日本の安易な「アジア共同体」思想が日中戦争を引き起こした

2010年2月27日 (土)

 いわゆる、自虐史観といわれる自己否定的歴史観を持った人たちに対して、日本の歴史をもっと素直に前向きに理解しようと主張する人たちの多くが、単に前者の反動に留まっているように見えるのは誠に残念なことです。というのは、前者が無くなれば後者も無くなってしまうからで、それでは元の木阿弥というか、結局、同じ失敗を繰り返すことになってしまいます。

 山本七平が、その「日本軍隊論」の中で提起したことは、戦後の日本の思想界を風靡した、いわゆる占領軍政上の思惑に基づいた歴史観(氏は「マック制」と言っていました)からの脱却は当然のこととして、そうした他国の思惑に振り回されない日本人自身の歴史観を、日本の近代の総決算ともいうべき「昭和の悲劇」を省みる中で考えてみようということでした。

 そうした反省の中から、氏が摘出した最重要ポイントが、「日本軍が同胞に犯した罪悪のうち最も大きなもの、それは日本人から『言葉を奪ったこと』」というものでした。一知半解さんが紹介している「聖トマスの不信」の話もここから出ているのです。つまり、解らないことは解るまで徹底して議論してよい。たとえそれが神と議論することであってもかまわないということなのです。

 ここには、人間の秩序はあくまでも「言葉によって作られるべきもの」という考え方があります。もちろん国が違えば言葉も違ってくるわけで、その結果、かっては戦争も起こったわけですが、日本人には、自由な言論を通して秩序を作っていくことが苦手で、特に戦前の日本軍には、言葉よりも暴力に訴える、いわゆる私的制裁の伝統が根強く残されていました。これが重要な局面での判断を誤らせたというのです。

 言い方を変えれば、それは、自分の言葉(=思想)と他者の言葉(=思想)を区別できないと言うことで、人はそれぞれ自分の言葉(=思想)を持っており、だから、お互いに意見を交換する意味があるのに、相手が自分と同じ考えでないと安心できない、というより、相手に対して感情移入し、相手が自分の思い通りに反応してくれないと裏切られたと感じる。そういう傾向を日本人は濃厚に持っていると言うのです。

 実は、日本が中国と戦争するはめになった最大の原因もここにありました。当時、日本の軍人は、日本と中国は同じ東洋の王道文明の国であるから、いち早く近代化を果たした日本に協力すべきであり、西洋の覇道文明に対して協力して対抗すべきだ、と考えていました。そのためには中国は日本の指導を受け入れ、軍事物資等の調達にも協力すべきだと考えていたのです。(下線部訂正3/10)

 つまり、この時日本は、このような自分勝手な「文明論的思い込み」を中国に押しつけているということに気づかなかったのです。確かに中国は、一日も早く全国統一して近代化に着手したいと思っていました。だから、その範囲であれば日本に協力できると考えていました。しかし、日本の勝手な「文明論」につき合って米英を敵に回す必要はなかったのです。。(下線部訂正3/10)

 考えてみればそれも当然で、日本のしていることは、「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という思想を中国に押しつけ、その兵力や資源を日本に提供することを求めていたわけで、日本人は真剣だったのでしょうが、それを強制されている中国にとっては、迷惑以外の何者でもなかったのです。実際、その一方で日本がやっていたことは、蒋介石の中国統一を妨害することでした。

 結局、このような勝手な思い込みがもたらした相互不信と反発が、日中戦争の原因となり、日本軍は百万を超える軍隊を中国に送り、その主要都市の大半を占領することになったのです。そうなれば、いろいろな既得権や面子も出てきますから、撤退はますます困難となり、一方、中国はアメリカやイギリスに支援を求め、これに対抗して日本はドイツと同盟した結果、アメリカとの対立は決定的となりました。

 こうして、日本のアメリカに対するイライラは次第につのって行きました。そしてついに堪忍袋の緒が切れて、真珠湾を奇襲攻撃することになったのです。実はこの時も、日本軍は、中国との戦争がそうであったように、アメリカと戦争するつもりはなかったのです。だが、アメリカに中国からの撤兵を迫られ、ほとんど窮鼠猫を噛むと言ったような心理状態で、対米英戦争に突入していきました。

 そんなわけで、中国やアメリカとの戦争は、日本があらかじめ計画して始めたものではありませんでしたから、その戦争目的は明確ではありませんでした。前者の場合は、中国に出征した日本兵士も一体何のために戦争しているのか分からなかったといいます。そこで困って急ごしらえで作ったスローガンが、大東亜戦争の場合は「東亜諸国の植民地支配からの開放」だったのです。

 このスローガンを最初に考え出したのは、外務省の重光葵(昭和17年頃)で、その目的は、日本が戦争をしていることの大義名分をこのように宣明することで、中国との戦争原因を消滅させ、それによって中国との和解に漕ぎつけ、中国からの日本軍の撤退を可能にすることでした。氏はそれが、英米との戦争状態を終結させる唯一の方策だと考え、これを大東亜戦争の戦争目的としたのです。

