トラウトマン和平工作をめぐる10の疑問
トラウトマン和平工作は、日中戦争期において日本が中国に働きかけた数ある和平工作の中で最初の、そして蒋介石が受諾の意向を示した唯一の和平工作です。結局、この和平工作は、日本側が途中で和平条件を加重したために、具体的な話し合いに入ることなく、近衛文麿首相の”国民政府(=蒋介石)を対手とせず”という声明によって打ち切られました。この時、参謀本部は執拗に交渉継続を求め、ついには帷幄上奏まで行い政府決定の「再考」に期待をかけましたが、ついにその願いはかないませんでした。 こうしたトラウトマン和平工作の失敗について、その責任を、統帥部の意見を無視して交渉を打ち切った文民政府(近衛首相や広田外相など)に求める意見が大勢のようです。しかし、前々回申しましたように、私はこうした見方は一種の結果論であって当を得ていないと思います。というのは、すでにこの段階(南京陥落後)では、日中双方が妥協できる和平案を得ることはできなかったのではないかと思うからです。 以下、このことを、トラウトマン和平工作をめぐる幾つかの疑問点を明らかにする中で考えてみたいと思います。 1,なぜ(戦勝国である)日本が先に和平条件を提示したのか この和平工作は、日支全面衝突以前の昭和11年末、参謀本部の真奈木中佐が、石原作戦部長の意を受けてこの問題の全面解決を目的とし駐日ドイツ武官オットーに接触したことに始まります。この時「支那側は(1)内蒙古の自治を許し(2)満州において支那主権を認め親日政権の樹立をなすという条件にて和平をなすに異議はなかった」と重光葵は記しています。(参謀本部がこれに同意していたかどうかは不明)(『昭和の動乱(上)』p197) 日本政府の動きとしては、参謀本部の働きかけもあって、昭和12年10月1日に「支那事変対処要綱」を決定し講和条件に関する思想統一をはかった後、広田外相が10月27日に各国の外交代表(英米仏独伊)を招いて、個別に日本側条件の概要を説明し、第三国の公平な斡旋を依頼したのが最初です。この要綱は、「内蒙自治政権の承認」を追加したほかは、ほぼ船津工作当時の『大乗的条件』を踏襲」していました。 なぜ、この時期にこうした寛大な和平条件が踏襲されたかというと、それは、当時の「上海戦線の膠着状況、ひいては消耗戦争への不安」を反映していたからで、いわゆる「一撃派」にとっても、上海戦線における苦戦は全く想定外でした。そのため、それまで支那に一撃を加えることで紛争の早期解決を図るべしと主張してきた陸軍省及び参謀本部内の「拡大派」も、この条件での蒋介石との和平交渉に同意したのです。 後に、日本軍が上海占領後南京に向けて追撃を行う段階で、この和平条件が無電傍受され、「広田がこっちの肚を早く入ってしまったのが悪い」「広田を捕まえて縛ってしまえ」などと陸軍省や参謀本部の若手将校が広田外相を攻撃しました。しかし、実態は以上の通りで、またこの時の和平条件には、回答が遅延すれば「条件の変化があり得る」ことを広田よりディスクゼンを通じて中国側に通告していました。 日中戦争前における国交調整交渉は、まず広田三原則(1935年秋)の提示(排日停止、満州国の承認、共同防共)に始まり、川越・張群交渉(1936年秋)でその具体的条件の詰めがなされました。しかし、それに反対する陸軍出先の妨害工作(=華北分離工作)により交渉は中絶しました。 その後、軍は、佐藤尚武外相の新政策(1937年春)――陸軍出先が華北分治工作の一環として設けた既成事実の一部放棄(華北政治工作の中止、冀東密輸の停止など)――に同意し、日中和平交渉の再開が図られました。しかし、林内閣の瓦解(12.6.30)により進展せず、廬溝橋事件の勃発で交渉は再び中絶しました。 廬溝橋事件勃発後は、石原第一部長の発案になる近衛首相または広田外相の南京訪問案(7月中旬)や、近衛首相による宮崎竜介(宮崎滔天の息子)派遣などが試みられましたがいずれも実現しませんでした。そんな中、拡大を見せ始めた事変をなんとか収拾するための新たな「停戦及び国交調整案」(=船津案)がまとめられました。 