トラウトマン工作で、参謀本部の多田次長と堀場参謀は、ほんとに蒋介石との和平を実現できたか?

2010年12月 7日 (火)

  偕行社の「南京戦史」をベースに、最新の研究成果も合わせて、「南京事件の実相」について書こうと思っていました。ところが、健介さんとの対話で、その前に、日中戦争の真の原因について再論することになりました。私は、このことについて、石原莞爾の思想(=王道思想)が内包した二つの問題点を指摘したわけですが、かなり大づかみの話でしたので、あるいは半信半疑の方もおられるのではないかと思います。

 そこで、今回はそのまとめとして、石原イズムの熱烈な信奉者であった、参謀本部戦争指導課(後に戦争指導班となる)の堀場一雄の日中和平論の点検をすることで、より具体的に、石原イズムの問題点を指摘したいと思います。

 といっても、この石原の思想については、すでに五十年程前に秦郁彦氏が綿密な分析を行っています。ところが、こうした先行研究が十分踏まえられていないせいか、いまだに、石原莞爾の思想をロマンチックに語る人が多いようです。それによって、日中戦争における日本側の「善意」を正当化できると思っているようですが、私はそれは大きな間違いだと思います。

 では、まず、秦郁彦氏の石原評を見ておきます。(『軍ファシズム運動史』「第九章 評伝・石原莞爾」より)

「失われた独裁者の座
日本ファシズムは、ついに一人の独裁者をも生み出すことがなかった。そればかりでなく、「資本主義世界の命がけの飛躍」であった大戦争の操舵を預る指導者も持だなかった。しかし「厖大な無責任の体系」に貫かれた昭和ファシズム史のなかで、しいてその候補者を求めるとすれば、いぜん北と石原はもっとも可能性をはらんだ存在であったと言っていい。

 とりわけ石原の場合、彼の人気が絶頂に達した昭和十一年から十二年にかけて、彼をそのような地位に押しあげる現実の諸条件は、順調に成熟しつつあった。しかし決定的に重要な時点で、彼および彼の幕僚たちは、微妙な戦術上のバランスを狂わせてしまった。そして機会は永久に失われてしまったのである。しかも後に石原路線の復活を要請する客観情勢が訪れた時でさえ、彼は軍部主流への復帰を一度も許されなかった。このことは、彼が参謀本部を追われた時、すでに完全な政治的破産をとげていたのを意味する。

 石原に、このような急角度の転落を強要した要因は色々あるが。ここではすでに各所で部分的にとりあげた諸点を総括しつつ、彼の性格にひそむ二つの特徴点とむすびつけて追及してみよう。

 一つは、石原の性格が極端な二面性から構成されていることである。たとえば彼の中には、イデアリストとレアリスト、非政治的人間と政治的人間、粘着性と淡白性ともいうべき正反対の側面が常に併立している。石原の人物論において、しばしば正反対の評価が見られるのは、おそらくこの点に原因があろう。

 もっとも、一見矛盾する二要素を巧妙に操作できるのは、それ自体有力な政治技術になることであるし、実際にファシストたちにとって、デマゴギーは不可欠の武器なのである。石原においても、イデアリズムとレアリスムの立場は、後者における組織論の貧弱が日立つとしても、かなり見事な使い分けがなされている。

 少なくも西欧ファシズム理論にみられる、むき出しの闘争主義、征服論はなく、民族協和思想の外皮が、冷たいパワー・ポリティックスを包んでいた。そして権力の座からすべり落ちた石原が、レアリストの感覚を忘れ、イデアリズムからミスチシズムヘの方向をたどって行った時、皮肉にも、その民族協和、東亜連盟論は、インテリや異民族の青年をもひきつけうる有力な思想戦の武器として活用され、苛烈な占領地統治の罪過をいく分なりとも中和する機能を果したのである。

 しかし、転じて生きた現実政治の場に臨む彼は、政治を志向しつつ、政治を否定するジレンマに落ちこんだまま、最後まで脱出できないという致命的な弱点を露呈する。天皇制ファシズムのもとでは、統帥権をふくむすべての政治権力は、タテマエとして天皇の一身に独占されていたから、政治に志向する人間は、大なり小なり、偽装された論理の抜け道を工夫しなければならなかった。天皇大権を侵す行為が、君側の奸臣を討つとか、天皇機関説を打倒するという名目で、堂々と横行していた事実は、多くの例が示すところであり、軍人の政治干与を禁止する軍人勅諭の趣旨が、その時々によって、都合よく解釈されてきたのも、さきに見たとおりである。

