介石を支持した 15.蒋介石を相手にせず:日本軍が上海から南京に向かう途中で行われた和平工作がトラウトマン和平工作で、この条件は視点12の「船津工作」の条件に準ずるものだった。しかし、蒋介石の日本軍不信は強く、回答が遅れる間南京陥落となり、和平条件が加重されることになった。そのため中国側の回答は、翌年1月15日の期限に間に合わなかった。参謀本部は持久戦争を恐れ、交渉継続を主張したが、近衛首相は“蒋介石を相手にせず”声明を出した。 これは、南京陥落直後の12月14日、華北に樹立された「中華民国臨時政府」(宋哲元)の要請を受けたものだが、このことは、日本が蒋介石政権を否認し、親日政権を樹立したことを意味した。いうまでもなく、これは、先のトラウトマン和平工作で示した、華北の既得権全面放棄による日中和平方針を放棄するものであり、ここに、つとに持久戦を覚悟する蒋介石と、武力で蒋介石打倒を目指す日本軍との、泥沼の日中戦争が開始されることになった。 ところで「中華民国臨時政府」の樹立は、華北の日本軍が勝手にやったもので、近衛首相も知らず不満だったが、上海事変は中国が始めたものであり、日本軍の犠牲はすでに6万を超えていた。国内では南京陥落で世論が沸き立っていた。そんな中で戦争開始前の条件で和平交渉をするなど、世論を気にする近衛にできるはずはなかった。 Q7なぜ、繰り返された和平工作は成功しなかったか? 16.繰り返された和平工作 (1)トラウトマン和平工作(s12.11.2~s13.1)駐華ドイツ大使トラウトマンを介した和平工作。船津工作の条件を踏襲(白崇禧「これだけの条件ならいったい何のための戦争か」12.2)するも、蒋介石の日本軍不信さらには南京陥落後の講和条件加重のため失敗 (2)宇垣和平工作(s13.5~9)国民政府行政委員長孔祥煕との間で進められたが、近衛に不信を抱いた宇垣の突然の辞任で挫折*近衛の優柔不断 (3)汪兆銘工作(s13.12.18~)「日華協議記録」(影佐禎昭─高宗武らによる日華国交調整(2年以内完全撤兵、満州国承認など)をもとに親日派の汪兆銘を国民政府から離脱させ汪政権の樹立をめざした。しかし、日本政府は「撤兵事項を曖昧にし、駐兵を拡大」したことで汪兆銘に背信。s15.3.30汪政権を樹立、s15.11.30日本政府は南京国民政府(汪兆銘)を承認するも、この間蒋介石との和平交渉も行う(以下)。 (4)桐工作(s14.12~15.9)蒋介石相手の和平工作、満州国承認も駐兵も条件とせず、日支相互援助条約の締結程度で停戦、中国側は土壇場でこれを回避。*蒋介石の汪兆銘工作妨害が目的か? (5)松岡・銭永銘工作(s15.9~11)和平条件は船津工作案より寛大、華北特殊状態解消、重慶政府と南京政府一本化、満州国黙認、日本軍全面撤兵、防共駐兵は必要が生じた時、防守同盟を結ぶことを原則とする案。ただし、重慶側は南京傀儡政権不承認を要求。これに汪派が巻き返しで交渉は頓挫 Q8世界歴史始まって以来、前例のない戦争とは?日中関係を兄弟関係のように見る誤り 17.「抗日をやめて親日たれ」(岸田国士『従軍五十日』s14) 「ところが今度の事変で、日本が支那に何を要求しているかというと、ただ「抗日を止めて親日たれ」といふことである。こんな戦争といふものは世界歴史はじまって以来、まったく前例がないのである。云ひかへれば、支那は、本来望むところのことを、武力的に強ひられ、日本も亦、本来、武力をもって強ふべからざることを、他に手段がないために、止むなくこれによったといふ結果になっている。 支那側に云はせると、日本のいう親善とは、自分の方にばかり都合のいいことを指し、支那にとっては、不利乃至屈辱を意味するのだから、さういふ親善ならごめん蒙りたいし、それよりも、かかる美名のもとに行われる日本の侵略を民族の血をもって防ぎ止めようといふわけなのである。実際、これくらいの喰ひ違ひがなければ戦争などは起らぬ。 欧米依存と云ひ、容共政策と云ひ、支那の対日態度をそこへ追ひ込んだ主要な原因について・・・日本自ら、一度、その立場を変えて真摯な研究を試みるべきではなからうか。」 Q9なぜ、自発的撤兵論が南進論に急転回したか(日本人のなし崩し時局迎合と空気支配) 18.