大龍山済松寺


 大龍山済松寺(だいりゅうざんさいしょうじ)     高針小学校の南、字古谷にある。 臨済宗妙心寺派。

  ※ 以下の説明文は、済松寺(さいしょうじ)発行のパンフレットを参考にしている。


済松寺(さいしょうじ)山門創建の年代は未詳で、花園法皇が禅宗の布教を命じた頃、無名の憎が高針大字西山字原に創建したのが始まりといわれる。

その時の寺号は、「瑞松院(ずいしょういん)」と呼ばれていた。  

「尾州愛知郡覚書帳」によると、慶長13年(1608)の検地の時から尾張藩から年貢を免除されていた。

本寺、末寺制のしかれた江戸時代より、織田信長ゆかりの寺、名古屋市中区にある総見寺の末寺である。

瑞松院の寺号も宮家の寺と同じであるという理由で幕府から廃寺を申し渡され、享保3年(1718)秀禅和尚のとき「済松寺」と改めた。

済松寺は一時、無住寺となり、知多郡大府より鷹羽知観尼が来り住み、この時より尼僧寺となった。

明治13年にも失火したが、現在の本堂、庫裡は大正7年に再建された。

二度火災が起こり、建物は焼失したが、秘仏の「十一面観音像」は焼失を免れ、現在も本尊として安置されている。

天保14年(1843)完成の「尾張志」にも、「本堂に観音を安置す」と書かれており、今なお人々の尊崇を受けている。

文化年間の秘仏ご開帳の様子を描いた絵ご開帳は33年毎に行われ、昭和39年、平成9年とご開帳された(次は2030年春の予定)。

済松寺の済は人を済度する(世の人を救う事)という意味で、松は「とこしえに栄える」という願いがこめられている。

明治の初期頃まで両側に松が植えられ、立派な参道が山門から今の表通りまで続いていた。

昔は草相撲や盆踊りが催され、神楽の奉納もあり、近村からたくさんの人々が集まって来て、境内は大変にぎやかであった。

ところが、満州事変勃発の頃から、徐々に衰退し、盆踊りは牧野ヶ池の勝野祭へと舞台を移した。

前立十一面観音像歴代の庵主(あんじゅ/尼僧)は、村の娘を集め、和裁の指導をはじめとして、茶道、華道等子女の啓発に力を注いだ。

昭和7年、境内に農繁期託児所を設け、昭和27年4月から花園保育園を開設し専(もっぱ)ら幼童の保育に当たり、平成22年5月に本堂・書院の改築を行い現在に至っている。

毎年8月10日の4時より、盆施餓鬼の塔婆供養を行って檀信徒の先祖供養をし、12月8日には、お釈迦様が悟りをひらいた成道会、団信徒の健康を祈祷する薬師祭を行っている。

2005年頃に済松寺の住職となられた19世・文穎(ぶんえい)師によると、
「済松寺には檀家がなかったが、現在15軒の檀家がある。
高針は部落ごとに墓があるので、済松寺に墓地はない。
この(左の写真)前立(まえだち)十一面観音像は、2010年からのもので、秘仏の十一面観音像とは別物。
馬頭観音等は牧の原の西山説教所に移設した」とのこと。






 車留   済松寺裏庭にある。

「車留」の石標

文化四年(1807)、高針村庄屋・加藤太郎兵衛が、高針橋を架けた。

その時に現場で使われた「車止め」の石標であるが、済松寺裏庭に移設された。

側面を見ると、「文化三寅年」と読める。

























   トップページにもどる      高針村へ戻る