 ところで石原の生活態度は軍務にたいする精励、公生活と私生活の峻別、金銭関係についての清潔さ。酒や女を近づけないという諸点で模範的軍人とされ、軍人の政治活動についても彼自身はこれを否認する発言をくり返してきた。

 しかし石原がたどった経歴は、決して、彼がさきのようなイメージに直結する非政治的軍人ではなかったことを証明している。したがって、「軍閥とは、勅諭の精神に反し、政治に干与する軍人のことである」と明快な定義を下し、退役の挨拶状でも、口を極めて勅諭精神の遵守を強調する石原が、満州事変を強行し宇垣内閣の成立を阻止し、林内閣を作りあげ、板垣内閣を夢想するという最大級の政治干与に眼を閉じていたのは、何としても説明のつかない矛盾であったと言わねばならない。ライバルである梅津美治郎や武藤章につけこまれる弱味も、ここにあった。

 もっとも、純粋の軍人であろうと念じつづけてきた彼の主観的信念にはねかえり。知らず知らずのうちに、その後ろめたさが、彼の中に廉潔ではあるが、権力への意志に欠け、理想主義的ではあるが、説得力の足りない非俗的性積を形成し。彼の政治計画の実現にブレーキをかけたと見ることもできよう。

 そればかりでなく、石原が描いた大軍事国家の構想が、中途でもろくも破産したのは、このように彼および彼の側近者達に致命的に欠けていた政治的粘着力と政治技術によるところが大きかった。

 もともと石原のように、奔放なひろがりを持つ政治計画をすすめる場合には。いたる所で天皇制の張りめぐらしたタブーにつきあたる危険を内包している。日蓮への入信自体、この宗派が天皇の世俗的権力を積極的に認めている点にあったし、最終戦への過程も、終極的に天皇が世界の盟主として君臨する最終目標から割りだされていた。

 すべてを自己中心に解釈する天動説的思索は、また同時に天皇を世界の中心にすえねば止まぬ同心円的構造に拡大されていた。この絶対の前提は。客観情勢がどのように変っても、動かせないものであったから前記の危険を避けつつ、政策路線を撰択しようとすれば、その範囲は狭まって行く一方であり、したがってミスチシズムに逃避するほかなくなってくるのである。この点で、。石原もまた二・二六青年将校団とは別の意味で、天皇制軍事官僚として迷いこんだ袋小路から脱け出せなかったのである。

 最後にもう一つ付け加えておきたいのは、彼の思考様式における突然変換の特徴である。すでに見てきたように、中国観の変遷、満州国独立、対ソ戦略への転換、二・二六事件の処理、さらに戦後の非武装中立論への転向と、彼の思想は思い切った鋭角的な屈折を重ねている。なかには百八十度の急速変換と言うにふさわしい場合もあった。

 それは、良く言えば環境の変化にたいして敏感な機動的性格になるし、逆にオポチュニズムと誤解されやすいもので、この点は「英雄は頭をめぐらす」と揚言した松岡洋右に似かよっている。しかも天才にありがちの自信過剰で、せっかちで妥協性に乏しく、他人に納得させるだけの説明を尽くさないので、第一級のエリートたちから敬遠されるようになり、周囲には、彼を教祖と仰いで、その「神託」に盲従するいわゆる「石原信者」だけしか残らなくなった。加えてパラドックスに富んだ痛烈な皮肉とば倒は、しばしば人に不快感を与え、不要の敵を作りがちであった。

 また彼は、秀れた着想を個人的な発想の場から既成組織の事務手続にのせて、定着させる根気のいる努力を怠り、満州事変と同じように、少数の同志だけで専行しようというくせが抜けなかった。永田鉄山、梅津、武藤、あるいは東条のような、適材を、適所で活用する包容力が望まれたのである。

 しかし、晩年の石原には、かっての烈しい鋭鋒はようやく影をひそめ、長所だけが伸びて、近寄る人々の胸に深い感銘を与えていたのも事実であった。死の少し前に写され、今では石原の代表的肖像になっている斜横からの表情は、毅然とした精神的姿勢のなかに、高僧の晩年を思わせた慈愛にみちた暖かさと懐しさを秘め、見る人に忘れがたい印象を残す。石原莞爾の一生は、やはりそうした両面性の稀な結晶だったのであろう。」