 つまり、このスローガンは、日本がアメリカやイギリスと戦いを完遂することによって「東亜諸国の植民地支配からの開放」を実現することを目指したものではなく、逆に、中国はじめ東亜諸国の欧米植民地主義者からの開放と独立を宣言することで、日本の大東亜戦争の大義名分を明らかにし、これによって、これらの地域からの日本軍の撤退の契機をつかもうとしたのでした。

 重光は、これを日本が対米英戦の緒戦での勝利で日本が優位にある段階で、これを実現しようと考えていたわけですが、ドイツとの三国同盟の縛りもあって勝手に戦争をやめるわけにも行かず、ぐずぐずしている内に戦況が逆転し、なんとか「大東亜会議」は持てたのですが、アメリカや中国をはじめとする連合国がこれに応じるはずもなく、結局、絵に描いた餅に終わりました。(『昭和の動乱(上)』重光葵参照)

 だから、この戦争について日本の名誉を回復しようとして、このスローガンをいくら持ち出しても、結局、中国からの日本軍の撤退を決断できなかったのは日本だったわけで、また、その機会は対米英戦争以前にもいくらでもあったわけですから、この戦争の原因をアメリカに求めることはできないと思います。では、なぜ日本軍は中国から撤退する事ができなかったのでしょうか。

 その原因は、実は、当時の日本軍や日本国民の多くが、先に紹介したような「東洋王道文明vs西洋覇道文明」といった宿命論的文明論の拘束下にあり、その思想的文脈の中で中国問題を解決しようとしたからなのです。このことは、日中戦争が始まって最初に訪れたトラウトマン和平工作において、交渉継続を主張した参謀本部の多田次長や堀場中佐をも支配した考え方でした。

 実は、こうした「東洋王道文明vs西洋覇道文明」という対立図式を、軍事的観点から最初に提示したのが石原莞爾で、日本の陸軍将校の多くは少なからずその思想的影響下にありました。特に参謀本部の作戦課にはその思想の信奉者が多く、また、海軍の中にも、若手・中堅の将校を中心に、こうした思想に心酔し、対米英戦を不可避と見て海軍力の増強を主張する者も多かったのです。

 次の文章は、石原莞爾の『世界最終戦総論』(昭和17年発行)に収録された「最終戦争論」に関する問答の一節です。石原莞爾はこうした主張を昭和2年の陸軍大学教官時代にまとめ、関東軍参謀となって以降、講演などを通じて人びとに教宣していました。

 「西洋文明はすでに覇道に徹底して、自ら行き詰まりつつある。王道文明は東亜民族の自覚復興と西洋科学文明の摂取活用により、日本国体を中心都市値勃興しつつある。人類が心から現人神の信仰に悟入したところに、王道文明は初めてその真価を発揮する。

 最終戦争即ち王道・覇道の決勝戦は結局、天皇を信仰するものと然らざるものの決勝戦である。具体的には天皇が世界の天皇とならせられるか、西洋の大統領が世界の指導者となるかを決定するところの、人類歴史の中で空前絶後の大事件である。」

 「明治維新は明治初年に行なわれ、明治十年の戦争によって概成し、その後の数十年の歴史によって真に統一した近代民族国家としての日本が完成したのである。昭和維新の眼目である東亜の新秩序即ち東亜の大同は、満州事変に端を発し支那事変で急進展をなしつつあるが、その完成には更に日本民族はもちろん、東亜諸民族の正しく深い認識と絶大な努力を要する。

 今日われらは、まず東亜連盟の結成を主張している。東亜連盟は満洲建国に端を発したのであり当時、在満日本人には一挙に天皇の下に東亜連邦の成立を希望するものも多かったが、漢民族は未だ時機熟せずとして、日満華の協議、協同による東亜連盟で満足すべしと主張し、遂に東亜新秩序の第一段階として採用されるに至った。

 東亜の新秩序は、最終戦争に於て必勝を期するため、なるべく強度の統一が希望される。東亜諸民族の疑心暗鬼が除去されたならば、一日も速やかに少なくも東亜連邦に躍進して、東亜の総合的威力の増進を計らねばならぬ。更に各民族間の信頼が徹底したならば、東亜の最大能力を発揮するために諸国家は、みずから進んで国境を撤廃し、その完全な合同を熱望し、東亜大同国家の成立即ち大日本の東亜大拡大が実現せられることは疑いない。特に日本人が『よもの海みなはらから』『西ひがしむつみかわして栄ゆかん』との大御心のままに諸民族に対するならば、東亜連邦などを経由することなく、一挙に東亜大同国家の成立に飛躍するのではなかろうか。

 われらは、天皇を信仰し心から皇運を扶翼し奉るものは皆われらの同胞であり、全く平等で天皇に仕え奉るべきものと信ずる。東亜連盟の初期に於て、諸国家が未だ天皇をその盟主と仰ぎ奉るに至らない間は、独り日本のみが天皇を戴いているのであるから、日本国は連盟の中核的存在即ち指導国家とならなければならない。

