7月29日14:00
いくら普段から二百人のドリンクやらの世話をしているとはいえ、皆がてんでバラバラの行動をしていれば人数が減っていようがそれを配るのも一苦労だ。
山と海、両側を回らなければならないし、冷やしておいた水が配っているうちに温くならないよう小分けして川と何往復もするし、とにかく暑い。
紫外線対策として日焼け止めを塗るのはもちろんの事、下はジャージ、上はタンクトップに薄手のパーカー(色は無論濃いめ)を羽織り、頭には鍔の広い麦わら帽子を被り、腰には色々と役立つアイテムを入れたウエストポーチ、そのベルトにはタオルを引っかけている。見た目を気にしなければ完璧な装備だ。
というかこんな無人島で見た目なんぞを気にするも何もない。誰も気にしないだろうし私もどうでもいい。ただ、ひたすら暑い。
配るのに夢中になって、うっかり自分の水分補給を忘れでもしたら、ぶっ倒れるのは確実だ。
こんな時、少しでも暑さに慣れている比嘉中の人達が羨ましくなったりもする。
いえ、皆条件は同じだし、仕事に文句はないですけど。
ああ…真昼は暑いなぁ。
水を三分の二ほど配り終え、次のグループの最初にと比嘉中三人が利用しているロッジに向かった。
三人ともいれば楽でいいなと思いながら歩いていると、見えてきたロッジの影に帽子を被った人の姿が見えた。あれは――甲斐君だ。こちらに背を向けた体勢で地面にあぐらをかいて座り、手を動かして何やら作業をしている。
大分近づいたけど、まだ私に気づく様子はない。
何だか面白くて、私はそろりそろりと忍び足で更に近づき、甲斐君の背後に立った。
「何してるのー?」
「おわあっ!」
元気良く後ろから声をかけると、甲斐君は座ったまま飛び上がった。
「な、何だアンタ、気配消して!」
「消してないよ、そもそも消せないし。甲斐君が作業に熱中してただけじゃない?」
気配でなく足音は消しましたけど、という事は黙っておいた。
どっちみち、沖縄武術で鍛えた彼がすぐ背後の気配に気づかないでいたというのは、あまり認めたくない話だろう。
「そ、そうかよ…」
甲斐君はほう…と安堵の溜め息をつき、取り落としかけたナイフを握り直した。
――ん? 何か違和感がする。
私は甲斐君の斜め後ろにしゃがみ、手元を覗き込んだ。
「……あれえ? 甲斐君て左利きなんだ?」
「えっ…――あっ!」
そっか、左手でナイフ持ってるから変な感じがしたんだ。がっくんを見る時と同じ感じ。
でも左利きのプレイヤーはどの学校にも大抵一人以上はいるしそれほど珍しくない。なのに、なぜか甲斐君の顔には、明らかに「しまった」と書いてあった。
「なに、知られたくなかった? 普段右利きのフリしてるの?」
「う…」
…解かりやすい。何て言うか、こう無防備だと嬉しいなぁ。やっぱり奇襲が効いたのかな。
「言わないよ」
「そんなわけないだろ」
「うん、だから、比嘉中が氷帝と当たるまでは誰にも言わないよ。当たらなければそれでいいでしょ?」
甲斐君の隠し玉がどれだけの力を秘めているのかは知らないけど、氷帝と試合にでもならなければ正直関係ない。興味がないと言えば嘘になるけどね。
甲斐君は私の言葉に納得したような事をモゴモゴと言った。
「あー、まあ、それは、助かるけど…」
「うん、言わない――はい、お水。川に入れてたから冷えてるよ」
「ん、サンキュー…」
小さいダンボールに詰めたボトルの一つを渡す。
それを受け取った甲斐君は、蓋を開けて水をゴクゴク飲み、また蓋を閉めて地面に置き、作業に戻ろうと手にナイフと竹を持った――状態で、止まった。
「…………」
「…………」
暫し沈黙が流れる。
何だろう、ここから竹をどうするのか思案中なのかな。
と思ってわくわくしながらじっと眺めていたら、手元を見下ろしたまま甲斐君が呟いた。
「……アンタ、いついなくなるんだ?」
「え。見てちゃいけない?」
「何か、気が散る」
あ、私がいなくなるのを待ってたんだ。
そっかそっか、昨夜「目障りだ」って言われたばかりだもんなぁ。
「いいからいいから。えーと、竹で何か作ってるの?」
「うるさいな。もうあっち行ってくれよ」
「…ごめん、黙ってるから見ててもいいでしょ? 何か生活に役立つ事なら見ておきたいの。ね、何か手伝いがあったら喜んでやるし」
彼の立場からして私を相手にするのが得策でないのは解かるので、素直に手を合わせてお願いする。これで木手君辺りに見咎められても、私が無理に頼んだのだという言い訳が立つ。
甲斐君は面倒臭そうに溜め息をつくと、私にポンと竹を投げ渡してきた。
「ナイフは持ってるか?」
「うん」
「なら俺のを真似して削れ。教えねぇぞ」
「うん」
ウエストポーチから万能ナイフを取り出し、さあ来いと竹に向かって構えると、横からナイフを掠め取られた。
そして淋しくなった手の中に、先程まで甲斐君が持っていた若干刃渡りの長いシースナイフを握らされる。
きょとんと甲斐君の方を見ると、私の万能ナイフを手の中でヒラヒラと揺らして彼は言った。
「こんな小さいナイフじゃ力入れらんねぇだろ。そっち使え」
「あ…ありがとう」
驚いた。