 客観的な石原の評伝を書くとするなら、以上の叙述に尽きると私は思います。しかし、石原の思想は、石原個人の人生を左右しただけのものではありませんでした。それは、謀略に始まる満州事変の真実を隠蔽し、それを正当化しただけでなく、米国との最終戦争を予言することによって、日本軍に、満洲さらには華北の資源も不可欠と思わせるに至りました。そうした日本の行動が、中国の反発を生み、日中全面戦争を引き起こす主因となったのです。

 ところが、石原自身は昭和11年末になってようやく、日本軍の華北分離工作の危険性に気づき、関東軍にこの工作を断念させようとしました。しかし、彼等は、そうした石原の意見には従おうとしませんでした。なぜなら、それで石原の「最終戦争」論が抛棄されたわけではなく、中国に対して同様の観点に立った協力を求めるなら、蒋介石にはその見込みはなく、従って、別の親日政権を打ち立てるしか道はない、と考えられていたからです。

 また、中国人の民族性に対する認識の違いもありました。確かにシナ屋といわれた軍人たちは、中国人のナショナリズムについての認識を決定的に誤まりました。といっても、石原の協和思想も多分に、日本人の尊皇思想に淵源する一君万民的統治観念によるものであって、現実の中国人にとっては、それは日本を盟主とする思想の押しつけに過ぎなかった。それが抗日運動に火をつけることになったわけですが、日本政府はそれを中国政府の反日宣伝の結果と見て、その取り締まりを執拗に求めました。

 そんなわけで、石原の政策転換は、省部、統帥部における幕僚軍人の支持を受けることができず孤立してしまいました。こうした石原の思想的矛盾は、上記の面に現れただけでなく、華北への出兵容認といった形にも現れ、さらに、蒋介石の意志によって開始された第二次上海事変への対応についても、増派をしぶって戦力逐次投入の愚に陥り、また、ようやく増派した兵力も、あえて予備・後備役を充てるなどして、日本軍に多大な犠牲をもたらしました。

 げに、思想的混乱ほど恐ろしいものはないと言うことになりますが、同様の問題は、トラウトマン和平工作における、参謀本部の多田次長や戦争指導班の堀場参謀の言動にも見ることができます。よく、この和平工作において、昭和13年1月15日以後、中国との和平交渉を継続すべきか否かを巡り、参謀本部が交渉継続を主張したのに対し、政府が交渉打ち切りを主張したことについて、日中戦争の戦争責任を、軍人ではなく文民政府に求める意見が多く見られます。

 しかし、私は、この論は間違っていると思います。なぜか。堀場参謀らがほんとうに日中戦争を終結し和平に導きたかったなら、そのための唯一の方策は、国民政府の華北の行政権は犯さない。中国に満州国承認を強要せず、当面満洲経営に専念する、という二条件を、軍全体の了解事項とする必要があったからです。そうすれば、それは広田からトラウトマンに示された第一次和平提案の中身でもあり、これについては、蒋介石も12月7日、トラウトマンに、この条件を基礎として和平交渉に応ずる、と回答していたのです。

 といっても、蒋介石はこの回答に付け加える形で、12月6日にトラウトマン大使に対して、次のような「付加条件」を示していました。

 「日本は信用できない。条約を平気で違約し、言動も常に信じられない。われわれはドイツと友好関係にあるのだから、われわれはドイツと友好関係にあるのだから、ドイツの誠意は信じているし、感謝もしている。そこで大使閣下に、特に日本に報告していただきたい点が二つある。それは中日談判に当たって、ドイツは終始公平な仲裁者として徹底してもらいたい。次ぎに華北の行政権は、絶対に中国側で確保しなければならない、の二点である。さらに日本側が戦勝国の態度で臨んだり、この条件を持って最後通牒としないことである」

 こうした蒋介石の強気の言い方に対して、トラウトマン大使は「中国政府は現実を良く認識して、分に過ぎた要求はせず、ここのところは我を張り通さぬ方が良いであろう」と忠告しました。これに対し蒋介石は、「それでは同じことである。現在のように激しい戦いが行われている最中に、調停など成功するはずがないのであるから、ドイツがまず日本に対して停戦させることを望む」

 こうした蒋介石の回答は、先に見た通り12月7日に、駐日独大使ディルクセンから広田外相に伝えられたのですが、日本側は蒋介石が求めた停戦に応じることなく、12月9日には南京城に降伏勧告のビラをまき、10日の応答期限までに中国の意思表示がなかったとして、同日から南京城の総攻撃を開始し、12月13日には南京城を陥落させこれを占領しました。

