なぜ日本は中国と戦争をしたか3

2009年2月27日 (金)

 満州事変にこだわって記事を書いていますが、それは、私が、「昭和の悲劇」は日本がこの事件を外交的に処理できなかったためにもたらされた、と考えているからです。この問題を考える際のポイントは、この満州事変と「満州問題」とを区別するということです。確かに「満州問題」は存在しました。しかし、その解決策としての満州事変は決して必然ではなかった。それは多分に、日本の国内事情、一つは「軍縮問題に起因する軍人の国内政治に対する不満」や、第一次世界大戦以降世界の五大国の一つに列することになって以降の「日本人の慢心」と「中国蔑視の感情」にその主たる原因があった、と考えるからです。

 私は先に、「なぜ日本は大国アメリカと戦争をしたか2」で、幣原と陳友仁との間に「満州問題」処理についての確認書が交わされたことを紹介しました。さらに陳友仁は、満州事変が起こった後も、上海の須磨總領事を通じて幣原に書簡を送り、「満洲事変は實に残念だが、ただ一ついいことがある。いつかお話ししたハイ・コミッショナー制度が現実出来ることだ。張学良を追ひ出せば満洲は奇麗になるから、これを實現するにいい機会ではないか。日本はどうするつもりかお伺いしたい」と幣原に意見を求めてきたことも紹介しました。

 ここで、陳友仁の言うハイ・コミッショナー制度というのは、「満洲に対して支那が単に宗主権を持ち、そのノミナルな支那の承認の下に、日本が任命するハイ・コミッショナーによって満洲の施政を行う仕組み」のことです。この時は具体的な話には至っていませんが、そのポイントは、満州の対する中国の宗主権の承認を前提に、日本が任命するハイ・コミッショナー(=高等弁務官)による満州の施政を認める、ということです。満州事変で張学良が満州からいなくなれば、その実現が容易となり、これによって「満州問題」を解決できる、というのです。

 では幣原は、「満州問題」をどのようなものと考えていたかというと、これは前述の記事の中でも紹介しましたが、その時の確認書ではその第四項に次のように述べられていました。(これをみれば、幣原は「満州問題」に対して決して弱腰ではなかったことが判ります。)

 「四、満洲に関し日本は支那の主権を明白に承認し、同地方に對し、全然領土的に侵略の意図なきことを宣明す。然れども日本は満洲に於いて幾多の権益を有し居り、右権益は大部分條約により附与せられたるものにして、且何れも多年に亘る歴史の成果なり。南満洲鉄道は其の一例にして、同鉄道の経営及び運行は同鉄道の破滅を企図する如き支那側鉄道の敷設に依り阻害せらるべきものに非ず。

 一方日本は従来其の敷設に對し抗議し来れる支那側鉄道と雖、若し無益なる破滅的競争を防止すべき運賃及び連絡に関する取極にして成立するに於いては、之を既成事実として容認すべし。更に日本は満洲に於いて自國民が内地人たると朝鮮人たるとを問はず、安穏に居住して商、工、農の平和的職業に従事し得る如き状態の確立せんことを少く共道徳的に要求し得べきものとす。」

 では、なぜそのような要求がなしうるかというと、
「即ち第一に、満洲は日本國民の血と財との犠牲なかりせば今日露國の領土たるべかりしこと之にして、右は明治三十七八年の日露戦争に至る交渉の経緯に照せば明かなり。当時露國は満洲を露西亜帝國の一部として取扱ひ、日本が満洲に對し、何等の利害関係なきことを宣言すべきことを提議したる場合に於いてすら、在満日本領事に於いて露國の認可状を受くべきものなることを主張せる程なりき。

 第二に、日露戦争中、日本は支那を中立國とし叉満洲を概して中立地帯として認め、且其の取扱を為したる次第にして、戦争終結に当たり満洲は依然支那領土たるを喪はざりき。然れども若し当時、日本にして支那が露國の秘密同盟國たりし事実を知悉し居りたらんには、恐らくは満洲に對し別意の解決方法を講ぜられ居りしなるべく、右事情は日露開戦の場合支那は露國の同盟國たるべしとの秘密同盟條約の要領を暴露せる華府會議に於ける顧維鈞氏の陳述に依り明にせられたる次第なり。

