幣原外交の再評価をめぐって3――一読者さんとの対話

2010年10月21日 (木)

一読者さん、コメント有り難うございます。

 戦後幅を利かしてきた「左翼的歴史観」、例えば、戦前の日本史「真っ暗史観」や、いわゆる「自虐史観」は、ソ連の崩壊や中共の「文革」の失敗などで、その幻想性が明らかとなりました。国内でも司馬遼太郎の歴史小説などが多く読まれ、また、南京事件等の検証が進められる中で、随分と修正されてきたように思います。最近の雰囲気としては、むしろ、「自尊史観」を支持する人の方が多くなっているのではないでしょうか。

 問題は、こうした「左翼的歴史観」から免れている人たちに間で、昭和史の「修正主義史観」をめぐって意見が対立していることで、田母神氏の論文をどう評価するかが、そのメルクマールになっている観があります。田母神論文についての私見は、私HP「山本七平学のすすめ」の「田母神論文から有事教育のあり方を考える」(参照)でも述べましたが、正直いって、自衛隊の空軍最高司令官の情報処理能力がこの程度とは”がっかり”です。

 渡部昇一氏が、その論文の選考にあたったとのことですが、氏の書かれた近現代史ものでは、私が先に紹介した『日本史から見た日本人 昭和編』がバランスよく書かれていて説得力があると思っています。その視点からすれば、田母神氏のそれは、昭和軍閥の大陸政策を、アジアの植民地解放のためと弁護し、日中戦争や日米戦争は全てコミンテルンの謀略とする、いわゆる”謀略史観”の域を出ないもので落選のはずです。

 もちろん、歴史的事件についての解釈に、新資料の発見によって修正が加えられることは大変いいことで、おっしゃる通り、今後、旧ソ連や中国からの一次資料の公開が期待されます。とはいえ、最近の中露共同声明に「中露は(日本による)第二次大戦の歴史歪曲(わいきょく)を断固非難する」とあるように、自国に不利な資料を両国が出すかどうか、極めて疑わしく、まあ、当面は国内での議論に精密を期すべきではないでしょうか。

 そこで、ご紹介の新説についての私見を申し上げたいと思います。

>◇「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」平成22年(2010)7月8日(木曜日)弐
・張作霖爆殺事件の犯人はソ連だった
・廬溝橋事件も、中国共産党が日本と蒋介石軍双方に発砲したことが明らかに

(以下、宮崎雅弘氏の記事とそれに対する私の反論です――『昭和史の謎を追う(上)』『現代史の争点』秦郁彦、『張作霖爆殺』大江志乃夫外参照)

宮 「従来の定説・河本大佐犯行説の裏付けとされているものは、殆ど全部が伝聞資料」とした中西輝政の主張を引く筆者は、「それも、相当の年月が過ぎた後、誰それから聞いた、関東軍の参謀から聞いたなど、歴史学で言えば資料価値がゼロのものばかりだ」と言う。

tiku 以下、張作霖爆殺事件の調査経過を記します。

 この事件の第一報は、事件直後奉天に急行し事件現場を視察した予備役中将貴志弥次郎より、爆薬の量と質(後250Kピクリン酸(黄色火薬)と判明)が便衣の少数工作員が携帯する程度のものでないこと、爆破スイッチの電線を敷設した痕跡(電線が日本軍の監視所に引き込まれていた)を確認して、日本軍人が関係していたに相違ないと、田中首相に報告した。

 第二報は、河本謀略の第二段階の爆弾騒ぎによる攪乱の実行組として謀略事件に関与した大陸浪人から、その知人を介して小川平吉鉄道大臣につうじ、6月10日に小川から田中首相と白川陸相に事件の要点が報告された。
(以上は間接情報)

8月5日 張作霖葬儀(張学良は混乱防止のためその死を秘匿した)

9月7日 田中首相は「本件は国際的重大事件である。若し日本人の所為ならば厳重に処罰し、信を天下につながなければならぬ。就ては本件を取り調べよ」といい、陸軍省軍務局長、外務省アジア局長、関東庁警務局長らに共同調査を命ずるとともに、白川法相をして峯幸憲兵司令官を奉天に派遣し、取り調べを行わせた。