バスに乗り遅れるな(『大本営機密日誌』p32~33) 昭和15年3月30日参謀本部の提案に基づき、陸軍中央部で支那事変処理に関し次のことが決定された。 「昭和15年度中に支那事変が解決せられなかったならば、16年初頭から、既取決に基づいて、逐次支那から撤兵を開始、18年頃までには、上海の三角地帯と北支蒙彊の一角に兵力を縮める」 「省部の最高首脳会議で、この重要決定がなされると、さっそく、陸軍省から岩畔豪雄(ひでお)軍事課長が・・・今後の兵力量の打ち合わせにやってきて、省部事務当局の会議が重ねられた。陸軍省側では、今すぐからでも、撤兵を開始するような権幕であった。」 ところが、欧州ではドイツが突如「独ソ不可侵条約」を締結し、華々しい実力行使を始めた。昭和15年5月10日フランス侵入開始、6月17日フランス降伏、英本土上陸間近しとの声は巷にあふれた。「バスに乗り遅れるな」日本ではそんな言葉がはやり出した。欧州情勢の急変転は、とうとう陸軍部内の考え方にも、180度の大転換をまき起こし、必然的に南進論が激成せられるに至った。 Q10なぜ、日本はドイツと同盟したか?陸軍のドイツ好き、「持たざる国」同士の共感 19.日本に対する経済制裁:1938.9国際連盟対日経済制裁を採択、39.4天津英租界封鎖(イギリスは対支援助を停止)、39.7米「日米通商条約」廃棄を通告(6か月後発効)、39.8独ソ不可侵条約、平沼内閣「欧州情勢複雑怪奇」で退陣、39.9第二次世界大戦、40.1日米通商条約廃棄(日本は原油、精銅、機械類、飛行機生産原料、屑鉄その4割をアメリカから輸入していた) 日本とアメリカの緊張関係が高まり、中国と戦争している場合ではない・・・。こうして、軍中央部に中国派遣軍兵力削減、自主撤兵論が起こった。ところが、フランスがドイツに降伏したことによって、フランスの植民地である仏印(フランス領インドシナ)への進出が容易となった。 20.北部仏印進駐(40.9.22):フランス降伏を受けて成立したヴィシー政権との間に「松岡・アンリー協定」締結。米英による援蒋ルート遮断及び南方資源確保のための橋頭堡設置が可能となった。 21.三国同盟:三国同盟を支持する陸軍に押され、 40.7第二次近衛内閣成立、 9.27海軍首脳の米内光政、山本五十六、井上成美らの反対を抑え、「日独伊三国同盟」締結 Q11なぜ、日米交渉は挫折したか?日本は何とかして日米戦争を避けようとした! 22.日米諒解案:1940.11アメリカメリノール宣教会ウォルシュ司祭とドラウト神父来日、近衛に近い井川忠雄と「日米諒解案(井川・ドラウト案)」作成に着手、1941.4.4野村・ハル会談で「日米諒解案」を日米交渉の出発点とすることで合意。日本側“受諾で一致、外遊中の松岡を待つ。41.5松岡外相「日ソ中立条約」を締結して帰国、三国同盟+ソ連の四国連携でアメリカ牽制を狙った。「日米諒解案」に対しては不快を表明し大幅修正した(松岡三原則)。 ところが、1941.6.22突如ドイツ軍がソ連に侵攻、松岡の構想した四国連携案崩壊。41.7.18近衛首相、松岡外相更迭のため内閣総辞職、第三次近衛内閣発足 23.南部仏印進駐: 日本が南進の動きを見せる中で、7.25ルーズベルト「仏印中立化」を日本に提案、さらに在米日本資産凍結で南進を牽制するも、 7.28日本軍南部仏印進駐開始 24.石油全面禁輸:アメリカはこれに対して、8.1対日石油全面禁輸。近衛はルーズベルトにトップ会談を呼びかけるも、9.3米拒否、9.6「帝国国策遂行要領」で「日米交渉期限10月上旬、対米英蘭戦争を決意」。天皇“四方の海”)、41.10「ハル4原則」(領土・主権尊重、内政不干渉、通商平等、現状維持)で日本に中国からの撤兵を求めた。10.12五相会議(東條撤兵反対)、10.18近衛内閣総辞職、同日東條内閣成立(天皇→9.6決定の白紙還元の御諚) Q12なぜ、日本は南進を選択したか?日本は列強の思惑が読めず、希望的観測で南進を選択した 日本の思惑:「持たざる国」日本の悩みは資源を外国に依存していること。だから、アメリカに経済制裁で締め上げられる。日本が南進で独自資源を確保できれば、その“くびき”から解放される。そもそも日本の南部仏印進駐は条約に基づくもの。確かにイギリス植民地は脅威を受けるが、アメリカの植民地はフィリピンのみ。従って、日本の南進による英米分離は可能と考えた。 