開墾記念碑(「柴田與右衛門頌徳碑」) 貴船神社境内にある。 開墾記念碑は区画整理時に、貴船神社境内に移設された。 その前は、左図にあるように、現在の打越交差点付近にあった。 開墾記念碑は、柴田與右衛門氏の功績を称えたもので、「柴田氏頌徳碑(しょうとくひ)」といえる。 『猪高村誌』は「柴田勝家の子孫伝説」として、 「柴田勝家の家臣上村六左エ門の妻は、末森方の幼児を背にして、竹田の里を発し、愛知郡一色村又右エ門の生家に帰り、幼児が勝家の落胤なる事を秀吉方に隠す為、芝田与右エ門を名乗らせ、祖父の業をつがせて土着したという。 一色村芝田は栄えて分流し、当家は代々与右エ門、又右エ門を名乗っている。 西一社柴田家の嫡流(ちゃくりゅう/本家)柴田与右衛門は、戸長・氏子総代・寺総代を歴任し、開墾許可を得る為に尽瘁(じんすい)した。 大正12年12月12日歿。法名(ほうみょう)与外良駕居士と号し、神蔵寺に墓がある」と述べ、柴田與右衛門氏は「柴田勝家の末裔」としている。 また、『猪高のあゆみ』は、 「明治6年には、下社村の柴田直右衛門(なおえもん)に協力して、一色村の地を流れる高針川上流の向田(むかいだ)のあたりを工事し、後田下(うしろだしも)・下打越(しもうちこし)と下社村の陸前(りくまえ)に至る20万平方メートルにおよぶ灌漑用水路を完成した。 その当時は測量をなすに、深夜、提灯の光をもって高低を測り、多くの困難とたたかい、自費を投じてこの用水路を完成したと伝えられている」と柴田與右衛門氏の功績を述べている。 開墾記念碑碑文 (執筆者書き下し) ※句読点と( )内は執筆者による。 猪高村大字一社(いちやしろ/大字は旧村のこと)の里民は、古来より農を以(もっ)て業(なりわい)と為す。 然(しか)れども、戸口(ここう/戸数と人口)増殖、壌地(じょうち/子孫に譲る土地)甚(はなは)だ狭く耕地不足し、将来、憂い有るべくを慮(おもんぱか)る者なり。 村会議員柴田與右衛門翁は有見(見識が有ること)で、茲(ここ)において謂(いわ)く、「里の西方に官林が数千頃(けい/広さの単位/一頃は百畝)有る。 これを賜(たま)い、一辺(いっぺん)に開墾し、以てこの憂いを除く可(べき)なり」と。 因(より)て里民と謀(はか)りて、これを官に請(こ)う。 時に、明治四十五年七月なり。 この年の十月、将(まさ)に「之を許す」との内命があり、里民殆(ほとん)ど狂わんばかりに抃(手をたた)いて欣(よろこ)んだ。 先(さき)の是の七月、口今上(きんじょう/大正天皇/欠字)践祚(せんそ/即位)。 ゆえに記念事業として為さんと欲し、その下命(かめい)を竢(ま)つこと切なりしが、図(はか)らずも書見(しょけん/書類を見て)却下となり、願い聴きいれられず。 翁と里民は、失望し言葉を知らず。 ここに於いて、翁奮(ふる)いて曰(いわ)く、「これ吾(わが)信(信念)の未(いま)だ足(た)らざるなり」と。 躬(きゅう)で(背を曲げて)官を詣(もう)で、窮状(きゅうじょう)を詳悉(しょうしつ/甚だ詳しく)し復(ふたたび)請うが、翁報われず。 七十五歳の老躯を以て、不屈不撓、殆(ほと)んど寝食を忘れ、素志(そし/初志)貫徹を心に期し、或いは県庁、或いは林野局の吏(り/役人)を訪れ、前後十余回にわたり真情を披瀝(ひれき)し、百方(ひゃっぽう/あらゆる方面)に哀訴すると、吏は漸(ようや)く動くなり。 大正八年、遂に命下る。 実に七町(1町は3000坪)六段(たん/反/1反は300坪)四畝(せ/1畝は30坪)余なり。 翁と里民の喜び知るべし。 今や開墾幾(いくばく)か完成し、ここに於いて里民建碑(けんぴ)を相謀(あいはか)りて、翁の功労を勒(ろく/文章を石に刻むこと)し、これを千載(せんざい/千年)に伝えんと欲し、以て後昆(こうこん/子孫)にその徳を仰(あお)ぎ使(し)めるは、また是(これ)里民の報恩(ほうおん)の微志(びし/寸志)なり。 維時(これのとき) 大正九歳在(現在)庚申(かのえさる)三月吉辰(きっしん/吉日)建之 鈴木克明譔(せん/撰/文章)并(ならびに)書 (書き下し終わり) トップページにもどる 一色村に戻る |