 峰幸は「朝鮮・竜山での聞き込みで目星をつけた点火者の龍山工兵隊の桐原工兵中尉を尋問、証拠を固めたのち関東軍に乗り込み河本大佐・東宮大尉から全貌を聞き出した。」

10月23日 西園寺は、田中に対して断固処罰、綱紀維持、それが国際的信用を維持する所以と説いた。

11月24日 田中は参内し天皇に事件について内奏した。その内容は、『昭和天皇独白録』(1991)では、「田中総理は最初私に対し・・・河本を処罰し、支那に対しては遺憾の意を表するつもりである」と言った、となっている。

11月28日 陸軍首脳が事件の公表と処分に反対する決議を行う。

12月8日 田中は小川鉄相より、真相上奏はかまわないが、処置については必ず閣議にかけるよう力説されこれに応諾した。

(この間、後の軍部クーデターの主役となる二葉会(一夕会)など陸軍中堅将校の横断的圧力団体が「河本を守れ」と圧力をかける。独白録には「聞くところに依れば、若し軍法会議を開いて尋問すれば、河本は日本の謀略を全部暴露すると云ったので、軍法会議は取りやめになった」とある。閣内では小川と森恪が中心となって各大臣を説き回り「閣僚全員反対」(『小川秘録』)へ持ち込んだ。)

昭和4年3月末 陸軍が真相不公表、河本らは行政処分という結論を出す。

5月20日 田中は軍法会議での処分を諦め「関東軍は爆殺には無関係だが、警備上の手落ちにより責任者を行政処分に付す」という陸軍報告を呑んだ。

6月27日 田中は午後参内し天皇に拝謁、準備してきた(上記内容の)上奏文を読み上げた。これに対する天皇の反応は、
「此日陛下は初めより龍顔常に変わらせられ給いしが、首相の朗読終わるや励声に、先の上奏と矛盾する、深く考慮すると仰せられ、首相より此議に付てはご説明も申しあぐれば分明すべしと言上せるに、陛下は説明を聞く必要なしと仰せられ、且つ首相の朗読せる書面の留置を命ぜられ・・・」(退出した首相が語るのを聞いた小川鉄相の秘録による)という具合だった。

7月1日 村岡関東軍司令官――依願予備役編入、河本大佐――停職、斉藤前関東軍参謀長・水谷独立守備隊司令官――譴責、という処分発表

7月2日 田中内閣総辞職

9月29日 田中義一狭心症で死去

 以上の経過の中で、憲兵が行った調査によって得られた資料が全部伝聞資料で、「歴史学で言えば資料価値がゼロのものばかり」などとは、私はとてもいえないと思います。そんな薄弱な資料しか集まらなかったとすれば、なぜ陸軍はこれをもみ消そうとしたのか。

 次に、この事件が河本らの犯行であることを証明する証拠で、今までに明らかになっているものを示します。

1.『文藝春秋』昭和29年12月号に掲載された「河本大作の手記」については、河本大佐自身の筆によるものではなく、義弟平野零児氏による聞き取りであり、平野は思想的に左翼で、戦後山西収容所に入れられた「中帰組」の一人で信用ならないと宮崎氏は言います。

 しかし、この原稿は、敗戦前に、平野が、昭徳興業株式会社の重役で九州大学医学部教授故高岡達也医学博士に「河本大作の伝記」の依頼を受けて、「主として張作霖爆死事件を秘録として書いた」ものです。

 「そのコピーは、伝記の依頼者であった・・・高岡達也医学博士に一部と河本の家族のもとに一部、そして太原へは私が一部を保存したもので、本誌(文藝春秋)に掲載された資料は、家族の保存した分を戦後私の友人Oが、これを文藝春秋新社に提供したものであったと知れたが、私の保存した分は解放直後に証拠になると思って、私は社宅のカマドで焼却してしまっていた。」(平野零児『戦争放火者の側近』より )