これは、外務省の石射東亜局長が中心となってまとめたもので、(1)塘沽、梅津・何応欽、土肥原・秦徳純各協定の解消、(2)冀察・冀東両政府の解消、(3)排日の取締、(4)自由飛行、冀東特殊貿易の廃止を骨子とするもので、満州国を除き1933年以降日本の出先軍が華北で獲得した既成事実の大部を放棄しようとする「寛大な」条件でした。 特に「三原則交渉いらい難点となっていた満州国承認問題については、ただちに正式承認を求めず、「満州国を今後問題とせずとの約束を隠約の間になすこと」で足りるとし、また停戦協定成立後の交渉において治外法権の撤廃をも許与する含みがあった」(『日中戦争史』秦郁彦p147)とされます。 つまり、日本側としては、何としても中国との全面戦争は避けたかったわけで、そのためには、満州国の実質的承認を中国側に約束させることさえ出来れば、1933年以降日本の出先軍が華北において積み上げてきた既成事実のほとんどを放棄してもかまわないとする、従来の行きがかりを精算した画期的な了解案に達していたのです。 そのため、いまだ上海での激戦が継続中の10月1日に決定された「支那事変対処要綱」に示された和平条件が、「船津工作」(8月9日中国側に提示)に見られる「寛大な」和平条件を踏襲するものとなったのです。ということは、日本が中国に対して求めていたことは、究極において「満州国の承認」のみであったということになります。 ところで、この「船津工作」おいて、船津辰一郎(在華紡同業界理事長)に託された交渉を、天津より帰任した川越駐華大使が横取りしたため成功しなかったとの評が一般的になされます。この意味は、古屋哲夫氏によると、船津の役割は「極秘の内に中国有力者と接触し中国側から停戦を発議させる」ことを工作のかぎとしていた、とのことです。 このことは、政府が現地軍部の行動を正面から抑制し得ないと考えていることを示すもの(『日中戦争史研究』古屋哲夫編p108)で、従って、以上紹介したような中国との和平交渉の推進も、陸軍省及び参謀本部のごく一部の首脳と政府と間で極秘裏に進められてきたものであるということが判ります。 3,なぜ蒋介石は日本の「第一次和平案」を一月も放置したのか 先に述べた「支那事変対処要綱」の和平条件を引き継ぐ和平案(第一次案)が広田外相より駐華ドイツ大使トラウトマンを通じて蒋介石のもとに届けられたのは11月2日でした。しかし蒋介石は、開催中の国際連盟ブラッセル会議において、なんらかの形で対日制裁が決議されるものと期待していたので回答を留保しました。しかし、同会議が見るべき成果なく月末には閉会されたので、あらためて12月2日ドイツの仲介を取り上げることにしました。 しかし、この段階でも蒋介石の対日不信は根強く、「日本に対してはあえて信用できない。日本は条約を平気で違約し、話もあてにならない」と不信を露わにしつつ、「華北の行政主権は、どこまでも維持されねばならぬ。この範囲においてならば、これら条件を談判の基礎とすることができる。」ただし、「日本が戦勝国の態度を以て臨み、この条件を最後通牒としてはならない」などとしました。 また、「戦争がこのように激しく行われている最中に調停などは成功するはずはないから、ドイツが日本に向かってまず停戦を行うよう慫慂することを希望する」と述べました。(『広田弘毅』p302)一方、この時(s12.12.6)開かれた中国の国防最高会議常務委員会での協議に出席した他の将領の意見はいずれも「だだこれだけの条件ならば、これに応ずべし」というものでした。 ここに、蒋介石と他の将領との、日中和平交渉に臨む姿勢の違いが伺われるわけですが、こうした蒋介石の強硬な態度を決定づけたものが、広田三原則以降の日本の出先陸軍による武力を背景とした華北分離工作と、それに引きずられた日本政府の「二枚舌」的外交に対する不信にあったことは言うまでもありません。 実際、上海戦以降の日本軍の行動も中央の指示を全く無視したものであり、大本営(11.20設置)には南京まで進撃する計画はなく、あらかじめ蘇州―嘉興の線を現地軍の追撃限界線としていました。しかし現地軍は、南京占領による国府の降伏を主張して軍を進め、大本営はやむなく無錫―湖洲の線までこれを延長しました。 