7月30日10:30
切り立った低い岩山の縁に立つ。
真下には海。顔を上げても海。水平線と青い空、入道雲。絵に描いたみたいな夏の海の景色だ。
靴はこの岩山の前で脱いできた。足の裏が焼けそうなほどに熱い。
ここから飛び込む事よりも火傷の方が遥かに怖かったので、私は岩の端を思い切り蹴り、海へとダイブした。
腕を伸ばして身体は真っ直ぐに、水面との接触面積は出来るだけ少なく。潜る。着水成功。
あ、しょっぱい。ちょっと海水飲んじゃった。失敗。
水を蹴って水上に顔を出し、少し咳き込む。そしてもう一度潜った。
ああ綺麗だ。無人島というだけあって海が汚されている事もなく、透明度が高い。ずっと向こうまで色とりどりの熱帯魚が自由に泳いでいるのが見える。
…ついでに銛でも持ってくれば良かったかな。さっき見かけた平古場君が持っていたような気がする。借りられるかな。
って私、ここまで息抜きに来たってのに食事の心配? …病気だ。いや正常なのか。こんな場所ではまともな判断すら出来ない。
あまり深く潜らずに海面近くまで上がって、魚を見ないように泳ぐ。もういっそクロールにしよう。眼下にこんな綺麗な景色が広がっている海でクロールっていうのも勿体無い話だけど。
水面に身体を出す形になるので、誰かに見咎められるのも仕方のない事だった。しかも私は一人だったし、目立っただろう。
砂浜から、私を呼ぶ誰かの声が聴こえた。
泳ぐのをやめてそちらに視線を遣ると、氷帝のジャージを着た人が立っていた。顔は良く見えないが、雰囲気から察するに跡部だろう。もう一度呼ばれた。はっきりと届いた声はやはり跡部のものだった。
「今そっち行く!」
声をかけてから、陸の方へ泳いだ。
砂浜に近くなり余裕に立てる水位になったので歩いて向かうと、跡部の表情がみるみる怪訝なものに変わっていく。
私が目の前まで来ると、跡部はその顔のまま私の姿を上から下まで眺め、今度は表情を呆れ顔に変えた。
「そんなビキニなんぞ着てお前、ここにはギラギラの男子中学生しかいねぇって事、解かってんのか?」
「跡部も含めて?」
「フッ…ああ、そうだな…」
とか囁きながら、跡部はさりげなく私の腰に腕を回してきた。
私はすかさず跡部のその手をペシッと叩き落とす。
「――で、ギラギラの跡部クンは、私に何か用事があったんじゃなかったのかね?」
跡部は芝居がかった仕種で叩かれた手をヒラヒラと振ってみせ、ふぅと溜め息をつき自分の腰に当てた。
「まあ、少し頼みたい事があったのは事実だが、お前も自由時間を満喫しているようだしな。別に後でも――」
「いいよ。私に出来る事があるなら、すぐにでも着替えてくる」
「やけに殊勝だな」
「私はここではあんまり役に立たないからね。名指しで仕事を与えてもらえるのは嬉しいよ」
どうせちょっとだけ泳いですぐに手伝いに戻るつもりだったのだ。それにこの合宿で女の私が役に立てる事は本当に少ない。皆無と言っても過言ではないかもしれない。炊事洗濯ならば、と言うのは甘い。これだけの人数がいれば私よりずっと手際良くそれらをこなす人もいるのだ。これだけの人数がいれば、あらゆる不足を補える。
いくら普段マネージャーの仕事をしていて体力に多少自信があるとはいえ、ここでは足手纏いでしかない事は解かっている。本当はついてくるべきではなかったという事も。
――私はただ、彼の傍にいたかっただけだ。
私の言わんとするところが読めたのか、跡部は実に不愉快そうに顔を顰めた。
「サバイバル合宿だと解かっていながら女のお前を連れてきたのは俺だ。役に立たないなんて言うんじゃねえ。それを決めていいのは俺だけだ」
「あら優しい。行くか行かないかの選択権があったのにも拘らず、サバイバル合宿だって解かっていながらついてきたのは私なのに」
お互いを庇うような意味のない主張をして、私と跡部はしばし無言で見合った。
多分、どちらも曲がらない。
私が強がった笑みを保っていると、やがて跡部はフン、と言って話を打ち切った。うん、それでいい。
「じゃあ私、着替えてくる」
「…いや、今でなくてもいい」
岩山の前に置いてきた荷物を取りに行こうと泳いだ分だけ離れてしまった距離を歩き出すと、私に付いて歩きながら跡部がそう切り返した。
そう言いつつも私が着替えに戻るのは止めないんだ。私のしたいようにさせてくれてるんだろう。それが跡部の妥協しないっていう意志の表れなのかな。
私が仕事をしてもしなくても、ここにいるだけでいいんだと言ってくれてるような気がした。
「……ねえ、なら跡部も一緒に泳ぐ?」
跡部は息抜きをしてる?
