「弥陀の48願の内の第四願」についてここで考えてみたいと思います。親鸞聖人は仏の教えとは「仏説無量寿経(大無量寿経)」であるといわれました。さらに「大無量寿経というは四十八願を説きたまへる経なり」ともいわれました。つまりたくさんの尊いお経がありますが、阿弥陀如来の本願こそが、お経の全てということになります。厳密にいうと、弥陀の本願というのは、お釈迦様がお生まれになられるずっとずっと昔の事ですが、法蔵菩薩という方がおられました。この方が仏 如来様になられるために、何千何万年もの修行をされて、理想の国を建立したいと思われるのです。つまり法蔵菩薩がこういう国を造りたいという願いから、何万年もの修行をされて成就されたのが、極楽浄土という国です。ですからここの国王は、法蔵菩薩が印位されて阿弥陀如来となられましたので、阿弥陀如来となります。
その極楽浄土を建立するにあたり、48もの願いがあったのですが、いったいどういう願いだったのでしょうか。第1願から第48願まで、順番に紹介していきたいと思っています。ということで今回は第四願です。原文ですと、「設我得佛.國中人天.形色不同. 有好醜者.不取正覺」読み下し文にしますと、「たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、形色不同にて好醜あらば、正覚を取らじ。」となります。現代風に直しますと、「たとえ、私が仏となっても、私の国の人々の姿形が同じではなく、美しいとか醜いといった違いがあるようならば、私は仏にはなりません。」となります。
先日、親戚の家へ法事へ行きました。まず数日前から、気になるのが、髪の毛や服装等です。「何を着ていけばいいだろう。。。」 季節によって夏服や冬服、洋服が和服か。。。等々。。。 女性の方ですと、日々のお化粧も気を使っておられるでしょうし、人は大抵、周りの目を気にします。逆に、全く周りの目を気にしないで自由気ままな格好で町を歩くと、「この人病気なんではないか?」とか、まったく相手にされないか、どちらかだと思います。もし会社の面接に、一般的に清楚なイメージでない格好でのぞんだなら、どんな素晴らしい受け答えをしても、見た目だけで次のステップには行けないでしょう。それほど見た目は大事です。意外にも第一印象だけで、その人の全てを決めてしまっている事もよくあります。しかし、ずっと見た目を気にして生活していくには限度があります。しかも見た目の醜さや美しさは、年代や文化等によっても異なります。しかし人間の欲望は醜いよりは美しい方がいいと思うものです。 この第四願は別に「無有好醜の願」ともいわれます。極楽浄土に住む人は、着る服や見た目の美しさ、醜さといったものの区別がなく、そういったものに囚われず、もっと自由にのびのびと生活できると解釈できます。もっとも、もともとの梵語経典によれば極楽浄土では天人と人と区別がないという意味だそうです。この世界で、見た目の美しさ、醜さに縛られてきた者が、もし極楽浄土へ行っても、オシャレや化粧に気を使っていなければならないようであるなら、そこに美を求める執着や欲望、持つものと無いものの差が生まれ、本当の意味で美しい世界ではないと思います。こちらから美を求めずとも、己と美を放ち、内面に美しい輝きをもつことが、極楽浄土に住む人たちなのかもしれません。私たちも外面の美しさばかりに囚われず、内面の美しさを輝かせる生き方をしたいものですね。
熊原得也
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