日本近現代史における躓き―満州問題(3)幣原外交から自主外交への転換

2008年7月25日 (金)

 前回、満州問題の処理をめぐる国民の意識の変化、つまり国際協調主義を基本とした幣原外交による問題解決方法から、石原完爾ら陸軍首脳による満州占領という問題解決方法に、なぜ急激にシフトしていったか。これが、日本近現代史の悲劇を考える上で最も重要なポイントだと申しました。この原因を、軍(この場合は陸軍ですが)の「帝国主義」に求めるだけで済むならことは簡単です。もし、そうなら、そうした軍の独走を許すことになったその原因を突き止めさえすればよいからです。

 こうして、その原因とされてきたものが、軍の「統帥権」や「軍部大臣現役武官制」の問題です。また、明治憲法には内閣や首相の規定がなく、組閣の大命降下を受けた人が総理大臣となるが、国務大臣の任命権は持たなかったという明治憲法の欠陥も指摘されます。(『日本史から見た日本人 昭和編』渡部昇一)確かに、その後の軍部の専横には目に余るものがありますから、こうした指摘は当然ですが、より重要なことは、当時の大多数の国民が、こうした軍部の考え方や行動を支持したということです。この事実を閑却すべきではありません。

 では、一体なぜ当時の日本人は、そんなに満州にこだわったのでしょうか。もし、この問題を、幣原が主張したように経済合理的に処理できていたら、日中戦争も対米英戦争もしなくて済んだはずです。それがどうして武力による満州占領、そして満州国の独立へと進んでいったのでしょうか。再びいいますが、こうした考え方が、当時の軍人だけの妄想で終わっていればことは簡単です。だが事実はそうではなかった。当時の日本人のほとんどがこれを熱烈に支持したのです。

 次の文章は、1933年2月14日に発表された、国際連盟による満州事変に関する調査報告書、いわゆる「リットン報告書」からの引用ですが、以上提示した疑問についての、客観的かつ周到な考察がなされていますので紹介します。実は、日本は、この「報告書」に反発して、その後国連を脱退することになるのですが、これは決して日本批判に終始したものではない、ということにご注目下さい。

(第三章一節)
満洲における日本の利益、日露戦争より生じた感情
満洲における日本の権益は、諸外国のそれとは性質も程度もまったく違う。一九〇四から五年にかけて、奉天や遼陽といった満鉄沿線の地、あるいは鴨緑江や遼東半島など、満洲の礦野で戦われたロシアとの大戦争の記憶は、すべての日本人の脳裡に深く刻み込まれている。日本人にとって対露戦争とは、ロシアの侵略の脅威に対する自衛戦争、生死を賭けた戦いとして永久に記憶され、この一戦で十万人の将兵を失い、二十億円の国費を費したという事実は、口本人にこの犠牲をけっして無駄にしてはならないという決心をさせた。
しかも満洲における日本の権益の源泉は、日露戦争の十年前に発している。一八九四年から五年にかけて、主として朝鮮問題に端を発した日清戦争は大部分、旅順や満洲の礦野で戦われ、下関で調印された講和条約によって遼島半島は完全に日本に割譲されたのである。それに対してロシア、フランス、ドイツが遼東半島の放棄を強制してきた〔三国干渉〕が、日本人にすれば、戦勝の結果、日本が満洲のこの部分〔遼東半島〕を獲得し、これによって日本が同地方に得た特殊権益はいまなお存続しているという確信に変りはない。

満洲における日本の戦略上の利益
満洲はしばしば「日本の生命線」といわれる。満洲は、現在日本の領上である朝鮮に境を接している。シナ四億の民衆がひとたび統一され強力になって、目本に敵意をもって満洲や東アジア一帯に勢力を仲ばす日を想像することは、多くの日本人の平安を乱すことになる。だが、日本人が国家存続の脅威や自衛の必要を語るとき、彼らがイメージしているのはロシアであって、シナではない。
したがって満洲における日本の利益のなかで根本的なのは同地方の戦略的重要性だ。日本人のなかには「ソ連からの攻撃に備えるために満洲に堅い防御線を築く必要がある」と考えるものがいる。彼らは、朝鮮人の不平分子が沿海州にいるロシアの共産主義者と連携して、将来、ロシア軍の侵入を誘導したり、それに協力したりすることをつねにおそれている。
彼らは満洲をソ連やシナとの緩衝地帯と認めている。とりわけ日本の陸軍軍人は、ロシアとのシナとの協定によって満鉄沿線に数千人の守備兵を駐屯させる権利を得たものの、これは日露戦争における莫大な犠牲の代償としては少なすぎるし、北方からの攻撃の可能性に対する安全保障としても貧弱にすぎると考えている。