私の誘いに跡部は少し目を見開いたけれど、緩やかに首を横に振って辞退した。
「俺は…いい。戻ったらまだやる事がある」
「それならやっぱり、私は手伝うよ」
仲間が頑張っているのにいつまでも遊んでなどいられない、そんな気持ちを込めて跡部の背中をバシッと叩いた。ちょっと力を入れ過ぎちゃって、跡部は「痛ェよ馬鹿力」とか睨んで文句を言ったけれど、口角は持ち上がっていたし、その目はひどく優しかった。何だかくすぐったかったけれど、それ以上に心地好くて、楽しくて、私はあははっと声を上げて笑った。
ここで男同士なら、肩を組んだり叩いたりしながら、訳もなく笑い合ったりするんだろうか。ちょっと憧れる。ていうかそれ以前に、跡部はそういうタイプじゃないな。してたら変だ。
「フッ…それにな、俺が海で泳ぎたいと思ったら、ここだけでなくどこの海にだって行けんだよ」
「その時は、是非私もお招きよろしく」
「二人きりでか?」
「まさか。皆で、だよ」
「じゃあ駄目だな。俺一人で行く」
「けち」
もちろん会話の上での冗談だというのは解かっているので、私は小さく笑う。
何だかんだ言って跡部は皆に優しいから、きっとハワイでもグアムでもモルジブでも連れて行ってくれる。
「でも跡部、ここでだってちゃんと自分の時間を執りなよ?」
「何だ、俺が心配か?」
「心配だよ」
茶化すような跡部の問いに、私は間髪入れず答えた。
――大事な我が部の部長だもの。大事な人だもの。
私は一言の返答に、そんな気持ちを乗せた。
跡部は聡い人だから、伝わっているでしょう?
「……ハァ。解かった解かった。でお前、俺を喜ばせてどうしようってんだ?」
「次の機会には一緒に泳ごうよ。つまり跡部がちゃんと息抜きをしてるかどうか見張らせろって事」
「それは二人きりで?」
「そうだね。その方がいいでしょ」
この合宿の秘密を共有している者だけでの方が本当の意味で休めるだろう、というつもりで私は言ったのに、何を勘違いしたのか跡部は腕を組んで「ほう」とご満悦気味に笑った。
おーい、そういう意味じゃないぞー。
ツっこむのも面倒臭かったので、私は跡部を置いて足早に荷物の元へ向かった。
ほとんど乾いてしまった身体をタオルで軽く拭き、足の砂を払って靴を履いた後に上着を羽織る。
追いついた跡部が私のその格好を見て複雑そうに顔を歪めた。
「…まさか、来る時もその格好だったんじゃねぇだろうな」
「そうだけど?」
「…誰かに話しかけられなかったか?」
「うん、千石君に。「これから作業がなかったら迷わずキミについていくのになぁ〜。うう、アンラッキー」って言ってた」
「今度からは下も穿いてこい馬鹿!」
千石君の真似をして聴かせたら(自分でも上手く出来たと思う)、突如、一喝を浴びせられた。何故私が怒られなきゃならないのか。
ええ〜めんど〜、という私の抗議はあっさり却下された。何を心配してるんだか。見られて減るモンでもないし、どうせ着替える為にまた脱がなきゃならないのになぁ。
「お前は! さっき俺が言った事を! 理解してねぇのか!? ここにはギラギラ男子中学生しかいねえっつっただろうが! アーン!?」
「はいはい跡部を含めてですね。解かったよ」
「俺との海水浴を求めるならな、お前も一つは俺の言う事を聞け!」
「解かったって言ってるのに…約束するったら」
「ならいいがな」
やっと納得してくれたのか、怒鳴り疲れたのか、跡部は盛大な溜め息をついた。そんなに目くじら立てる事ないのに。
「でも…約束だからね?」
私は水着の上にちゃんと服を着てくる、跡部は私と海水浴する――約束。約束だよ。
跡部はああ、と頷き、濡れた私の頭をぐしゃぐしゃっと撫で回した。
何すんのー、と私が頭を庇うと、跡部は珍しく声を上げてハハッと笑い、先立って合宿所の方へ歩き出した。私は髪を直しながらそれを追う。
振り返り、凪いだ海に目を戻した。
跡部とまたここに来る時も、こんな風に静かな海だといいな。
どうか跡部に安らぎを与えて下さいね、なんて、海の神様に祈ってみたりした。
END