その後の南京攻略に際しても、参謀本部の戦争指導当局は、これを機に講和を図らんとして、南京城外における戦線の停止を提案しました。つまり、この「按兵不動」の間に勅使を南京に送り双方の真意を交換し、「日支和戦究極の決定に導かん」(『支那事変戦争指導史』堀場一雄p110)としたのですが、現地軍の不同意で断念しています。しかし、12月1日松井大将の強い意見具申を受けて南京攻略の許可を与えています。(4/18追記) *一パラグラフ削除(4/18) なお、蒋介石は11月2日に第一次案がトラウトマンより示された時、「もし自分がこの(日本側の)条件を受諾したら、わが政府は世論の大浪に押し流されてしまうだろう。・・・日本のやり方でわが政府が倒されれば、共産主義政権が誕生するだろうが、その結果は日本にとって和平の機会の消滅である。共産主義者は決して降伏しないだろうからである」と極秘に述べました。(『日中戦争』児島襄p146、「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹) つまり、それほど「日本のやり方」に対する蒋介石の不信は根強く、かつ、中国国民の日本に対する抗戦意志も強烈だったということができます。従って、蒋介石に第一次和平案が示された段階では、先に述べたブラッセル会議に対する期待もあり、蒋介石にはこの第一次和平案を受諾する意志はなかったのです。(下線部追記4/18) 4,なぜ日本は「第二次和平案」に見られるような条件加重をしたのか 第一次案に対する条件加重に、近衛首相や広田外相がどのように関わったのかということについては、資料間に異同があり正確なことは判りません。しかし総じていえば、両者とも軍や世論の多数意見に左右されがちないわば「融和的」政治指導者であったことは否めないと思います。といっても、両人とも軍の独断専行と無統制に悩みつつ、なんとか早期和平に導こうと努力したことは間違いありません。(下線部修正4/20) また、この時の戦争は、中国軍による上海の日本海軍に対する奇襲攻撃をもって始まっていますし、上海戦における日本側犠牲者は、旅順攻撃における犠牲者に匹敵(4万1千人)するものでした。従って、そうした激戦を制した後の南京陥落という戦果を前にして、二人ともつい、華北における親日政権の樹立(=蒋介石政権の否認)が戦争終結の早道であるいう現地軍の「トリック」にはまってしまったのではないでしょうか。 というのは、この条件加重は、12月7日ディルクゼン大使から広田外相に「日本側提示の条件を基礎にして交渉に応ずる用意がある」との蒋介石の回答が伝えられた段階では、この「第一次和平案」に「青島紡績工場焼き払いの如きもの」に対する損害賠償を加えたというだけのものだったのです。広田はこれを直ちに天皇に上奏し、天皇は「よかったね」とうなずいたといいます。(『天皇』第3巻 児島襄p238) しかし、これが南京陥落(s12.12.13)後12月14日の政府・大本営連絡会議では「近衛首相は終始沈黙していた。原案を忠実に支持したのは保内海相と古賀軍令部長のみで、多田、末次、杉山、賀屋の諸氏から出された異論によって条件が加重されていった。・・・かねてから和平論者として評のある多田次長から、条件加重の意見が出たのは不可解であった。わが広田外相に至っては一言も発言しない。」と描写されています。(『外交官の一生』石射猪太郎p326) ここにおける「近衛首相は終始沈黙していた」との描写については、『西園寺公と政局』では、末次内務相が「この事変の講和条件については、よほど強硬にやらないと、とても国民は収まらんし、出先の軍人も収まらん」と述べたのに対し、近衛首相は、「今の内務大臣の言われた趣旨には自分は反対である。自分達としてはどこまでも中外から見て、なるほど日本の主張は正当であり、日本の要求は公正である、といわれるような内容をもった講和の条件でないとならないと思う。国民が収まらないからとか、軍人が不平を言うからと言って、不可能なこと、或は無理なことを日本が要求することは、国家の威信に関する」と毅然として自己の主張を述べた、とされています。