 第三に、満洲は支那に於いて恐らく最も繁栄せる土地と認めらるる處、日本としては右は同地に於ける日本の企業及び投資に因るの大なることを主張し得るものなり。」

 幣原外相はこうした「満州問題」の処理についての基本認識をもとに、重光葵を代理公使としてこの問題の解決にあたらせました。重光は、田中外交の混乱を一掃して、北京関税会議以来の幣原外交を継続し、「まず関税問題を解決し、西原借款の債務問題に目鼻をつけ」「支那本土についてまず不平等条約の改訂を進め、これを機として日支関係の全般的改善を計り、その結果改善された空気の下に、困難なる満州問題を解決」しようとしました。実際、これによって日支関係は急速に改善し、国民政府とも良好な関係を樹立して、日支関係が軌道に乗るかに見えました。

 しかしながら、「日本は、折角立派な方針を立てながら、政府機関に統一がなく、軍部は干渉を恣にし、政党は外交の理解がなく、世論に健全な支持がないため、幣原外交はある限度以上に少しも前進しない。」「その間、英米と支那側の交渉は急速に進捗し、不平等条約改訂にも目鼻がついて来た。こうなれば支那が『夷を以て夷を制する』事は容易である。支那は・・・英米との交渉がここまで来て成立の域に達すれば、大勢はすでに支那の制するところで、躊躇する日本との交渉はもはや支那側において重要視する必要はなくなった。」(『昭和の動乱上』重光葵p51~53)

 こうした情況の中で、国民党の王正廷外交部長は、「すでに大勢は支那に有利であると観てか、支那の革命外交に関する彼自身の腹案を公表した。これによると、関税自主権及び海関の回収が第一期で、法権の回収が第二期で、租界や租借地の回収を第三期とし、内河及び沿岸航行権の回収、鉄道及びその他の利権の回収を第四期及び第五期としたものである。このいわゆる革命外交のプログラムなるものは、極めて短期に不平等条約を廃棄して、一切の利権回収を実現せんとするもので、列国との交渉が予定期間内に片がつかぬときは、支那は一方的に条約を廃棄して、これら利権の回収を断行するという趣旨であった。」

 さらに「王外交部長は、日本公使たる記者(=重光葵)の質問に答えて、新聞紙の発表は真相を伝えたものであることを肯定し、外国の利権回収はもちろん、満洲をも包含するものであって、旅大の租借権も満鉄の運営も、何れも皆公表の順序によって、支那側に回収する積りであると説明した。記者は、これでは、記者等の今日までの苦心は、或いは水泡に帰するかも知れぬと非常に憂慮した。この王外交部長の革命外交強行の腹案発表は、内外の世論を賑わし、甚だしく刺戟し、幣原外交の遂行に致命的の打撃を与うることとなった。」

 以上のように、日本と支那中央政府との交渉が緊迫した展開を見せる一方、満洲における張学良との関係は悪化の一途をたどっていました。「張作霖を嗣いだ学良は、感情上から云っても、到底日本に対して作霖のような妥協的態度を執ることが出来ず・・・その考え方は極端に排日的であった。彼は日本党と見られた楊宇霆を自ら射殺してその態度を明らかにし、国民党に加盟し、満洲の半独立の障壁を撤し、五色旗を降して国民党の青天白日旗を掲げ、公然排日方針を立て、日本の勢力を満洲より駆逐するため露骨な方策に出て来た。」((上掲書p54~55)

 そのため「日本は満洲において商租権を取得し、鉄道附属地以外においても、土地商租の権利があるが、日本人や多年定住している朝鮮人の土地商租は、支那官憲の圧迫によって、新たに取得することは愚か、既に得た権利すら維持困難な有様であった。満洲鉄道の回収運動も始まった。支那側は満鉄に対する平行線を自ら建設し、胡盧島の大規模の築港を外国(オランダ)の会社に委託して、日本の経営している鉄道及び大連の商港を無価値たらしめんと企図するに至った。これらの現象を目前に見ている関東軍は、その任務とする日本の権益及び日本人・朝鮮人の保護は、外交の力によっては到底不可能で、武力を使用する以外に途はないと感ずるようになった。」(同上p56)

