一色城 現神蔵寺の東側にあった。 ※ 以下の文章は、『猪高のあゆみ』を参照した。 左の写真は、神蔵寺境内墓地にある一色城主柴田勝重の墓標と五輪塔である。 『尾張志』に、 「一色村の中島という地にあり。 旧址すべて陸田にて、四面に堀の跡なし。 此地を城山という也。 城主は柴田源六なりと里人はいへり。 府志に勘六と誤る」とある。 この一色城は、西の山(現神蔵寺)に背を向けて築かれていた。 このことから、この城は尾張守護職斯波(しば)氏の命により、柴田源六勝重が今川氏等、三河・遠江方面からの進出を防ぐために築城したものと推測され、天正十二年(1584)、長久手の合戦の際に、豊臣方の先鋒軍に焼き払われた。 一色城が建てられた当時は、この城のまわりを川が流れていたようだ。 川幅は広く水深もあり、城の天然の外堀の役割をはたしていたと思われる。 一色村村絵図を見ると、溜め池の後田上池や風越池からの農業用水が、一色城址を取り囲んで、まるで外堀の様に流れている。 左下図にある神蔵寺の位置は現在のもの。 最初の神蔵寺は一色城内(東側の「城山」)にあり、神蔵寺の現在地は山であった。 一色城は、写真右のマンション(「BRICK SHATO LIMDEN」)辺りにあった(区画整理で山が削られているので、今より高い位置)。 トップページにもどる 一色村に戻る |