(米内海相の談話)(同書第6巻p187) また、堀場一雄(参謀本部作戦指導課)の『支那事変戦争指導史』では、「広田外務大臣先ず発言し、犠牲を多く出したる今日斯くの如き軽易なる条件を以ては之を容認しがたきを述べ」た(誰かからの伝聞)、となっています。また、堀場は、広田が第一次和平案を軍に相談しなかったとか、一度自らの責任で条件を提示しながら南京の戦勝に酔って条件を加重したことは国家の信義に反するなどと広田を批判しています。(同書p118) しかし、このトラウトマン和平工作における第一次和平案の提示は、先に述べたとおり、参謀本部とドイツのオットー(東京駐在武官)を通じての中国との和平交渉を政府が引き継いだものであり、「要するに陸軍の統制さえついていれば何事もおこ」らないはずのものでした。(米内海相及び山本次官の話『西園寺公と政局』第3巻p173) また、参謀本部の戦争指導班は「成しべくんば支那側の申し出を取り上げて交渉に入るべし」としていましたが、付加すべき条件については、陸海外三省及び統帥部間の協議を経て、第二次和平案がまとめられました。そこでは非武装地帯の拡大(華北、内蒙、華中)、内蒙自治政府及び華北特殊政治機構の承認、保障駐兵、及び戦費賠償などが追加されていました。 (5)なぜ参謀本部は蒋介石との交渉継続を執拗に主張したか この「第二次和平案」は、その翌日(12.22)ディルクゼンに提示されましたが、ディルクゼンは一読して、中国側が受諾する見込みは薄いとの感想を述べました。これは26日トラウトマンより孔祥熙ならびに蒋介石夫人(宋美齢)に伝えられました(この時は蒋介石は病中)が、孔は「誰もこんな原則を受け入れることはできない。・・・日本は日本自身の破滅をもたらすであろう」と述べました。(「トラウトマン工作の性格と資料」三宅正樹) なぜなら、この講和条件はまさに華北分離工作の延長上にあるとしか見えなかったからです。華北、内蒙における非武装地帯の拡大や特殊政治機構の承認などは、「塘沽協定以来の現地軍部の基本目標であり、そのうえに戦争の拡大に伴う諸要求を積み上げてゆくというのが、この要求の骨組みをなして」いました。このことは「船津工作に見られた政策修正の試み」が消え失せたことを意味します。(『日中戦争史研究』古屋哲夫p108) 案の定、中国側の回答は年が明けても届きませんでした。船津案をまとめた石射は広田に「あの加重された条件では、到底色よい回答が中国側からくるはずがありません。和平はさし当たり絶望です。日本が事変を持てあまして、目が醒めるまでは、時局を救う途はありません。その時機はやがて到来します。それまで『国民政府を相手にせず』結構です。この点について私は争いません」と述べました。(『外交官の一生』p329) 結局、中国側回答は、最終期限の1月15日の前日に届きました。内容は「日本の条件は範囲広範に過ぎるので・・・さらに詳細な内容を知りたい」というものでした。これに対して政府・軍部は、講和条件の細目はすでに数次にわたり(ディルクゼンを通じ口頭で)説明済みであるとし、いまさらこのような申し入れをしてくるのは講和への誠意がなく遷延策に出たものであるとして、14日の閣議で交渉打ち切り方針を固めました。 しかし、参謀本部はなお交渉継続をあきらめず、そのため15日の連絡会議では広田外相らの交渉打ち切り論と多田参謀次長の継続論が鋭く対立しました。多田はこの機会を失えば、長期戦争に引き入れられる危険が大きいとし「中国側の要望に応じて日本側条件11ヵ条の確実な内容を文書で交付し、手続きについても、なお検討を加えるべきである」と主張し、古賀軍令部次長も多田の主張を支持しました。 しかし、陸軍省は打ち切り論に一致していて、杉山陸相もすでに連絡会議で広田に賛成し多田と激論を交えている状況であり、部内の意見統一すら困難とみられたので、結局参謀本部は「この重大事局において、政府対統帥部の抗争のために政変を起こすようなことは是対に避けねばならぬと考えるので、統帥部として不同意なるもあえて之に反対しない」という趣旨を政府に通告して、その方針に従うことにしました。 