 これが事実であれば、資料的価値が薄いとは言えませんね。

2.河本大作が、満洲占領の早道として張作霖の抹殺を決意したのは昭和2年末頃とされますが、その決意を示す、在京の親友磯谷大佐宛ての書簡が、岡田芳政氏によって磯谷家資料の中から発見されました。書簡の消印は昭和3年4月18日です。(『昭和史の謎を追う』「張作霖爆殺事件」秦郁彦)

 「経済的抗争は支那人の労力を基礎とせる満洲の施設では、日本側が負けをとるが必然・・・このような拙作ははやくやめ、武力的弾圧を加えねば駄目なり・・・二十年来の総決算をやる覚悟で臨まねば満蒙の根本的解決は得られない。張作霖の一人や二人くらい、野タレ死しても差し支えないじゃないか。今度という今度は是非やるよ。止めてもドーシテも、やって見る。・・・僕は唯々満蒙に血の雨を降らすことのみが希望」

3.2006年8月11日NHK特集「満蒙開拓団はこうして送られた」で、NHK取材班は、河本と共に張作霖爆殺事件の実行犯であった東宮鉄男大尉(奉天独立守備隊)の日記を発見しました。(参照

 「東宮は、まず28年4月17日に、「京奉線クロス遮断準備計画」を提出したと記しています。爆殺事件は、京奉線と南満州鉄道が立体交差する地点で起きたもので、この「遮断計画」が爆殺計画であることは明らかです。さらに事件直前には、いつ張作霖が引き上げてくるか分からず緊張したことや、東宮が現場を視察したことも記録されています。」

 さらに、翌29年7月2日、田中内閣が総辞職したとき、東宮は次のように書いています。
「事件の最大責任者はもとより余一人にあり。ただ余が言を発すればことさらに重大を加う。……特に軽挙を慎まざるべからず。」(この日記は、「8月21日、NHKの林デレクター、パオネットワークの後藤さん、同じく藤枝さんの三方が、過日ドキュメンタリー制作に必要だ」と訪れた際、遺族がNHKに貸し出したものだそうです。遺族としては大変苦慮されたとのことですが、「しかし、敗戦後の開拓民の悲惨な惨状を思うとき、その責任の…出すしか…封印しっぱなしと言う訳にもいかず、自問自答」しながら貸し出しに応じたものといいます。)

 いずれにしても、この事件は、全く”わけの分からない”バカげた事件ですので、誰かが、日本を窮地に追い込むために仕組んだ「謀略」ではないか、と思いたくもなります。しかし、残念ながら、以上の調査経過やその後得られた資料による限り、関東軍参謀河本大作大佐、奉天独立守備隊東宮鉄男大尉、龍山工兵隊の桐原工兵中尉らによる犯行であったことは間違いありません。これによって分かること、それは、こうした考え方は決して彼等だけのものではなく、当時の関東軍とりわけ若手将校らの共通認識だったということです。上記の「河本大作の手記」がその雰囲気をよく伝えています。

 なお、ロシアの歴史作家プロホロフのインタビュー記事については、秦郁彦氏は「プロホロフ自身が第一次資料を見たのではなく、誰かに聞いたという話でしょう。それを定説と両論併記にしろなんてとんでもないですよ。歴史が定説になるまでには、何千人という人が何万時間という時間をかけて議論を深め、史実を詰めて、そして結論に到達するわけですから」と、西尾幹二氏の主張に対して反論しています。(『諸君』2009.4「田母神俊雄=真贋論争を決着する」)私は秦氏を支持しますね。

>また、以前コメントした2005年の米国の資料公開の研究の結果、いくつかの点で成果が出てきているようです。

tiku 731部隊の実態については「十余人の中国抑留者の供述」(洗脳による)に基づくものが多いといいますね。特攻隊の成功率については、『特攻 極限の戦いのすべて』(発行イカロス出版)では、硫黄島戦までは至近命中を含めて27%、沖縄戦では13%、トータルでは16%となっています。こうした特攻攻撃は、例えば山本七平も「待ち伏せ方式」といって、フィリピンのピタグ隘路の崖に横穴を掘り、そこに潜み「ふとん爆弾」(ダイナマイトを詰めふとん状にしたもの)を抱えて戦車を待った」(参照)のですから、これも特攻といえば特攻です。幸い、米軍は迂回戦術をとったため、山本は生き残ったわけですが・・・。

