高針城 東古谷(「保存樹ヤマモモ」から西方へ入る)にあった。 『尾張徇行記』に、 「高針城府志曰、土人曰、加藤勘三郎居之、今為陸田、其人亦亡伝、其城址畠七畝歩(210坪)」とある。 写真の畑になっている古谷の高台付近が、高針城址と思われる。 『猪高村誌(昭和34年版)』に、 「(高針城址は)今畑になっている古谷前の高台(東西四十間[72メートル]、南北三十五間[63メートル])が、それであると考えられる。 村人は今も城の藪とよんでおり、東部から東南にかけ、幅三間深さ二間程の空濠が竹叢(たけむら)となって残っている」とある。 ただし、「高針城の大きさ」に言及しているのは『猪高村誌』のみで、出所不明の数字(約1400坪になる)である。 この数字は、一見すると「城の大きさ」だと勘違いしてしまうが、単に「『猪高村誌(大正7年版)』作成当時の高台(城址)の広さを説明しただけ」と思われる。 トップページにもどる 高針村へ戻る |