 そして、南京陥落後の12月14日、中国側に示す日本側の和平条件が、大本営政府連絡会議において検討されたのですが、参謀本部の多田次長外、末次内相、賀屋蔵相、杉山陸相の意見によって次々に条件加重されることになりました(近衛首相、広田外相は無言、米内海相は加重に反対)。

 こうして条件加重された案は、外務省東亜局長の石射猪太郎によれば、まず、①華北の中央化を妨げない趣旨が特殊地域化に変わり、②塘沽協定を始め諸軍事協定の解消、冀察及び冀東政府の解消が削られ、③上海周辺の非武装地帯が華中占領地に拡大され、④損害賠償も加えられ、さらに、⑤これに基づく和平協定成立後初めて停戦協定に入るなど、中国に屈服を強いるものでした。石射は「日本は行く処まで行って、行き詰まらなければ駄目と見切りをつけ」「これで蒋介石が講和に出てきたら彼はアホだ」と慨嘆しています。

 つまり、この条件では、蒋介石が講和に出てくる可能性は、全くなかったのです。そこで堀場は、①や③の条件については、日本があらたに示す9項目(参照)の講和条件を一旦すべて受け入れ、「日支両国提携共助の我方理想に真に協力」する態度を示せば、その段階でこれらの条件は解除する、という意味の保障条項とし、②は講和成立後に解消する、とするなど、陸軍内の強硬派との折衝によって条件緩和をはかり、これを、中国側に示す第二次和平案としました。(このあたりの詳しい経過は「トラウト万和平工作をめぐる10の疑問」参照

 さらに、堀場は、昭和13年1月11日の御前会議で決定された、次の「支那事変処理根本方針」前文に見るように、日満支による東洋平和の枢軸形成(=協和思想に基づく渾然融和の国交の樹立)という理念を、前文で高らかに唱いあげることによって、日本の支那事変処理の根本精神を明らかにしました。堀場は、このように日本側の真意を蒋介石に示すことによって、支那事変を講和に持ち込むことは可能だと信じていたのです。

(御前会議議題)
帝国不動の国是は満洲国及び支那と提携して東洋平和の枢軸を形成し、之を核心として世界の平和に貢献するにあり、右の国是に基き今次の支那事変処理に関しては、日支両国間過去一切の相剋を一掃し、両国国交を大乗的基礎の上に再建し、互いに主権及び領土を尊重しつつ、渾然融和の実を拳ぐるを以て窮極の目途とし、先づ事変の再起防遏(あつ)に必要なる保障を確立すると共に左記諸項を両国間に確約す

(一)日満支三国は相互の好誼を破壊するが如き政策、教育、交易、其他凡ゆる手段を全廃すると共に右種の悪果を招来する虞ある行動を禁絶すること

(二)日満支三国は互に相共同して文化の提携防共政策の実現を期すること

(三)日満支三国は産業経済等に関し長短相補有無相通の趣旨に基き共同互恵を約定すること

 だが、中国側は15日の回答期限の前日に、ディルクセン大使を通じて「日本側提示の条件は漠然として詳らかならず、もっと具体的に明示されたし」と回答してきました。これに対して1月15日、大本営・政府連絡会議が開かれ、交渉継続か交渉打ち切りか巡って激しい議論が交わされました。総理以下政府側は、陸軍の杉山陸相を含めて交渉打ち切りを主張し、参謀本部の多田次長は交渉継続を主張しました。

 この時、広田外相が「私の永い間の外交官生活の経験からみて、中国側の態度は、和平解決の誠意のないことは明らかであると信じます。参謀次長は外務大臣を信用することができませんか?」と言った。米内海相はこれに同調し、「政府は外務大臣を信頼しております。統帥部が外務大臣を信用しないということは、政府不信任である。それでは政府は辞職せざるを得ない」と言った。

 これに対し、多田参謀次長は「明治天皇は、かって辞職なしと仰せられた。この国家重大の時期に、政府が辞職するなど何事でありますか」と応酬したとされ、最終的に多田次長が内閣総辞職の政府側の圧力に屈した形になった。しかし、なお参謀本部は諦めず、最後の賭として、天皇上奏により政府決定の再考を得ようとした。しかし、先に上奏した近衛首相によって、参謀本部の試みは阻まれた、とされます。