 一方、「当時、日本人は、国家及び民族の将来に対して、非常に神経質になっていた。日本は一小島国として農耕地の狭小なるはもちろん、その他の鉱物資源も云うに足るものはない。日清戦争時代に三千万余を数えた人口は、その後三十年にして六千万に倍加し、年に百万近い人口増加がある。この莫大なる人口を如何にして養うかが、日本国策の基底を揺り動かす問題である。海外移民の不可能なる事情の下に、日本は朝鮮及び台湾を極度に開発し、更に満洲における経済活動によりこの問題を解決せんとし、また解決しつつあった。もとより、海外貿易はこの点で欠くべからざるものであったが、これは相手あってのことで、そう思うようには行かぬ。」

 というのは、当時「国際連盟は戦争を否認し、世界の現状を維持することを方針とし、これを裏付けするために各国の軍備の縮小を実現せんとした。しかし、人類生活の根本たる食糧問題を解決すべき経済問題については、単に自由主義を空論するのみで、世界は、欧州各国を中心として、事実上閉鎖経済に逆転してしまった。」特に、1929年の世界恐慌以降そうした傾向が顕著になりました。

 つまり、「自由主義の本場英国内においても、帝国主義的傾向に進む形勢であって(一九三二年にはオッタワ協定が結ばれた)、仏も蘭もその植民地帝国は、本国の利益のために外国に対してはますます閉鎖的となるのみであった。かくの如くして、第一次大戦後の極端なる国家主義時代における列国の政策は、全然貿易自由の原則とは相去ること遠きものとなった。国際連盟の趣旨とする経済自由の原則なぞは、全く忘れられていた。」

 このために日本は、増加する人口を養うための海外貿易の発展に依頼することができなくなり、特に、日本が密接な関係を有する支那との関係においては、「対支貿易は、支那の排日運動のために重大なる打撃を受け、且つ支那における紡績業を宗とする日本人の企業は、これがため非常なる妨害を受くるに至った。・・・支那本土においてのみならず、前記の通り、満洲においても、張学良の手によって甚だしく迫害せられる運命に置かれた。支那の革命外交は、王外交部長主唱の下に、全国的に機能を発揮するに至った。」

 このように、事態が急迫する中で、駐支公使であった重光葵は、「この形勢を深く憂慮し、日支関係の急速なる悪化を防止せんとし、支那本土に対する譲歩によって、満洲問題の解決を図り、もって日支の衝突を未然に防ぐことに全力を尽した。また他方、紛糾せる事態を国際連盟に説明して、日本の立場を明らかにすべきことを主張し、更に日本は速かに徹底したる包括的の対支政策の樹立を必要とする旨を、政府に強く進言した。」(上掲書p58)

 しかし、「浜口首相暗殺の後を継いだ若槻氏の内閣(一九三一年四月)は、当時すでに末期的様相を示し」ており、「記者が具体案の一部として進言した、蘇州・杭州の如き価値の少なき租界の如きは、速かにこれを支那に返還して、不平等条約に対する我が態度を明らかにすべしという主張すら、枢密院の賛同を得る自信なき故をもって却けられた。内閣の閣員中、記者の態度があまりに支那側に同情的なるがために、幣原外相を苦境に陥れることとなると、記者に指摘して注意を喚起したものもあった。

 日本における国粋主義は、すでに軍のみでなく、反対党及び枢密院まで行き渡っておった。ロンドン海軍条約の問題を繞って、軍の主張せる統帥権の確立は成功し、政府は辛うじて条約の批准には成功したが、すでに右傾勢力のために圧迫せられて、政治力は喪ってしまっておった。日本の政界は、未だに暗殺手段を弄する程度のものであった。しかのみならず、幣原外交は、外交上の正道を歩む誤りなきものであったことは疑う余地はなかったが、その弱点は、満洲問題のごとき日本の死活問題について、国民の納得する解決案を有たぬことであった。

