「行啓紀念」碑



 「行啓紀念」碑    前山墓地(新宿2丁目/前山公園南)にある。

 「行啓紀念」碑(前山墓地) 碑文(裏面)        ※( )内は、執筆者による。

明治四十三年十一月、尾三の野(尾張と三河にまたがる地域)に於(い)て、第三第十五師団対抗演習に際し、(平出)皇太子殿下御見学の為め、同月八日、本村に行啓畏(かしこ)くも玆(ここ)に台臨(たいりん/皇族の臨席)親(したし)く戦況を御観覧あらせらる。

村民其光栄に感じ、永く之を伝(つたえ)んとし、行啓紀念の碑を建設す。

仍(より)て其事蹟(じせき)を叙する事爾(しかり)。 

       明治四十五年三月二十日      (碑文、終わり)



明治43年11月、第3・第15師団対抗演習が行われた際の11月8日、皇太子(後の大正天皇)が見学の為、高針村に行啓(ぎょうけい/皇太子などの外出のことで、天皇の場合は行幸)した。

村民はその光栄を思い、明治45年3月、「行啓紀念」と銘した記念碑を建設した。仙台石で、台石は花崗岩。

正確な建立場所は定かではないが、『猪高村誌』に、「南牧ノ池の碧淵を俯瞰し、四囲の展望開け、風光亦絶佳の地」とある。

区画整理によって、この「行啓紀念」碑は前山墓地奥に移設された。

この墓は元々、高針前山地区の「埋め墓」だった。

墓地入り口に「前山講中共同墓地」という石柱があり、「昭和四十八年三月」と彫られているので、この頃、「行啓祈念碑」が「牧野池南淵」から移設されたものと思われる。

なお、『猪高村誌(大正7年版)』の「御見返松」の項に、

「(御見返り松は)大字猪子石原字太田の塘(つつみ)上にあり、樹幹(じゅかん)巨大ならず。

明治44年10月18日
陸軍総合演習を御見学された皇太子殿下が本地ヶ原演習場より御還啓(かんけい/行啓先から帰ること)の砌(みぎり)、其の筋より此の松の下を殿下の御少憩(しょうけい/小休み)の所と定められた。

村民は、欣(よろこ)び挙(こぞ)りて塘上を修築し、清き真砂を敷き幔幕(まんまく)を張り誠意をこめて迎え奉りしに、俄に時雨の空模様となりし為、御少憩の事は御取消となりし。

殿下は馬上ゆたかに、此の名もなき野中の一本松の下にしつらえたる御少憩の所を見返られたことを記念し、かく此の松に名付けられたものなり(要約)」とある。




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