 これをもって、日中戦争が泥沼の持久戦に陥ったその責任は、参謀本部にではなく、文民政府が負うべきだ、とする意見が大勢を占めることになったのです。しかし私は、こうした意見には賛成できません。というのは、仮に、多田参謀次長や参謀本部戦争指導班が言うように、この時交渉が継続されていたとしても、それは、まず中国が日本に屈服することを前提とするものであり、それを蒋介石が飲む可能性はほとんどなかったからです。というより二重政府状態に陥っている日本政府を蒋介石は全く信用していなかった。(下線部修正12/8)

 そうなれば、参謀本部は、「支那と提携して東洋平和の枢軸を形成」するため、占領地に親日自治政府を擁立するほかなくなったでしょう。実際、その後、堀場参謀が策定した「日支関係調整方針」(昭和13年4月頃)を見ると、「北支及び蒙彊における国防上及び経済上(特に資源の開発利用)日支強度結合地帯の建設」を主眼としており、これは「石原イズム」を前提とするものであり、結局、これでは、政府の選択と変わるところはなかった、ということになります。

 もちろん、交渉打ち切りを主張した政府側に、和平実現に向けた有効な案があったわけではありません。とりわけ近衛首相の「蒋介石を対手とせず」という声明が、愚劣であったことは言うまでもありません。広田も含めて政府は、華北の新政権樹立が成功?したこともあって、「この形勢変化には策の施しようなしとして自然の成り行きに任せ、当分国民政府を相手にしない」(『廣田弘毅』)こととしたのです。しかし、これでは華北新政権の容認したことになり、中国の主権を否認したことになります。(下線部修正12/8)

 しかし、政府としては、第二次上海事件で4万人を超える膨大な犠牲者を出した上に、相手国の首都南京を陥落させた後の講和条件が、事変発生前の条件に戻るようなことは、到底できなかったでしょう。まして、第二次上海事変は蒋介石のイニシアティブで始められた戦争ですからね。近衛首相は、参謀本部がどうしても講和したいというなら、政府を納得させるだけの説明をすべきであり、「閣僚も其説明により真に能く事情を了解するに至らばいかなる譲歩も之を忍び局を結ぶことに全力を注ぐことと成るべし」と言っていましたが・・・。

 つまり、参謀本部の、中国との持久戦争を避けるとか、ソ連との国境が心配だなどという理由は、日本が中国と和を結ばなければならない絶対的根拠を示すものとは認められなかったのです。政府としても、その主張は判るが、しかし戦勝国である日本が、なぜ今この時点で、自らの膝を屈するような形で、蒋介石に和を請わなければならないのか。なにかそんなに慌てなければならない理由があるのかと疑問に思ったのです。そのため、参謀本部の早期講和の意図を、ドイツと共謀してソ連を攻める裏取引でもあるのではないかと疑ったほどでした。

 まあ、結論を言えば、この時点で戦争をやめることは誰にもできなかった、ということですね。では、そのターニングポイントはどの時点か?(挿入12/8)

 第一には、満州事変に無理があったと言うことですね(石原の戦争責任その1)。その無理を帳消しするために「満州国の承認」を中国に強硬に求めることになった。さらに、その無理から来る対米英摩擦を、東洋王道文明vs西洋覇道文明という対立図式に基づく「最終戦争」論で宿命づけた(石原の戦争責任その2)。そのため、自ら創出した脅威論によって自らが呪縛されることになった。その結果、満洲だけでなく華北の資源も不可欠だと考えるようになり、中国に対してそうした考えを押しつけようとした。しかし蒋介石はそれを拒否したので、やむをえず、華北に親日政権を樹立することを目指した。それが日中戦争を不可避なものにした・・・。

 この流れの中で、第二のターニングポイントを探すとすれば、それは、満州事変はやむをえなかったとしても、華北に手を出すようなことは絶対にしない、ということでした。できたら満洲の宗主権を中国に認めて、当面、満洲経営に専念する、それくらいの知恵と余裕を持てば、その後の悲劇は避けられたかも知れません。残念ながら、それだけの知恵を、当時の日本人は持たなかった、ということですね。

 第三のターニングポイントは、船津工作を成功させることでしたね。ただ、8月7日頃には蒋介石は最終的に全面抗戦を決意していたと言います。船津が上海に到着したのが同じ8月7日ですから、間に合わなかったのですね。ただ、これで、日本の陸海外三省には、中国と戦争する意志は全くなかったと言うことが判ります。せめてもの救いですね。(12/10挿入)

 それにしても石原の戦争責任その1、その2は、看過できるものではありません。多田や堀場は、その思想の内包する矛盾に翻弄されただけ、ということが言えのではないでしょうか。

12/11 1:45 最終校正