 政府が国家の危局を目前にして、これを積極的に指導し解決するだけの勇気と能力とに欠けておったことは、悲劇の序幕であり、日本自由主義破綻の一大原因であった。かくして形勢は進展し、満洲問題は内外より急迫し、政治性のない政府はただ手を拱いて、形勢の推移を憂慮しながら傍観するのであった。」(同上)(*当時外務省アジア局第一課長であった守島伍郎は「幣原さんが余りハイカラ外交をやるものだから、こんなとんでもないことになってしまった」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p35)と慨嘆している。同様に、幣原外交のリアルポリティクスの欠如を指摘する意見は多い。私は必ずしもそうは思わないが。)

 だが、この時、幣原や重光が考えていた方策は「支那問題を中心として、我が国際危機はもはや迫っておる。若し人力の如何ともすべからざるものであったならば、せめてこの行き詰りを堅実なものとせねばならぬ。即ち、如何なる不測の変が現地において突発しても、日本政府は、国内的に国際的にも、確乎たる立場に立って処理し得るだけの準備をする必要がある。政府は、軍部は勿論、国内を統制して不軌を戒め、極力日支関係の悪化を避けつつ、警鐘を打ち鳴らして、世界をして我が公正なる態度を諒解せしむるため全力を挙げねばならぬ。

 支那の革命外交の全貌が明らかになった今日、而して日本政府のこれに対する対応策の欠如せる今日、日支関係は行き詰ることは明らかであり、すでに行き詰るとすれば、外交上の考慮としては、『堅実に行き詰る』ということを方針とするよりほかに途はない。堅実にということは、如何なる場合においても、外交上目本の地位が世界に納得せらるるようにして置くということである。」というものでした。(『昭和の動乱上』p60)

 この外務省の「満州問題を堅実に行き詰まらせる方針」は、同時期、南陸相のもとに満州問題解決のために、省、部中堅層会議において作成された「満州問題解決方策大綱の原案」(s31.6.19)に似ていると、守島伍郎は指摘しています。その要旨は「(A)満州における排日行動激化の結果軍事行動の必要性を予見し、(B)そのためには閣議を通じ、また外務省と連絡し、約一年間、国民及び列国に対してPRを行い、軍事発動の場合、これを是認せしむるよう努力する」というものでした。(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p46)

 しかし「満洲においては、万宝山の朝鮮人圧迫事件や、中村大尉暗殺事件のごとき危険を包蔵する事件が、次ぎ次ぎに起ってきた。張学良の日本に対する態度は、強硬で侮辱的であった。記者は、満洲における両国関係の悪化を根本的に救うために、当時南京政府の中枢人物であった宋子文財政部長と協議して、満洲における緊張の緩和方法を計った。

 宋子文と記者とは、当時親密なる連絡をもって、日支関係の改善に協力していたので、ともに満洲に到り、現地の調査を親しく行って、解決方法を見出そうと云うことに談じ合った。宋部長は途中北京に立ち寄り、同地に滞在中の張学良を説得して、日本に対する態度を改めしめ、更に大連において、満鉄総裁で前外務大臣であった内田康哉伯と吾等二人は、鼎座して満洲問題に関する基礎的解決案を作製することに意見がまとまった。

 記者はこの案に対し、政府の許可を得て、宋子文と同行、九月二十日上海より海路北行することに決定し、船室をも保留した、この考案は遂に間に合わなかった。満洲事変は、九月十八日奉天で突如として勃発した。記者は、これに屈せずなお折衝を続け、事変を局地化するために宋子文とともに満洲にいたって、事を処理してその目的を達せんとしたが、日本政府の訓令を待つ間に、事態は燎原の火の如く急速に拡大し、策の施しようもなく、支那は、事件を国際連盟に提訴して、かかる外交的措置を講ずるの余地なきに至らしめた。」(『昭和の動乱』p60~61)

 この時、重光葵が政府に宛てた満洲事変発生当時の電報の一節には、次のようなことが記されています。
一、今次軍部の行動は、所謂統帥権独立の観念に基づき、政府を無視してなせるもののごとく、折角築き上げ来れる対外的努力も、一朝にして破壊せらるるの感あり。国家将来を案じて悲痛の念を禁じ難し。この上は、一日も速かに軍部の独断を禁止し、国家の意志をして政府の一途に出でしむることとし、軍部方面の無責任にして不利益なる宣伝を差し止め、旗幟を鮮明にして、政府の指導を確立せられんことを切望に堪えず……。(国際法廷記録に依る)(上掲書p61)