>今回のエントリーで紹介されている幣原喜重郎については、個人的には、宮沢喜一元首相とイメージがダブって仕方ありません。・・・幣原喜重郎は欧州大戦(第一次世界大戦)そのものとその後の国際情勢の変化に対する判断および対応を誤り、不必要な対中融和策と相俟って、かえって日本の国際的立場を悪化させた(日英同盟破棄)人物という印象を持っています。

tiku 要するに、ワシントン体制に信を置きすぎた幣原が悪い、というご意見だと思いますが、ワシントン会議に参加したアメリカの外交官、ジョン・マクマリーは、ワシントン会議での条約と決議の意義について、それは、「極東問題(つまり中国)に関する一連の協定に関する諸国の同意を得るためのもの」で、日英同盟がこれに悪影響を与えているので、それを無難な形で終わらせることによって、「太平洋地域における安全と平和の体系の確立」しようとしたものだ、といっています。(以下『平和は如何にして失われたか』参照)

 ところが、その後中国は次第に態度を変え、「ワシントン会議が条件付で中国に認めたものは当然のものとして要求しつつ、ワシントン会議の諸条約や諸決議は目覚めた中国の受容や要求にこたえていないとして、その妥当性を否定するようになった。」しかし、「1926年秋までの期間、中国以外のワシントン条約加盟国は、会議の目的達成と伸張に向けて、異例とも言える緊密な協力をした。変革期中国の背信と偏狭にかかわらず、各国はワシントンで中国の同意を得た計画と期待の成就に向け、信託に沿って努力したのである。」

 しかし、1927年に蒋介石が国民党の支配権を握って中国の統一に向けた北伐を開始するようになると、アメリカではそれが独立時の愛国精神と二重写しになり、蒋介石のキリスト教改宗もあって氏への同情が高まるようになった。また、各国は中国の非妥協的な敵意を前にして妥協的な態度をとるようになり、特に米国と英国(中国を訂正10/21)は、自国の方が他の国より従順なことを中国に示そうと躍起になるありさま。そんな時、日本では田中内閣が山東に出兵し、中国人の敵意を一身に引き受けることになった。

 つまりマクマリーは、ワシントン体制が5年も経たずに崩壊した原因は、主として米国政府が、ワシントン体制のめざした国際協調の理想を実現するための努力を抛棄してしまったためとしているのです。だからといって、日本の満州事変以降の侵略路線は支持も許容もできないが、しかし、日本をそのような行動に駆り立てたものは、その大部分は、中国の国民党政府が仕掛けた結果であり、事実上中国が「自ら求めた」禍だとわれわれは解釈しなければならない、といっています。

 私は、幣原が、「太平洋地域における安全と平和の体系の確立」のために、ワシントン体制による国際協調路線を選択したことについて、その責任を問う気にはなれませんね(岡崎久彦氏は同盟と集団安全保障の違いを指摘していますが、これは後に分かったこと)。この点では、むしろアメリカやイギリスの責任を問うべきだと思います。しかし、それは他国のことであって、もし「日本において自由主義と国際協調を信ずる政治家が、中国での安定した状態と連携して国内の主導権を引き続き掌握していたならば、中国の主権を認めるような方法で、満洲における日本の最終目標を再検討することが可能であった」(『平和和如何にして失われたか』p74)のではないかと私は思います。

 なお、上記のパラグラフ末尾の「 」内の記述は、マクマリーが1935年に書いたメモランダムに、アメリカ海軍大学のアーサー・ウォルドロン教授がつけた解説の結論部分の文章です。まさに私が言いたかったことで、よく日本の事情をつかんだものだと驚きました。さらにこの文章は、次の一文をもって締めくくられています。「特に当時の日本国内に、きっちりした政治の均衡が確保されておれば、マクマリーが想定した通りの緊密な国際協力は効果をあげただろう。」

 まさにその通りだと思います。