にもかかわらず参謀本部は、これを参謀総長から天皇に上奏すれば、かねてより早期和平を望んでいる天皇から政府に対し「再考の御諚あるいは御前会議の招集」があるのではないかと期待しました。しかし、閑院宮参謀総長があらためて対ソ防備上交渉継続の必要性を天皇に言上すると、天皇は、「それなら、まず最初に支那なんかと事を構えることをしなければなおよかったじゃないか」といい、総長は返す言葉を失ったといいます。 この天皇の言葉は、日支事変に際して度々講和の機会を得るよう希望していた天皇の言葉としては意外な感じがします。しかし、これは「政府がその全責任において決定したことについて、天皇がそれを左右するような発言をすることは厳に慎む」という立憲君主の態度として当然のことでした。ただ、天皇としては、事ここに至ったその責任が「最初に支那と事を構えた」参謀本部にあるとの認識について一言したかったのでしょう。 (6)なぜ参謀本部は政府を説得できなかったか(小見出し挿入4/18) それにしても、どうして参謀本部は、軍の統帥機関としての専門的見地から日支間戦争の長期化をこれほど恐れながら、なぜ文民たる政治家を説得できなかったのでしょうか。一方、なぜ文民政治家たる近衛や広田は、事変当初から早期和平の実現に努めながら、この決定的な局面において、参謀本部の交渉継続を求める意見を無視したのでしょうか、いや無視することができたのでしょうか。 この間の事情を説明する論はほとんどなく、参謀本部の見識を評価する一方、文民政治家の無能ぶりを慨嘆する意見がほとんどです。しかし私自身は、先に述べたように、「第二次和平案」の段階で、蒋介石が和平交渉に応ずる可能性はゼロだったと考えますので、この点はむしろ文民政府の判断の方が正しかったと思います。問題は、この「第二次和平案」から「船津工作に見られた政策修正の試み」が姿を消した、ということではないでしょうか。 つまり、この「第二次和平案」は、国民政府がこれを呑まなければ、日本は再び華北分離工作さらには華中分離工作を開始するぞ、という脅しているようなものなのです。確かに参謀本部は、華北分離工作の誤りを指摘する一方、日満支三国提携共助の実現の必要性を説いています。しかし、参謀本部は、この和平案がならず、「現中央政府を否認」した場合の中国における軍事占領地域内の新政権樹立方針をも同時に起案していました。(『支那事変戦争指導史』P116) ところで、石原が日本の伝統的大陸政策の修正の必要を認めたのは昭和10年末頃です。しかし、石原自身、これと矛盾する日本による華北五省の分離支配政策を捨ててはおらず、この政策は、昭和11年8月決定の「帝国外交方針」その具体化である「第二次北支処理要綱」で正式の政府決定とされました。ここでは「北支分治政治を完成して防共親日満地帯を建設し、併せて国防資源の獲得をはかり、以て蘇国の侵攻に備える」としていました。 その後石原は、昭和12年1月に「帝国外交方針」を改訂し、華北「分治政策」の放棄を提起しました。しかし、それは、究極的には、石原自身が押し進めてきた日本の伝統的大陸政策の放棄を意味するものであり、ここに石原は、深刻な自己矛盾に逢着しました。つまり参謀本部の堀場一雄を中心とする作戦指導課もこの矛盾の上にあったのですが、しかし彼らは、この自己矛盾の深刻さに(下線部追記4/18)気づきませんでした。 というより、実は、石原が説き堀場も信奉した「王道思想」論が日本の大陸政策を根底において支えていたわけで、従って、この「第二次和平案」を堀場がいかに非侵略的なものだと言いつくろおうとも、その欺瞞性は中国人の目には明らかだったのです。蒋介石は王寵恵外交部長から、ドイツ大使トラウトマンから対日回答の督促を受けていることを告げられた時、次のように王部長に大声で命令したとされます。 「日本側の条件は、わが国を征服して滅亡させるためのものだ。屈服してほろびるよりは、戦って敗れてほろびたほうがよい」「断固として拒絶せよ」そして日本側が1月15日の回答期限を前に政府大本営間で会議を重ねていることを知ると「それじゃ、日本はやっと、中国との戦いが長期戦以外にはあり得ないことに気がついたか――。」(『日中戦争(3)』児島襄p222) |