 この突然の満州事変の勃発に直面した外務省の林総領事及び森島代理は、「事件の拡大を防止するために、身命を賭して奔走し、森島領事は、関東車の高級参謀板垣大佐を往訪して、事件は外交的に解決し得る見込みがあるから、軍部の行動を中止するようにと交渉したところ、その席にあった花谷少佐(桜会員)は、激昂して長剣を抜き、森島領事に対し、この上統帥権に干渉するにおいては、このままには置かぬと云って脅迫した。」(同上p64)

 しかしながら、「張作霖の爆殺者をも思うように処分し得なかった政府は、軍部に対して何等の力も持っていなかった。統帥権の独立が、政治的にすでに確認せられ、枢密院まで軍部を支持する空気が濃厚となって後は、軍部は政府よりすでに全く独立していたのである。而して、軍内部には下剋上が風をなし、関東車は軍中央部より事実独立せる有様であった。共産党に反対して立った国粋運動は、統帥権の独立、軍縮反対乃至国体明徴の主張より、国防国家の建設、国家の革新を叫ぶようになり、その間、現役及び予備役陸海軍人の運動は、政友会の一部党員と軍部との結合による政治運動と化してしまった。

 若槻内閣は、百方奔走して事件の拡大を防がんとしたが、日本軍はすでに政府の手中にはなかった。政府の政策には、結局軍も従うに至るものと考えた当局は迂闊であった。事実関東軍は、政府の意向を無視して、北はチチハル、ハルビンに入り、馬占山を追って黒龍江に達し、南は錦州にも進出して、遂に張学良軍を、満洲における最後の足溜りから駆逐することに成功した。関東軍は、若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫した。若槻内閣は、軍の越軌行動の費用を予算より支出するの外はなかった。

 関東軍特務機関の土肥原大佐は、板垣参謀等と協議して天津に至り、清朝の最後の幼帝溥儀を説得して満洲に来たらしめ、遂に彼を擁して、最初は執政となし、更に後に皇帝に推して、満洲国の建設を急いだ。若槻内閣の、満洲事変局地化方針の電訓を手にして、任国政府に繰返してなした在欧米の我が使臣の説明は、日本の真相を識らざる外国側には、軍事行動に対する煙幕的の虚偽の工作のごとくにすら見えた。」(同上p65)

 以上、満州事変当時外務省にあって「満州問題」の外交的処理に当たった重光葵の回想を中心に、満州事変前後の日支間の政治・経済状況を見てきました。注目すべきは、こうした情況の中で外務省の取った「満州問題を堅実に行き詰まらせる」という方針は、「あくまで日本は支那に対して、治外法権問題交渉で公正妥当な態度を維持する。これに対して革命中国が勝手なことを主張し、既存条約違反の行動に出るようなことになれば、世界世論は日本に対し有利になってくる。そうなれば日本は何らかの新規の方策に訴えることができる」(『昭和の動乱と守島伍郎の生涯』p47)というものだった、ということです。

 こうした政府外務省が押し進める、外交による「満州問題」解決策を根底から破壊し、軍中央のみならず政府の指示をも無視して、独断で満洲占領を強行したのは、関東軍の石原莞爾を中心とする一部将校達でした。彼らは、「若し日本政府が軍を支持せず、却ってその行動を阻碍する態度に出づるにおいては、日本より独立して自ら満洲を支配すると云って脅迫」しましたが、その真の目的は、「政党金権の害毒を一掃し、内外に対する諸政を刷新するためには、軍部によるクーデターを断行し、議会を解散し、軍部政権を打ち樹てる」ことにあり、満州事変はそのための革命前哨基地づくりでもあったのです。*山本七平はこうした事態を「日本軍人国が日本一般人国を占領した」と表現しています。

 つまり、彼らが満州事変を引き起こした真の理由は、実は国内政治に対する軍部の不満に端を発したもので、そうした軍部独裁をめざす彼らの政治的的野心を正当化するためにこそ「満州問題」は利用されたのです。そして、あたかも「満州問題」を解決するためには満州事変は不可避であったかのような宣伝がなされ、それは、日本の条約で認められた在満権益に対する不当な侵害に対抗する自衛措置である、と国民に説明されたのです。

