「弥陀の48願の内の第二願」についてここで考えてみたいと思います。親鸞聖人は仏の教えとは「仏説無量寿経(大無量寿経)」であるといわれました。さらに「大無量寿経というは四十八願を説きたまへる経なり」ともいわれました。つまりたくさんの尊いお経がありますが、阿弥陀如来の本願こそが、お経の全てということになります。厳密にいうと、弥陀の本願というのは、お釈迦様がお生まれになられるずっとずっと昔の事ですが、法蔵菩薩という方がおられました。この方が仏 如来様になられるために、何千何万年もの修行をされて、理想の国を建立したいと思われるのです。つまり法蔵菩薩がこういう国を造りたいという願いから、何万年もの修行をされて成就されたのが、極楽浄土という国です。ですからここの国王は、法蔵菩薩が印位されて阿弥陀如来となられましたので、阿弥陀如来となります。
その極楽浄土を建立するにあたり、48もの願いがあったのですが、いったいどういう願いだったのでしょうか。第1願から第48願まで、順番に紹介していきたいと思っています。ということで今回は第二願です。原文ですと、「 設我得佛.國中人天.壽終之後.復更三惡道者.不取正覺.」となり、書き下し文ですと「 たとひわれ仏を得たらんに、国中の人・天、寿終りてののちに、また三悪道に更らば、正覚を取らじ。」となります。
現代風に直しますと「もしも私が仏とならせていただくのに、この国に住む人たちが命が終わる時に、ふたたび三悪道に帰るようなことがあれば、私は仏にはなりません。」となります。前回ここで紹介させていただいた第一願は別名「無三悪趣の願」といわれますが、この第二願は「不更悪趣の願」といわれます。願というのは、阿弥陀如来がお浄土という国を造られる時に、こんな国にしたいと願われた事をいいます。それは全部で四十八種類あります。その中の二番目が今回の第二願というわけですが、第一願で、地獄、餓鬼、畜生の三悪道を取り除き、そして第二願ではさらに、お浄土において無限の命を与えられるはずのお浄土の住人が、還相摂化の相となって再び、このわれわれの住む娑婆の世界へ還ってきたとしても、また確実にお浄土へ還って、地獄のよう世界には間違っても行きません。と願われています。つまり、一度お浄土に生まれたものは、二度と地獄のような世界にはおちることはないといわれるのです。私は、これはただ単にすむ世界だけの話とは思えないのです。それは、人間の内面には常に鬼のような心が住んでいるからです。愚痴をいったり、ちょっとしたことで文句を言ったり、クレームをつけたり、人間は自分にとって都合のいい事だけを善として、その他の都合の悪いものは全て悪としてしまいがちな所があると思います。あいだみつおさんの語録に「いいことはおかげさま 悪いことは身から出たさび」というのがありますが、なかなか自分のせいで悪くなったとは考えたくないものです。また逆に何でも自分のせいだと考えすぎると、メガティブな感じになり、社会生活も難しくなります。
第二願は、お浄土に住む人は、再び後何年かで無くなるという死の苦しみを、永遠の命をいただくことによって解き放たれながら、また人間界に仏のはたらきとして還ってきたとしても、確実にお浄土に還ってきて、再び迷いの世界におちることはないと、誓われるのです。この願によりお浄土で、死の苦しみとも再び迷いの苦しみに落ちることの無い、安穏とした美しい世界が広がっていることでしょう。
正善寺 熊原得也
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