日本近現代史における「躓き」―「21箇条要求」

2008年7月4日

 日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。

 この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。
1914年7月28日に、欧州において三国同盟国と三国協商国間の戦いとなる第一次世界大戦が勃発しました。この時、苦境に立った協商側のイギリスが日英同盟により日本に参戦を求めてきたことから、日本は6月23日ドイツに対して宣戦布告し、中国におけるドイツの租借地である膠州湾や青島等を占領しました。その後、日本は、これらのドイツ利権の引き渡しとともに、当時の中国の袁世凱政権に対して次のような五号よりなる「21箇条要求」をしました。(1915年1月18日)

 第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。
第二号は、旅順・大連租借期限と南満洲・安奉(安東・奉天間)両鉄道の期限の九十九ヵ年延長、南満洲・東部内蒙古での日本人の土地所有権や居住往来営業権、また鉄道建設や顧問招聘に於ける日本の優先権を要求する七ヵ条。
第三号は、漢冶萍公司を適当な機会に日支合弁とすることなどを求める二ヵ条。
第四号は、支那沿岸の港湾や島嶼を他国に割譲せぬことを求める二ヵ条。
第五号は、支那の主権を侵害するとされた七ヵ条の希望(要求ではない)事項で、
第一条 日本人を政治・軍事顧問として傭聘すること。
第二条 日本の病院・寺院・学校に土地所有権を認めること。
第三条 必要の地方で警察を日支合同とす ること。
第四条 日本に一定数量の兵器の供給を求めるか支那に日支合弁の兵器廠を設立すること。
第五条 南支での鉄道敷設権を日本に与へること。
第六条 福建首の鉄道鉱山港湾に関する優先権を日本に与えること。
第七条 支那での日本人の布教権を認めること。

 問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。

 問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。(『百年の遺産』)

 結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。が、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。(『幣原喜重郎とその時代』)

原敬は当時の議会における大隈内閣弾劾演説で次のように批判しています。
「欧州の大乱で各国は東洋に手を出すことができない。この時に日本が野心を逞しくして何かするのではないかということはどの国でも考えることである。今回の拙劣な威嚇的なやり方はこうした猜疑の念を深くさせるものである。また中国内の官民の反感も買っている。もともと満蒙における日本の優越権は、中国も列強も認めている。山東も日独が戦争した以上当然の結果である。こんなことは、今回のような騒ぎを起こして世界を聳動させずとも、目支親善の道を尽せば談笑の間にもできたことである。世間はこの外交の失態をはなはだ遺憾に感じている。要するに今回の事件は親善なるべき支那の反感を買い、また親密なるべき列国の誤解を招いた。」 

この原敬の批判にあるように、この「21箇条要求」を基点として、中国の反日運動が激化することになります。また、この「21箇条要求」は当時中国や列強にどのように受けとられていたかという事について、かってイザヤ・ベンダサンは次のように指摘していました。(『日本人と中国人』p287~288)

 「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。〔()内筆者記入9/17訂正〕

 日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」

 実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘していたとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。

 つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権(国権)回復運動として高揚していくのです。

結局、これが「反日・侮日」運動へと発展していくのですが、こうした外交当局の失態をカバーし、反日運動の高まりをなんとか修復しようとする外交努力もなされています。実際、それが成功し、その後の日中関係が改善された時期もありました。その立役者が幣原喜重郎で、氏の回顧録「外交五十年」には次のようなワシントン会議(1921年11月~22年2月)における山東問題についての交渉経過が記録されています。

 「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。)

 この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。

 「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」。すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。

 「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」

 「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回したものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」

 そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。

 この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。(『歴史の嘘を見破る』p70)

 しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。