 だが、その在満権益が日本にとってそれほど「巨大な比重」を持っていたかというと、それは甚だ疑問であると秦郁彦氏は次のように指摘しています。

 「張政権の平行線敷設による満鉄の経営悪化説には、多分に誇張があり、木村鋭一満鉄理事は「満鉄包囲線が原因ではない。不景気のためなり。世人は黄金時代の収入を基準に論ず。包囲線の方の減収はより大」と説明していた。つまり満鉄が不況の波をかぶって従来ほどの巨利を得られなくなったのは事実だが、競争相手の包囲線(平行線)の方が先に倒れそうだというプラス面が指摘されているのである。」

 また、「一般邦人の生業圧迫についても、本質は張政権の排日政策というより、張作霖爆殺を決行した河本大作大佐が指摘したように、日本人コロニストが生活水準の低い勤勉な中国本土からの移民に、経済競争で対抗できないところにあった。こうして見てくると、満州事変は多分に「満蒙の危機」という虚像の産物であり、武力発動を推進した一部の関東軍とコロニストたちは、政府・軍の中枢や世論を納得させる理由づけに苦心した。」

 「そもそもポーツマス条約で獲得した日本の在満権益は、伊藤博文の表現に従えば「遼東半島租借地と鉄道のほかには何物もない」のであった。ところが大陸進出論者のなかには日露戦争で流した血の犠牲を理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想があった。」

 「石原莞爾は『満蒙は漢民族の領土ではない。満蒙は元来、満州・蒙古人のもの」「我国情は殆ど行詰り、人口、糧食、その他の重要問題皆解決の途なく、唯一の途は満蒙開発の断行にあるは世論の認むる所」と書いたが、論理の飛躍が目につく。漢民族の領土でないことがなぜ日本の領土権主張につながるのか」(『昭和史を縦断する』所収、「試論・1930年代の日本」秦郁彦p17)

 この秦氏の疑問は、満州事変の「隠された真相」の一端を突いていると思います。つまり「一般に満州事変は中国ナショナリズムの権益回収運動と張政権の反目・侮日政策に直面した幣原外交が対応力を失い、行きづまりに乗じた軍部が多年の野望である満州占領を強行したものと説明されている。」だが、それが、「軍事行動による反撃が正当化できるほど」日本にとって死活の問題だったかというと、実はそれは多分に軍の宣伝によるもので、先に紹介したように、冷静に対応すれば国際世論の支持を失わない範囲での対応が可能だったのです。(十分外交交渉でも片のつく問題だったのです。を訂正3/7)

 では、なぜ彼らにとって「満洲領有」が必要だったかというと、当時の青年将校の間には「農村の窮乏と政党の腐敗を重視し、軍部の手による独裁政治によって国内の革命を断行する以外に、邦国救済の途はない」という思想が蔓延しており、こうした日本の政治革命を断行するためには、「満洲に事を起こし、満洲の全土を占領した上、この新天地に軍部の革新政治を断行し、これを日本内地に移植するのが彼らの狙い」だったのです。(『陰謀・暗殺・軍刀』森島守人p76)

 この意味で、満州事変とは、日露戦争以降日本陸軍の一般意志になったかに見える大陸進出論(日露戦争における血の代償とを理由に、満州に対する中国の主権を否認し、中国本土から切り離して日本の支配下に編入しようとする思想)と、国内政治の軍部独裁をめざす思想(金融恐慌や世界恐慌に端を発する経済的混乱や思想的混乱から自由主義思想が排撃され、それが国家社会主義という独裁思想を生み出した)とを結合させたものと見ることができます。

(二パラグラフは削除3/27)

 こう見てくれば、「昭和の動乱」の根底をなした二つの思想、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」がいずれも、国内問題であった、ということに気づきます。では、前者の主張がなぜ昭和に至って満洲の軍事占領という事態に発展したのかというと、実はその根底には、第一次大戦後の大正デモクラシー下の軍縮がもたらした「軍人に対する国民の軽侮」への、怨念ともいうべき「軍人の憤懣」があったのです。(こうした軍人に対する軽侮は、明治以降、富国強兵策がおし進められる中で、自らを特権階級とみなし国民の委託を無視して藩閥的利益の擁護に没頭した軍に対する国民の反感を示すものでもありました。)

