「偽メシア」石原莞爾の戦争責任(1)

2008年10月 4日 (土)

 ここまで、幣原外務大臣の「協調主義外交」がどのように行き詰まっていったかを見てきました。特に「張作霖爆殺事件」を適切に処置し得なかったことが、その後の軍の行動に下剋上的風潮を蔓延さすなど決定的な悪影響を及ぼし、ついに満州事変を引き起こすに至ったことを指摘しました。また、この間、国民世論は大正デモクラシー時代は軍縮や国際協調外交を支持していましたが、済南事件や張作霖爆殺事件を契機に反日運動や国権回復運動が高まると、関東軍の主張する「満蒙領有論」を熱烈に支持するようになったことも指摘しました。

 こうした国民世論の急激な変化の背景には、軍による世論操作があり、さらにその背景には、軍縮による軍人の失業や威信低下をもたらした大正デモクラシー下の政党政治に対するルサンチマンがあったことも指摘しました。しかし、もちろんそれだけではありません。客観的要因としては、1920年の第一次世界大戦後の「反動恐慌」、次いで東京大震災後の「震災恐慌」(1923)、そして震災手形の処理問題に端を発した「金融恐慌」(1927)があります。さらに浜口雄幸内閣の金解禁(1930)によるデフレーション政策と世界恐慌が重なって、日本経済が深刻な不況に見舞われ、銀行や企業の倒産、、失業が急速に増大したことも指摘しなければなりません。

 これは、どちらかといえば外的要因によるものですが、実は、先に述べた「国民世論の急激な変化」の背景に、もう一つ、国民の隠然たる反米主義や中国人に対する近親憎悪的な反感が含まれていたことに注意する必要があります。渡部昇一氏は、こうした日本人の排外主義的な心情を生んだ背景には、次のようなアメリカ人や中国人の反日政策があったと指摘しています。そして、これらが、幣原外相がそれまで進めてきた国際協調外交の基盤を掘り崩し、日本国民の幣原外交に対する信頼を失わせるに至った根本原因であるとも指摘しています。(『日本史から見た日本人 昭和編』p131)

第一は、アメリカの人種差別政策
第二は、ホーリー・ストーム法(米国で一九三〇年に成立した超保護主義的関税法)による大不況と、それに続く経済ブロック化の傾向
第三は、支那大陸の排日・侮日問題

 第一の問題は、日露戦争の翌年(1906)に発生したサンフランシスコ大地震後に、日本人や朝鮮人児童(中国人も含む)を公立学校からの閉め出したことにはじまります。ついで大正2年(1913)には、カリフォルニア州は土地法により日本人移民の土地所有を禁止、さらに1920年には、借地も禁止するという州法を成立させ、また他の州でも同様の州法が制定されました。さらに、1922年には、米国の最高裁判所は日本人の帰化権を剥奪する判決を下し、それまでに帰化していた日本人の市民権まで剥奪しました。そして、1924年には、日本人の移民を完全に禁止する「排日移民法」を成立させました。

 こうしたアメリカの措置が、元来は親米・知米的であった日本の学者、思想家、実業家をも憤激させ、そして日露戦争以来親米的であった国内世論を一挙に反米に向かわせることになりました。渋沢栄一は、排日移民法が成立した年に行った講演で、「(私は渡米後、)アメリカ人は正義に拠り人道を重んずる国であることを知り、かってアメリカに対して攘夷論を抱いていたことについてはことに慚愧の念を深くした。そして自分の祖国を別としては第一に親しむべき国と思っておりました。」と前置きした上で、次のように慨嘆しています。

 「さらにこのごろになると、絶対的な排日移民法が連邦議会で通ったのであります。長い間、アメリカとの親善のために骨を折ってきた甲斐もなく、あまりに馬鹿らしく思われ、社会が嫌になるくらいになって、神も仏もないのかという愚痴も出したくなる。私は下院はともかく、良識ある上院はこんなひどい法案を通さないだろうと信じていましたが、その上院までも大多数で通過したということを聞いた時は、七十年前にアメリカ排斥をした当時の考えを、思い続けて居たほうが良かったというような考えを起こさざるをえないのであります。・・・」(『前掲書』p166)

