正暾山明徳寺(しょうとんざんみょうとくじ) 東一社(旧下社村)の陸前町(りくまえちょう)にある。 浄土真宗高田派。 門柱の「日」へんに「屯」という漢字は現在存在しないが、昔は「春(春の字を分解すると、屯と日/異体字)」という意味で使った。 『猪高村誌』(昭和34年発行)は、正しく印字した上で「しょうそん」とルビをふっている。 本堂に「正暾山」の真新しい掲額があり、昭和38年に鋳造された鐘楼の鐘(第二次大戦で供出されている)には、「正暾山」との銘が有るので、「暾」の略字とした方が理解しやすい。「暾」は「まるい朝日」という意味。 『尾張徇行記』には、「創建ノ年暦ハ不知、寛政四子年高針村高田宗蓮教寺ノ末寺トナル、今正飩山ト号ス」とあり、『尾張志』には、「下社村にありて正眺山といふ。高針村蓮教寺の末也。慶長元年申三月、僧浄泉創建す。本堂に阿弥陀仏を安置す」とある。 南朝の臣で奥平という人物が、当村に来て閑居した。その後、出家して天光と名のり、貴船社南西の明徳寺の旧地(「浄泉安立の墓塔」が建っている位置)に、明徳二年(1391)、明見寺を建立した。 明見寺は、住職だった浄泉が、慶長元年(1596)に明徳寺と改め、浄土真宗高田派に改宗した。 明徳寺の名前の由来は、「明徳(めいとく)年間に創建したから」と伝わるが、「みょうとく」の発音は、明見寺(妙見/みょうけん/北極星)からきていると思われる。 現在の明徳寺は、柴田勝家誕生の地と伝わる下社城址に建っている。 天正3年(1575)、柴田勝家は主君の織田信長によって、越前国北庄城主に任ぜられた。 これにより下社城は廃城となり、城跡は耕されて畑になっていたが、寛文二年(1662)、明徳寺が現在地に移転した。 山門建設は明治13年。階段を上った山門左手前に、「柴田勝家公誕生地」の石碑がある。 大正4年には、御大典記念として「下社城址」の標柱(写真右上端)が、山門右手前に建てられた。 柴田勝家 手植松 柴田勝家は、13才(異説あり)で初陣した。 出陣に際し一本の松を植え、「初陣に松一本(ひとほん)を手植えして 負けば墓地(はかち)のしるしとやせん」とストレートな歌を詠み、これを母に渡して出立した。 老松は庫裡の裏手にあったが、昭和34年の伊勢湾台風で倒れた。 倒れた松材は、庫裡の玄関内の装飾材、及び床材として使われた。2世松はない。 『なごやの名木』という、名古屋市農政緑地局が昭和59年に発行した本がある。 夢を壊すような話ではあるが、 「昭和30年頃の文献によると、根元回り6.10メートル、幹回り5.58メートル、樹高15メートル、枝張り南北13メートル、東西12メートルもあったという。 伝承によれば柴田勝家手植の松とされていたが、当時調査された植物学者故岡田善敏氏によると樹齢は300年程度で勝家の歿後100年位に植えたものではないかという」とある。 クロマツの寿命は一般的に200~300年程度。それを超えるとかなりの長寿で、数は少なくなる。 勝家の生誕年を1522年頃とすると、勝家が松を植えた年は1535~40年頃。 伊勢湾台風が1959年なので、手植松は420年以上の寿命になる。 「当時調査」というのは昭和30年頃と思われ、岡田氏は松の年輪を調べた訳ではないと思われるが、忘れ去られた植物学者の説も再考の余地がある。 本堂 本尊は、阿弥陀如来立像。 脇仏は開山浄泉と見真大師(けんしんだいし/親鸞のこと)とを安置する。 本堂の向かって右側に、寺宝の柴田勝家像(写真左)が安置され、左側に、「十字名号」と「九字名号」が掛けられている。 十字名号・・・「帰命尽十方無碍光如来(きみょうじんじっぽうむげこうにょらい)」 九字名号・・・「南無不可思議光如来(なむふかしぎこうにょらい)」 トップページにもどる 下社村に戻る |