伝忠山東勝寺

  東勝寺(とうしょうじ)  高針字北島にある。 伝忠山と号し、真宗大谷派に属する。

  東勝寺
高針城主加藤勘三郎の弟勘右衛門が、本願寺十一世顕如上人(諸国門徒の蜂起を以て、織田信長に対抗したが敗れ、1580年石山本願寺を退く)に帰依(きえ)して、天正三乙亥年(1575)、伝忠坊を移して開創したとされる。

現在の本堂は、化政年間(1804~1831/文化・文政の併称)、加藤浅吉が同寺と縁組みをして大檀那となり、再建したものという。

境内の梵鐘(ぼんしょう)は、本堂の建築よりやや遅れて天保年間(1831~1845)の鋳造で、水野太郎左衛門と彫られていた。

この旧梵鐘は、太平洋戦争中に供出されたので、現在のものとは違っている。




 「傳忠山東勝寺由来」の石碑          ※ 以下、書き写し。句読点および( )内は、執筆者による。

東勝寺由来の石碑高針城主加藤勘三郎藤原信祥(しんしょう)の弟加藤勘右ヱ門藤原信昵(しんでい)本願寺第十一世顕如(けんにょ)上人に帰依、薙髪(ちはつ/頭髪をそること)して祐伝(ゆうでん)と号す。

天正三乙亥年(1575)、天台宗伝忠坊をこの地へ移し、再興改号して伝忠山東照寺と称す。

是を中興の開山とす。三百八十八年前のことである。

祐伝、慶長十三(1608)戊申の年入寂す。

後、藩候の意により、照を勝に改む(「名古屋東照宮」が出来たことによる。

尾張藩初代藩主・徳川義直が、父徳川家康の三回忌である元和四年に大祭を行い、翌年、東照宮を勧請)。

現住職祐道(現住職の祖父)は、第十四世の後裔である。

因みに信昵の附人鈴木清蔵、発心(ほっしん)して祐伝の弟子となり、寺地に草庵を結び、木仏本尊を安置して清蔵坊と称し、当寺末寺となる。

慶安四辛卯年(1651)、清蔵坊三世英秀没後無住となり、本尊寺域共に当寺へお預けとなる。

この本尊、背面に清蔵坊開基栄宝高針の刻があり、当寺庫裡の内仏として安置してある。

本堂   天明七年(1787)十月再建    百七十六年前。

鐘楼   弘化三年(1846)十月建立    百十七年前。

梵鐘   昭和参拾三年十月再鋳      天保年間鋳造の梵鐘は、世界第二次大戦に国に供出。

山門   大正三年三月再建        聖人 六百五十回大遠忌記念。

玄関   昭和参拾七年十二月再建    聖人 七百回大遠忌記念。

      猪高村誌編纂委員  加藤岩松  考証撰文    住職 加藤祐道  校閲 

 (裏面)

維時(これのとき)  昭(異体字/和)参拾八年(1963)三月     聖人 七百回大遠忌厳修記念

寄進    高針 加藤岩松   同 加藤 弘



 太鼓堂

 東勝寺太鼓堂  太鼓堂内の太鼓

写真左の太鼓堂(浄土真宗特有のもの。歴史があり、ある程度の寺格を有する寺院にしか建立されていない)は、高社村時代に役場として使われた。

現在、雨戸が閉められていて暗いが、時を告げたり、法事の時の合図として使われたりした太鼓が残されている。




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