 第二の問題は、第一次世界大戦後の過剰投資が原因となって、1929年10月24日(暗黒の木曜日)のニューヨーク株式市場が大暴落し、深刻な世界恐慌に発展したことに端を発しています。アメリカはこうした状況の中で、1930年6月に国内産業保護のためと称して1000品目以上の商品に高率の関税障壁を設けるホーリー・ストーム法を成立させました。これに対してどの国もこれに対抗して保護関税を設け、このためアメリカの輸出・入は半減し大不況に陥りました。さらに、こうした保護貿易の風潮の中でイギリスはオタワ会議を開き、イギリス連邦内に特恵関税同盟によるブロック経済を導入しました。

 これらのブロック経済の導入は、資源に恵まれたアメリカやイギリス連邦などのアングロ・サクソン圏では、国内やブロック内で何とかやっていけますが、資源のない国はどうしたらいいか。特に日本の場合は、近代産業に必要な資源をほとんど持たず、「せいぜい生糸を売って外貨を稼ぎ、それで原料を買い、安い労働力を使って安い雑貨を売り、それによって近代工業を進め、近代軍備を進めてきたのである。それに日露戦争以来の借金も山のようにある(そうした日本の負債がゼロになったのは昭和63年=1988年12月31日である)。」(上掲書186)という状態でしたから、これは死活問題でした。

 こうした状況の中で、日本が近代国家として生き延びていくためには、自らの経済圏を持たなければならないと多くの日本人が考えるようになったのも当然でした。また、先に述べたように、日本ではすでに昭和2年(1927)から金融恐慌に伴う不況がはじまっており、それに拍車をかけるような形で金解禁が断行され、不況は一層深刻化していました。おりしも、昭和6年9月21日にイギリスが金本位制から離脱したため、井上財政は信憑性を失い若槻内閣は総辞職し、それに代わって犬養毅内閣の高橋是清が蔵相となりました。その高橋が金解禁を廃止するやいなや円安状況が生じ、輸出ブームとなり景気が回復していきました。そして丁度この時期が、満州事変(昭和31年6月18日)と重なっていたことも、関東軍の暴走が国民に支持された一因だと渡部昇一氏はいっています。(上掲書p195)

 第三の問題は、中国人の日本に対する意識が、日清・日露戦争後の「恐日」あるいは「敬日」から、日本の「対華二十一箇条要求」(1915)を境に、「排日」そして「反日」・「侮日」さらにはボイコット運動へと変わっていったということです。この「二十一箇条要求」については以前説明しましたが、外交の拙劣としか言い様のないもので、最終的にはワシントン会議(1921~22)において当時駐米大使であった幣原喜重郎の努力でなんとか誤解を取り除くことができました。しかし、中国では、「二十一もの不当要求を日本が大戦のどさくさに中国に押しつけた」とされ、この条約の締結日である1915年5月9日は、中国の「国恥記念日」とされました。

 渡部昇一氏は、この他に、清朝が滅んだ後、袁世凱が共和国大統領となって「米国と組んで日本を抑える」方針をたてたこと。また、米国のウイルソン大統領が唱えた「十四箇条」が、その後の中国の反植民地主義を支えるバイブルになったこと。また、1919年のパリ講和会議あたりから、中国でしきりに日英同盟更新反対運動が起こったこと。さらにアメリカも、日露戦争後の日本に対する警戒感の高まりや、中国における日本との利害関係の対立から、イギリスに対して日英同盟の廃棄を迫り、その結果、日英同盟は廃棄され「四カ国条約」に代えられたこと。これらが、日本を孤立させ中国人の「侮日」を招くことになったと指摘しています。

 この間、支那では、清朝が滅んでのち中国各地の軍閥間の争いが続き、1922年には張作霖が東三省=満州の独立を宣言しました。「この間にも孫文の北伐や、奉天軍と直隷軍の戦い、いわゆる奉直戦争が二度も行われ、大正13年(1924)には、安徽省出身でありながら直隷派と手を組んだ馮玉祥が北京を占領した・・・。その翌年には広東の国民政府が樹立され、昭和2年(1927)には王兆銘の武漢国民政府出来、同じ年には蒋介石の南京国民政府ができる」といった具合で、めぼしい政府だけでも四つ五つあるといった状態でした。そんな中で、国家統一をめざす国民の中に、排外思想や攘夷思想、特に「排日思想」が強くなるのは自然の成り行きでした。

