高針街道 足助を経て飯田に通ずる中馬街道の脇街道で、伊勢神宮・熱田神宮や信州善光寺参詣(さんけい)の道者(どうしゃ)道でもあった。 ※中馬(ちゅうま)とは、各宿場ごとに常備された伝馬(てんま)によって、積み替えて送られるという規制がなかった輸送方法。 丸栄堂菓子舗 「元祖高針ういろ」で有名。昭和7年頃、加藤栄造氏が創業した。 店の前に井戸を11メートル掘ったところ、低地の為、水が自噴したので、誰でも水を飲めるようにしていた。 2007年頃に廃業。写真左の「旧高針街道当初之図」は、2011年に廃棄され現存しない。 札木 高針の東西に通ずる本街道(中馬街道)から、古谷方面に至る分岐点に、通称「札木」と呼んでいる所がある。 藩政時代、千石以上の大村に、尾張藩から、土民百姓の守るべき掟を示された高札(明治18年、済松寺炎上により焼失)が建てられていた。 場所がこうした由緒をもち、部落の中心でもある関係上、氏神祭礼の協議をはじめ、大字の重要な相談は、ここを集会場と定め、島の代表者二名ずつ、島標識の提灯を以てこの場所に集まり、古式に則り威儀を正して協議した。 これを「札木寄合い」といって、昭和の初年まで続けられた。 写真右手前の建物は元理容店で、その東側に、昭和になって消防器具庫が建ち、その二階で話し合いが出来るようになった。 信濃馬の宿 高針字北島、加藤大三郎氏の住家(この家の前の持ち主が、石川沢助氏で、その為沢助宿と呼んだ)がそれで、高針街道に沿う北側にある。 明治43年まで家の前と東に茅葺(かやぶ)きの長い馬小屋があった。 ※明治45年には、信州まで汽車が開通し、中馬制度は完全に廃(すた)れた。 当時信州通いの駄馬は信濃馬と呼び、馬子一人で数頭を引き、長い隊列を組んで来たもので、明治27〜8年頃までは往復の途次(とじ)、この家を定宿とした。 いろは屋 明治34年、亜炭が発掘される様になると、加藤大三郎氏は「いろは屋」の屋号で宿屋を始めた。 1階が酒屋・八百屋で、2階が宿屋であった。この2階では、村芝居も行われたという。 「いろは屋(現酒屋)」には、「マル源」という団扇(うちわ)が現存している。 この団扇は、昭和15年、当時の店主・加藤源重(げんじゅう)氏が、宣伝の為に配ったもので、昭和45年、現「いろは屋」の建て替えに際し、保存してあった東勝寺から返却された。 トップページにもどる 高針村へ戻る |