満洲における日本の「特殊地位」
日本人の愛国心、国防の絶対的必要性、条約上の特殊な権利等、すべてが合体して満洲における「特殊地位」の要求を形成している。日本人の懐いている特殊地位の観念は、シナと他の諸国とのあいだの条約や協定中に規定されているものとはまったく違う。日露戦争の遺産としての国民感情、歴史的な連想、あるいは最近の二十五年間における満洲の日本企業の成果に対する誇りは(なかなか捕捉しにくいものであるが)「特殊地位」の要求の現実的な部分を形づくっている。したがって日本政府が外交用語として「特殊地位」という語を使用するとき、その意味は不明瞭で、ほかの諸国がその真意をつかむことは不可能ではないにしても困難である。

 以上が、満州において日本が有する「特殊地位」についての説明です。(アンダーライン部分要注意)そしてこれがシナの主権と抵触すると次のように述べています。

満洲における日本の特殊地位の要求はシナの主権および政策に抵触する
(しかし)こうした満洲に関する日本の要求はシナの主権に抵触し、国民政府の願望とも両立しない。というのも国民政府はシナ領土を通じていまなお諸外国がもっている特権を減らし、将来、これらの特権が拡張されることを阻止しようとしているからだ。日支両国がそれぞれ満洲において行おうとしている政策を考察すれば、衝突がますます拡大されることは明らかである。

 そして、ここから生じる日支間の利害の対立をどう調整し、日本の国益を守っていくかとということを巡って、幣原喜重郎の「友好政策」と田中義一の「積極政策」が対立したわけですが、その違いは「大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度」の違いであり、その目的―「日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護する」―は共通していたと、次のように述べています。

満洲に対する日本の一般的政策
一九○五年から柳条湖事件にいたるまで、日本の諸内閣は満洲において同一の目的をもっていたように見えるけれども、その目的を達成する方法に関しては見解を異にし、治安維持に関しても日本の取るべき責任の範囲に意見の相違があった。満洲における日本人の一般的目的は、日本の既得権益を維持・発展し、日本の企業の拡張を助け、日本人の生命・財産を十分に保護することにあった。こうした目的を実現するために取られた諸政策すべてに共通する主な特徴は、満洲および東部内モンゴルをシナの他の地域とはっきりと区別する傾向で、それは満洲における日本の「特殊地位」に関する日本人の考え方から生じる当然の結果であった。
日本の諸内閣が主張してきたそれぞれ特別な政策――たとえば幣原〔喜重郎〕男爵のいわゆる「友好政策」と、故田中〔義一〕男爵のいわゆる「積極政策」とのあいだにいかに相違があったとしても、前記の特徴はつねに共通していた。「友好政策」はワシントン会議のころからはじまり、一九二七年四月ごろまで継続され、その後「積極政策」に変り、一九二九年七月にまた「友好政策」に戻り、これは一九三一年九月まで外務省の正式政策として継続されてきた。
両政策の原動力となる精神にはいちじるしい相違があった。「友好政策」は、幣原男爵の言を借りれば「好意と善隣の誼を基礎」とするが、「積極政策」は武力を基礎とするからだ。だが、満洲において取るべき具体的方策に関する違いは、大部分が満洲における治安維持と日本の権益保護のためになすべき行動の程度のいかんに拠るものであった。
田中内閣の「積極政策」は満洲をシナの他の地域から区別することを強調し、その積極的な性質は、「もしシナの動乱が満洲やモンゴルに波及し、その結果として治安が乱れ、満洲における日本の特殊地位や権益が脅威を受けるようになった場合、その脅威がどの方面からこようとも、日本は敢然と権益を擁護すべきだ」という率直な宣言によって明らかだろう。田中政策は、それ以前の諸政策が目的を満洲における日本の利益の擁護に限定していたのに反し、満洲における治安維持のつとめも日本国が担当すべきだということを明らかにした。(後略)

 さらに、日本の満州におけるこうした「特殊地位」の主張が、ワシントン会議における九カ国条約の精神―シナの領土保全と門戸開放―に抵触するのではないか、という疑問については次のように説明しています。

ワシントン会議の満洲における日本の地位および政策に対する影響
ワシントン会議はシナの他の地方の事態に大きな影響を及ぼしたが、満洲においてはほとんど変化はなかった。一九二二年二月六日の「九か国条約」にはシナの領土保全と門戸開放に関する規定があり、条文上、その効力は満洲にも及ぶはずだったが、満洲については日本の既得権益の性質や範囲に考慮して、単にその制限的適用がなされただけだった。前述したように、日本は一九一五年の条約によって借款や顧問に関する特権を正式に放棄したが、「九カ国条約」は満州における既得権益(関東州の租借地や満鉄及び安奉鉄道の日本の所属期限を99年に延長すること、南満州の内部の土地を賃借する権利及び南満州の内部において旅行、居住、営業する権利、南満州において各種商工業上の建物を建設するため,または農業を経営するため、必要とする土地を商租する権利等=筆者)にもとづく日本の要求を実質上縮小することはなかった。」