 そして、以上述べたような状況下にあって、いかにして日本の安全を確保し、民族としの生存をはかっていくか、そして、そのための生命線と考えられ急にクローズアップされたのが、「満州問題」でした。しかし、中国の「排日思想」の高まりの中で、幣原喜重郎の「対支宥和外交」は、蒋介石による北伐にともなって発生した第二次南京事件を経て「軟弱外交」「屈辱外交」との批判を浴びるようになりました。さらに、済南事件や張作霖爆殺事件の処理の失敗によって、対支関係は決定的に悪化しました。そこで、この「満州問題」解決のために残された唯一の手段が、武力による「満州領有」だったのです。

 こうした「満州領有」という考え方は、日露戦争以来、陸軍に根強くあったことは前回指摘しました。しかし、こうした手段に訴えることは、ワシントン会議の「九カ国条約」における中国の領土保全・主権尊重と門戸開放・機会均等主義や、さらには1928年の不戦条約(国際紛争を解決するため、あるいは国家の政策の手段として、戦争に訴えることをは禁止され認められなくなった。ただし国際連盟の制裁として行われる戦争及び自衛戦争は対象から除外)が成立して以降は、決して許されることではありませんでした。この時、その難問を解くべく登場したのが、昭和3年10月関東軍参謀として赴任した石原莞爾だったのです。

 しかし、結果をいえば、石原莞爾も、その満州占領直後から、自らの理論では到底国際社会を説得しきれないこと、また、中国人の納得も得られないことを悟らざるを得ませんでした。そのため、当初の「満州領有」計画は諦め、満州人の自治運動の結果としての「満州独立」という体裁を取らざるを得なくなりました。さらに、その「最終戦争論」に基づく米国との戦争に備えるためには「日・満・支」の連携が不可欠で、そのためには、満州を五族共和の「王道国家」としなければならないと考え、日本の指導性を排除することや、ついには、満州国の官吏たる日本人の日本国籍離脱を主張するようになったのです。

 こうした石原の「ユートピア」的ロマンチシズムは、当初は、「満州占領」の大義名分を求めていた軍人たちに強くアピールしましたが、やがて、そのリアリズムの欠如から遠ざけられるようになり、満州事変(1931.9.18)のわずか1年後の1932年8月には満州を追われました。石原退去後の満州は、関東軍による満州国政府に対する「内面指導」という名目での日本人官僚支配が強化され、それまでの「独立援助」は「属国化」に、「民族協和」は「権益主義」(=帝国主義)に姿を変えていきました。「内地に帰還した石原は永田鉄山参謀本部第二部長と面談した際『満州は逐次領土となす方針なり』と聞かされ愕然」としたといいます。(『キメラ満州国の肖像』p205)

 その後石原莞爾は、1935年に参謀本部第一作戦課長として復帰し、2.26事件において戒厳司令部参謀を任じられ事件処理に当たっています。また、1927年には作戦部長となって、関東軍の華北分離工作や廬溝橋事変後の戦線の拡大に、「最終戦争論」に基づく総力戦準備、生産力拡充計画を専行させる観点から執拗に反対しましたが、関東軍参謀長である東条英機や部下の参謀本部作戦課長の武藤章の「一撃論」を抑えることはできませんでした。そして、1937年9月関東軍参謀副長に左遷され(参謀長は東条英機)、38年8月には辞表を提出、41年には退役しました。

 このように見てくると、石原莞爾がなした歴史的仕事は、柳条湖事件という鉄道爆破謀略事件の後約1年間の「満州事変」の計画・実行それのみということになります。しかも、その結果生み出された「満州国」は、彼の「最終戦総論」にいう「王道国家」の理想とは似ても似つかぬもので、ただ、日本の戦争遂行に寄与・貢献するための官僚統制国家=日本軍による傀儡国家へと必然的に収斂していきました。さて、こうした歴史の推移を、石原莞爾の不明として責めるべきか、それとも彼の理想主義の挫折として惜しむべきか、私はその「偽メシア」としての厄災をこそ、しっかり認識する必要があると思います。