 しかしそれは諸国家と平等に提携し、われらの徳と力により諸国家の自然推挙によるべきであり、紛争の最中に、みずから強権的にこれを主張するのは、皇道の精神に合しないことを強調する。日本の実力は東亜渚民族の認めるところである。日本が真に大御心を奉じ、謙譲にして東亜のために進んで最大の犠牲を払うならば、東亜・の諸国家から指導者と仰がれる日は、案外急速に来ることを疑わない。日露戦争当時、既にアジアの国々は日本を『アジアの盟主『と呼んだではないか。」

 これは、昭和16年頃、石原莞爾が、氏の「最終戦争論」に寄せられた質問に対する答としてまとめたものです。石原莞爾は、関東軍の北支分離政策や廬溝橋事件以降の日支戦争拡大に反対したということで、東京裁判に訴追されることから免れましたが、これを見ればわかる通り、彼の思想は、この時代の国体思想を軍事専門家の立場から正当化すると共に、それを文明論的宿命論として正当化したのです。

  こうした石原莞爾の言説が、思想家としての範囲に止まってくれればまだ良かったのですが、彼の本職は軍人であり、こうした考え方に基づいて、それまで感情のレベルに止まっていた日本の大陸政策を正当化しました。さらに、柳条湖での列車爆破という謀略事件を起こして満洲全土を軍事占領しました。これがその後の日本の国論を、それまでの自由主義的なものから国家主義的なものへと急転回させたのです。

 確かに彼は、その後、満洲の「軍事占領論者」から「協和制論者」へと転換しています。しかし、その主張は、満洲の地を実質的に軍政によって維持していかざるをえなかったという現実に照らせば、空想論に止まらざるを得ないものでした。というより、氏がその「最終戦争論」を保持する限り、その最終目的はアメリカとの戦争に勝つことだったわけで、そのためには、満洲のみならず華北の資源を抑える必要があったのです。

 その意味で、氏が参謀本部の要職に就いて後、関東軍の華北分離工作を止めさせようとした時、かっての部下が「私たちは石原さんが満州事変でやったことを手本としてやっているのです」と反論したというエピソードは、氏の理論の自家撞着を物語って余りあります。そして、氏はこの思想を、日米戦争が勃発した段階においても保持していたのですから、何をか言わんやです。

 福田和也氏などは、こうした石原莞爾の「高邁」な思想とその「壮大な試み」を讃えて「石原莞爾の昭和の夢」を語り、そのロマンティシズムを好意的に評価しています。また、こうした隠然たる王道思想は、今日もなお、左翼のみならず右翼にも共有されていて、その気分は、鳩山首相の「アジア共同体思想」にも流れ込んでいます。しかし、こうした思想の背後に、かっての「東洋王道文明vs西洋覇道文明」論が隠されていることを見逃すべきではありません。(『地ひらく』福田和也参照)

 以上の問題点を見事に解明したのが、イザヤベンダサンの『日本人と中国人』で、この本の末尾には次のようなことが書かれています。
 
 「東アジアに『盟主』といわれるものが存在したなら、それは中国であっても日本ではない。そして、明治四年以降は潜在していたこの『中朝事実』(山鹿素行の「日本こそ中国」という考え方=筆者)は、実にさまざまな形で、時々、歴史に顔を出し、中国革命の主観的な。援助者が、二・二六事件の理論的指導者(北一輝のこと=筆者)であったりする。

 だがその間の事情は何よりも、近衛公の日記に記されている中国大使(駐日支那公使の蔣作賓のこと=筆者)の言葉が示していよう。彼の言葉を要約すれば、『中国は他国である。日本は中国を他国と認識してくれればそれでよい』。そうすれば、『今ほど日本にとって、対中国外交がやりやすい時はない』と。この言葉は『外なる中国』の存在をはっきり認めよ、ということにほかならない。

 ところが当時の日本人は、もちろん近衛公も含めて、自らの『内なる中国』が、中国とは関係なき尊皇思想の帰結として自らの内にあるイメージであって、『外なる中国』とは別だということが理解できないのである。従って認識しようとすればするほど、『内なる中国』を絶対化し他国という意識がなくなって、現実の中国を排除してしまう結果になる。

 さらに世論となるとこれが徹底していて、『外なる中国』が、自分の『内なる中国』のイメージ通りに行動してくれないと、じれている子供のような態度になっている。従って二国間の取引というものが、何としても成立しない。これではトラウトマン斡旋案だけでなく、非公式にも、両者を斡旋しようとする者は、すべて失敗せざるを得ない。そしてその原因は常に日本側に存在し、そして本論のはじまでにのべた通り、『すべては始めた如くに終わった』わけである。だが『終わり』常に『始まり』なのである。」

 そして今日なお、対中関係において、この「終わり」と「始まり」が繰り返されているような気がします。どうしたら、こうした思想的呪縛を脱却することができるか。どうしたら、日本近現代史理解におけるこうした視点の大切さをうまく説明することができるか、頭をひねるこの頃です。