日本近現代史における「躓き」―「21箇条要求」
日露戦争後の「日韓併合」に次ぐ「躓き」は、中国の袁世凱政権に対する「21箇条要求」です。その内容が中国人にとってあまりに露骨な帝国主義的要求であったため、この条約妥結日(5月9日受諾)は中国の「国恥記念日」となり、その後の反日運動の基点とされるに至りました。 この「21箇条要求」とは次のような経緯で出されたものです。 第一号は、山東省に於ける旧ドイツ権益の処分について事前承諾を求める四ヵ条。 問題は、特にこの第五号にありました。日本は、これは要求ではなく希望条項としていましたが、同盟国である英国にはこの部分を除いて事前に通報していました。しかしこれが漏れ、また、それがあたかも中国の保護国化をめざすような内容になっていたため、中国全土は激昂して反日運動が広がりました。 問題は、なぜこのような、中国を半植民地化するような天下の非難を浴びるに決まっている要求を付け加えたのかということですが、結局、「陸軍の単純強引な強行突破、これを受け入れた大隈重信首相の無原則な大風呂敷、これに迎合した外務省(元老を排した中堅外務官僚が作成)」の責任というほかありません。(『百年の遺産』) 結果としては、英国、アメリカからの強い反対もあり、この第五号を除いて、5月7日に最後通牒を発し5月9日に中国側に受諾させました。が、この最後通牒というのも、あたかも呑まなければ戦争を仕掛けるぞと脅しているようなもので、内外からごうごうたる非難を浴びました。一説では、これは袁世凱から頼まれたものだともいいますが、そのことによる非難は日本が一身に浴びるわけで、これも「21箇条要求」に輪をかけた拙劣というほかありません。(『幣原喜重郎とその時代』) 「日本はまず日露戦争でロシアの利権(遼東半島租借権、長春―旅順間東清鉄道の譲渡等)を継承したが、この際中国は全く無視され、継承の事後承諾を承認させられるにとどまった。そして第一次大戦でドイツの利権(膠州湾租借権と山東省内の鉄道敷設権)を継承したが、このときは、中国政府無視は不可能であった。というのは、ロシアの関東州租借権の期限はその設定から二十五年である。日本はこれの延長に、継承したドイツの利権を利用しようとした。すなわち将来一定の条件下に膠州湾を中国に返還することを条件に、関東州の租借期限をロシアによる設定後九十九年まで延長することが交渉の主眼であったと思われる。〔()内筆者記入9/17訂正〕 日本は自己の提案の重要性を何ら意識していなかったように見える。それはこの提案は、日本が継承者としてでなく、新たな当事国として、中国に、差引き七十四年の利権の設定を新規に要求しているに等しいからである。しかも中国は第一次大戦においては、日本の同盟国(1917年8月14日にドイツに宣戦布告)であり、ドイツの利権は日本が干渉しなければ、そのまま中国に帰ったであろう。」 実は、「21箇条要求」の背後には、ベンダサンが指摘していたとおり、「日露戦争でロシアの租借権を引き継いだ遼東半島の租借期限が1923年に切れてしまう」のをなんとかして延長したいという思惑があったのです。日本はすでにイギリスが香港を根拠地としているように、日本の大陸政策の根拠地として遼東半島を整備しつつありました。そのためにこの租借期限を延長する必要があり、そのチャンスをうかがっていたのです。 つまり、この「21箇条要求」の背後には、当時の日本の「満州進出積極論」があったのです。もちろんこの時点では、このように中国に対する帝国主義的進出をしたのは日本だけではなく、英仏米独露も同じような立場にありましたが、満州については日露の特殊範囲という地固めが進んでいました。そして、このような現実に対して、中国人のナショナリズムの高まりがあり、失われた利権(国権)回復運動として高揚していくのです。 「中国全権王寵恵氏は声明書を出して、日本攻撃の火蓋を切った。そして21箇条なるものは、その一服だけでも支那を毒殺することができる。それを日本は二一服も盛ったのである。その中国に与えたる苦痛の深刻なることは言語に絶するものがあるといって、アメリカの対日反感をあおった。・・・中国側委員は(中国官民の空気を反映して)山東問題を妥結する意志は初めからなく、いうだけのことをいって、結局は山東会議を決裂してしまおうという肚であったように察せられた。」(この山東問題とは、大正4年に日本政府が、日華両国間にわだかまる懸案を一掃するために中国との間で結んだ「山東に関する条約」並びに「南満州及び東部内蒙古に関する条約」を巡るものです。) この時幣原喜重郎は腎臓結石で苦しんでいましたが、交渉が決裂寸前となったので、病気をおして交渉に出席し次のように述べました。 「日本は山東省の鉄道その他を、奪い取るようなことをいわれるが、それは違う。買収の額なるものは、パリ講和会議でちゃんと決まっている。日本は相当の額を払うのだから、盗人でも何でもない」。すると、「日本は代償を払うのですか」と質問するから、「パリの講和会議の記録を、よく調べてご覧なさい」「それならば、われわれも誤解していた」。こんな具合で・・・翌日になると、中国側の態度がガラリと変り、会議もぐんぐん進んだ。 「山東問題とは別に、対支21箇条条約問題が、極東委員会のテーブルに残されていた。これを取り上げると、また中国の委員との喧嘩の花が咲くかもしれないというので、長いこと伏せてあった。私は病気がいくらか良くなったので、一つこの厄介物と取り組んでみる決心を決め、委員会に出席してこう発言した。」 「どの国でも他日条約を破るつもりで、自己の意思に反するその条約を締結したことを主張するのは許されない。もし自己の本意でなかったとの理由で、すでに調印も批准も終了した条約を無効とすることが認められるならば、世界の平和、安定はいかにして保障し得られるか。私は中国全権がかかる主張を敢てすることを残念に思う。いわゆる二十一箇条条約なるものも、最初提出した日本の要求事項は二十一箇条であっても、交渉中に日本が撤回したものがたくさんある。これが全部調印せられたのではない。また調印批准された条項中でも、満州に日本の顧間を入れるなどということは、日本はいま実行を求めてもおらず、またその意思もない。しかしそれは日本が任意に実行を求めないのである。条約の神聖ということを、中国は認めらるべきである。日本はその決意によって、自らの権利を放棄することは自由であるが、中国はあくまでも条約の神聖を守るべきである」と述べ、私はさらに進んで、今日日本が条約上の権利を実行するの意思なき条項を列挙した。」 そして、このワシントン会議において、わが国は中国の山東省を返還し、満蒙における鉄道と顧問招聘に関する優先権を放棄し、「他日の交渉に譲る」としていた第五号希望条項を全面的に撤回しました。 この後、大正14年に幣原外相は、中国の関税自主権回復を提議する国際会議を提唱し、列国をリードしてその合意案を作成しました。残念ながら、中国の内政不安定で中国代表団が自然消滅したため成立しませんでしたが、「これで中国の対日感情は一変し、中国一般民だけでなく、英国代表はその後対中折衝は中国から一番信頼されている日本に任せるという態度になった」といいます。(『歴史の嘘を見破る』p70) しかし、これで、軍の「満州進出積極論」が収まったわけではありません。もちろん、幣原喜重郎は、先に紹介したように国際条約に基づき、両国の信頼関係の確保に努めつつ合理的にこの問題を処理しようと努力したのですが、いわゆる「満州問題」をめぐる日中双方の政治状況は、そうした冷静な交渉による問題解決を不可能にしていきました。 |