ソ連の思惑:「独ソ開戦」後、ソ連は東西兵力の分散を避けるため日本の目を南方に向けさせたかった。日本が南進すれば必ずアメリカと戦争になる。日本は短期的には勝利するが長期的には敗れる。この間、日本による東南アジア植民地解放は歓迎すべき。日本敗戦後、東南アジアを含めた共産化が可能となる・・・。 尾崎秀実の工作:尾崎は近衛のブレーンとして、上記のようなスターリンの指示を受け、“日本の北進は独ソ戦の状況を見て判断すればよい。それより、日本はアジアの植民地を解放し、大東亜共栄圏を創るべき”と論陣を張った。近衛は南進を決意(7.28) ! アメリカの思惑:アメリカの狙いはイギリスを助けて対ドイツ戦に参戦すること。「独ソ開戦」は四国連携崩壊となり、アメリカへの脅威が減るから歓迎、日本に妥協する必要もなくなった。日本の北進はソ連兵力の分断となるから望まない。一方、日本の南進は、イギリスの資源供給ルートを遮断するだけでなく、日本が独自資源を確保し自立することを意味するから、絶対阻止する。 Q13なぜ、アメリカは日本を挑発したか?アメリカは、日本との戦争は不可避と考えていた 25.甲案・乙案:41.11.5「帝国国策遂行要領」(12.1まで外交、まとまらなければ戦争決意)、第7回御前会議で、甲案、乙案作成、11.7甲案、11.20乙案米に提示 26.暫定協定案:アメリカ、3カ月の交渉引き延ばしのため乙案に応する「暫定協定案」を準備するも、蒋介石及びチャーチルの猛反対を受け破棄、一転11.26ハルノートを野村、来栖両大使に提示。11.26日本海軍機動部隊単冠湾出港(山本五十六司令長官、南雲中将に「もし、日米交渉(12.1まで)が上手くいったら、すぐ引き返せ」と命令。南雲の士気を損なうとの言に、「百年兵を養うは何のためか(平和のためではないか)!引き返せないというなら即刻辞表を書け!」と迫ったという。 27ハルノート:12.27本政府受領(「中国とインドシナからの日本軍の全面撤兵、重慶以外の政府否認、三国同盟空文化」を求めた)。これは、アメリカの対ドイツ戦参戦の口実「米国の損害を少なくして、日本人に初撃を発射させる」ことが目的?(米政府は米国民にハルノートを秘密にした)。東郷重徳外相“目もくらむばかりの失望に打たれた”*吉田茂「ハルノートは言い値だ、これをたたき台にすればむしろ交渉を継続できる」12.1開戦決定、12.3“ニイタカヤマノボレ”、12.6ルーズベルトから天皇への親電(アリバイ?)、12.8対米覚書(宣戦布告)手交(米時間7日2時20分、真珠湾攻撃開始の1時間後) Q14なぜ、山本五十六は真珠湾を攻撃したか?外交的には拙劣だが軍事的には勝算あり 28日米戦争絶対反対:三国同盟締結の報を受け、友人の原田熊雄に「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門」の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と予言、近衛首相の問い(日米戦争)に対し「是非やれと言われれば初め半年や1年の間は随分暴れてご覧に入れる。然しながら、2年3年となれば全く確信は持てぬ。三国条約が出来たのは致し方ないが、かくなりし上は日米戦争を回避する様極力御努力願ひたい」 29.連合艦隊司令長官:山本は陸軍次官の職にあったが、三国同盟反対で命を狙われ“海に逃がす”配慮でGF長官に任命された。そのため連合艦隊司令長官として勝つ方法を模索することになった。 30.早期講和に賭ける:海軍の伝統的漸減邀撃作戦では長期戦となり勝ち目はない。取りうる唯一の方法は、開戦劈頭真珠湾の太平洋艦隊を撃滅、その後1年位、太平洋の制海制空権を握り、この間、攻勢に出る米軍を叩き犠牲を強いる。アメリカの主敵はドイツであり、アメリカ国民の厭戦意識も高まるだろうから、その機をとらえて早期講和に持ち込む。 だが、真珠湾攻撃で二つの誤算が生じた。開戦通告遅れでスネーキーアタックとなり、2隻の空母を撃ち漏らした。その挽回を図ったミッドウエーの海戦で、逆に4隻の味方空母を喪失、山本の戦略構想は瓦解。ガダルカナル戦以降玉砕・特攻を繰り返すことになった。
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