 以上が、「リットン報告書」に示された、満州における日支間の基本的対立構造ですが、これが、うち続く中国国内の内戦や、胎動する中国のナショナリズムに刺激されて、激しい反日運動・反帝国主義運動へと高まっていくのです。こうした極めて困難な状況の中で、いかに日本の実益(特に経済的)増進を計っていくかが、当時の日本外交の最重要課題でしたが、幣原は、この課題に取り組む外交の基本姿勢を、就任演説の中で次のように述べていました。

 「由来支那と政治上経済上および文化上、最も密接な関係を有する日本としては、支那の政情が一日もすみやかに安定することを希望する。近年支那の諸地方に外国人の被害事件が頻発し、支那の不満足なる政情は外国人の注意をいっそうひくことになったが、日本としては、同情と忍耐と希望をもって、支那国民の努力を観望し、その(統一の)成功を祈る。日本は機会均等主義のもとに、日安両国民の経済的接近を図る。ワシソトソ会議での諸条約は日本の政策と全然一致するものであるから、日本は同条約の精神をもってこれにのぞむ。」

 その後、支那に第二次奉直戦争が始まり、張作霖が劣勢となり満州に直隷派が侵入してくるような情勢になると、国内でも「日本は列強と異なり、支那には特殊利益を有する以上、内政不干渉に固執する必要はなく、満州の秩序を維持するためには実力行使も辞さない覚悟でなければならない」(『外交時評』)といった、中国内戦への干渉出兵を求める意見が強く出されるようになりました。関東軍がこの急先鋒に立ち、参謀本部がそれに続き、外務省がこれを牽制するというパターンでした。(『満州事変への道』p158)

 議会でも、「われわれの満蒙の権益を守ったか」とか「満蒙の秩序維持をどうするか」といった質問が出されましたが、幣原は「満蒙の権益と申されましても、具体的には満鉄沿線以外において、われわれはなんの権利利益ををもっていないのであります。・・・私は満蒙地方における治安維持は当然支那の責任であると申しておる。これは当たり前のことであると思う。支那の主権に属することならば当然支那の責任である。」また、張作霖支援についても、「満州の一部の情勢のみを見て帝国の態度を決するがごときは、はなはだ不得策にして、かつ危険なる方法なりと思考す」と答えています。(上掲書p162)

 実際、こうした幣原外相の外交方針の転換によって、日中関係が非常に好転したことも事実です。堀内干城は『中国の嵐の中で』という回顧録で次のように述べています。幣原外交の時代に「日本の侵略政策、高圧政策は180度の転換を遂げて、全中国、特に当時台頭しておったヤングチャイナの間に非常な好感をもって迎えられた。・・・上海をはじめ、各大都市の排日は暫時影をひそめて、親日の空気が台頭してくるという極めて愉快な状況であった。」おかげで、対中貿易額は1921年の二億八千七百万円から1925年には四億六千八百万円に伸張した、といいます。(上掲書p182)

 しかし、南京事変などを経て、対支強攻策を唱える国内世論の『幣原外交』に対する批判と不満はますますつのっていきました。当時最も進歩的な新聞とみられていた『朝日新聞』でさえ「幣原外交」を「自由主義かぶれ」と社説で攻撃するありさまでした。幣原のとった一つ一つの事件に対する措置を検討してみれば・・・独自の外交理念に基づき、日本の実益(特に経済的)増進を計ろうとする、むしろ「自主外交」の感が強かったのですが、世論はそう受け止めませんでした。こうして幣原外交に対する「軟弱外交」「迎合外交」の非難が激しくなるにしたがい、彼らの間には「自主外交論」を求める声がますます高まっていったのです。(上掲書p182)

 この「自主外交」を求める世論が、「満蒙問題の根本解決」を標榜する軍の「満州占領計画」を呼び込む事になるのです。そして軍内には、そのためには何をしてもよい(張作霖爆殺事件はその第一歩)という下剋上的考え方が生まれ、中央政府がそれを追認しない場合は「満州国を日本から独立させ、そこを革命の拠点として日本に政治革命を引き起こす」(3月事件や10月事件)」といったクーデターが企図されるに至りました。また、それが露見しても隠蔽し、関係者は処罰されないどころか栄達をほしいままにする、といったむちゃくちゃな事態に陥るのです。

山本七平は、こうした事態を、「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。(「山本七平学のすすめ」語録「日本軍人国は日本一般人国を占領した」)