 「軍人は至るところ道行く人びとの軽侮の的となり、軍服姿では電車に乗るのも肩身が狭いという状態であった。たとえば、拍車は電車の中で何か用があるかというような談話が軍人の乗客に聞こえよがしに行われる。長剣は一般の客に邪魔にされた。かような軍人軽視の風潮に対する軍部方面の反動はまた醜いものであった。軍隊には階級如何を問わず農村の子弟が多かった。農村は軍隊の背景をなしていた。その農村が、年の繁栄と腐敗のために疲弊枯渇して行き、軍閥の基礎を危うくすることは、軍の黙視する能わざる処である、という主張が台頭した。」(上掲書p18)* 山本七平は、実は「軍人はカスミを食って世の中を悲憤慷慨していたわけではなく、窮乏は彼ら自身にあった、と『私の中の日本軍』で指摘しています。

 つまり、こうした軍の当時の社会風潮に対する憤懣が背景にあって、すでに陸軍の一般意志ともなっていた満洲領有にその活路を求め、更にそこを前哨基地として国内政治革命を断行しようとしたのです。満洲は漢民族のものではなく満洲民族のものである。満洲民族は漢民族よりも日本民族に近い。その土地は人口希薄であり、匪賊の横行して政情定まらざる未開の地である。満洲の良民は塗炭の苦しみに呻吟している。彼らをこうした苦境より救うためには、日本民族がその利害を超えて満洲を領有し五族協和の善政を行い人びとを善導する外ない、という論理です。

 そして、こうした論理を思想的に補完したのが、いわゆる「大アジア主義」と呼ばれる、日中を「道義文明」として一体的に捉える思想だったのです。この思想がそもどういう思想的系譜より生まれたのかを解明したのが、山本七平の『現人神の創作者たち』でした。

 それは、徳川幕府の官学としての朱子学の採用(皇帝による中国型徳治政治の理想化)に始まり、山鹿素行の「中朝事実」(中国の理想化に対する反動としての「日本こそ中国だ」という意識)、水戸光圀の「大日本史」(日本史の中に、理想化された中国型皇帝である万世一系の天皇を発見、それが、天皇の正統性を絶対化した)、浅見絧斉の「靖献遺言」(天皇に対する忠誠を絶対とする個人倫理の確立)、さらに、それが幕府の存在の非正統とする観念を生みだし、尊皇倒幕から天皇を中心とする中央集権絶対主義をめざす明治維新に突入していった、というものです。(3/27修文)

 これが「皇国史観」が生まれた思想的系譜で、その一君万民的・徳治主義的・天皇親政的形態を理想とする政治イメージが、昭和になって、明治政府が採用し明治憲法に規定された西欧型立憲君主としての天皇の政治イメージと鋭く対立し後者を圧倒した(訂正3/27)。つまり、前者の政治イメージが「大アジア主義」の思想的母体となり、このイメージをもとに現実の中国を見たとき、その軍閥・匪賊が横行して政情定まらざる中国の現状が、日本人の中国文化に対する軽侮を生み、同時に自国文化に対する慢心を生むことになったのです。

 重ねて言いますが、この昭和動乱の根底をなした二つの思潮、陸軍の「大陸進出論」と「軍部独裁論」はそのいずれも、実は「満州問題」より惹起されたというより、むしろ以上述べたような「国内問題」に端を発していたのです。

 さて、こう見てくれば、戦後、「自衛隊」及び「自衛隊員」に対する侮蔑と人権無視に終始してきた、日本人の一般的思潮がどれほど危険なものであるかが判るでしょう。それと同時に、金権腐敗、党利党略、官僚専制等、国民の負託に答え得ない日本の民主政治の堕落が、日本人をして一君万民的全体主義に陥らしめる危険性を強く持っていることにも気づくと思います。

 昭和の動乱の根底には、あくまで国内問題としての日本人自身の以上のような思潮があった。そして、国民がそれを支持したことによって「昭和の悲劇」は生み出された、私はそう思っています。