女扱いされるのは――実際女だから仕方ないんだけど、ここではあまり喜ばしくはない。役立たず宣告に近くてちょっと傷つくからだ。
それでも、こういう心遣いは嬉しい。甲斐君がこういう心遣いの出来る人だという事が、嬉しい。
それに結局、甲斐君は教えないと言いながら、私が「これはこうするのか」と質問すれば、「ああそうだ」とか「違うこうだ」とか、懇切丁寧に教えてくれた。いい子だ。
作業は楽しかった。適当な幅に裂いた竹を編み込んで、底を作って、曲げて、また編んで、揃えて切って、枠を作れば竹籠の完成。気がつけば私は材料を作る手伝いではなく、一つ籠を作ってしまっていた。しかし甲斐君が作った物より一回り小さい。
「それ持ってけ。ダンボールなんかで水運んでたら、そのうち底が破けちまうぜ」
「いいの? ありがとう!」
確かにダンボールだと、ボトルの汗で底が濡れて強度が落ちる。その分竹篭なら強度に関しても問題ないし、持ちやすいし、どんな用途にでも使える。倉庫にもいくつかあったけど、好きな時に使える自分用の籠を貰えるのは本当にありがたかった。
いそいそとダンボールから竹篭にボトルを移し変えていると、ぽつ、と手の甲に雫が落ちてきた。
顔を上げて空を仰ぐと、麦わら帽子にもぽつっと雫の音。いつの間にやら雲が空を覆っていた。
スコールだ、と思った途端、雨は勢いを増して降ってきた。
急いでボトルを全部移し変え、籠を持って立ち上がる。早く木陰に移動しなきゃ。
甲斐君は、と周りを見ると、自分のロッジのドアを開けてこちらを見下ろしていた。
「濡れるぞ、入れ」
「で、でも…」
雨だからといって自陣に敵を入れたくはないだろうに。さすがに私もそこら辺はわきまえている。
私が躊躇っていると、甲斐君はチッと舌打ちしてロッジの階段を下り、私の腕を掴んで引っ張った。
「いいから入れ! いくら後で乾くっつっても、濡れたら風邪引くぞ!」
「ちょっ、ちょっと…」
抵抗する暇もなくロッジに押し込められる。後から入った甲斐君がドアを閉めると、更に強くなった雨の音が聴こえた。
…うーん、結局入ってしまった。
籠を床に置いて麦わら帽子を外しながら、ちら、と甲斐君を見遣ると、一度引き返した所為で髪が濡れてしまったのか、帽子を外して犬みたいに頭を振っている。
何だか申し訳なくて、私は予備のタオルを差し出した。
「これで拭いて。未使用だから、汚くないし」
「…アンタは?」
「私は麦わら被ってたし、濡れた上着を脱げば大丈夫。甲斐君はノースリーブだから、腕も濡れちゃったでしょ。どうぞ」
「……どーも」
後から考えれば、ここは彼の利用しているロッジなんだから、タオルはいくらでもあったんだろうと思う。
けれど私が自分のものを差し出してしまったのは、彼がそれが受け取ってしまったのは、気まずさを紛らわす為だったのかもしれない。
私は上着を脱ぎながら窓の外を見て、今は何か洗濯物を干していただろうかと思い返した。誰かが自分で洗った物を干していなければ、私が最後に見た時は何もなかったはずだ。
スコールか、失念していた。短時間とはいえこれはなかなか難儀するかもしれない。
「――あ。ねえ、木手君と平古場君はすぐ戻る?」
「ん、ああ…そうだな、そろそろ一度戻ってくるかな」
「じゃあここに水二本置いていくね」
竹篭作りに小一時間ほどかけてしまって、水配りが滞ってしまった。会えばその場で渡すけど、ここで二人分消化出来れば助かる。
「早く止まないかな」
「そんなすぐには止まねぇだろ」
「じゃあちょっとお話してようか」
黙っていても雨は止むし、話す必要性はどこにもない。だからこんな提案、却下されると思ってた。
しかし意外な事に、甲斐君の方から話題を振ってくれた。
「あのさ…アンタって、もっと怖い奴かと思ってた。あの木手と互角に渡り合ってたし」
「怖いって…あのねえ、そりゃ相手にもよるの。あーんなケンカ腰じゃ、言い返したくもなるよ」
抗議しながら、昨夜のやり取りを思い出す。…確かに、傍から見たら怖いかも。
でも「思ってた」という事は、少しはそのイメージを払拭出来たのかな。
「私にしたら君達の方がずっと怖い。口では相手出来ても、力では到底敵わないからね」
「いくら俺達でも、女に手は出さねぇよ」
「男にも出さないでいれば尚良いんだけどね」
「そりゃ相手によるさー」
ま、そうでしょうね。言って聞くような人達じゃないし、そうだったら苦労しない。あーあ、山側のグループはまとまってるのになぁ。
とか思いつつも、海側もなかなか楽しかったりする。この混沌とした感じが逆にいい。
相容れる事はないけれど、比嘉中の人達も嫌いではない。嫌いだったら相手にしない。
やっぱりあれなのかな、昨夜感じたシンパシーの所為?
「あのね、話戻るんだけど…木手君てちょっと似てるんだよね、私と」
「あい? そーか?」
「うん、目的の為に必死なところ。そう感じたから、最後まであんなに言い合えた」
木手君は部長として、私はマネージャーとして。その役目を果たす為に、周りが見えなくなるほど必死で。
「木手君はきっと、比嘉中の皆を守る為に必死なんだよ。だからあんなに頑なになる」
全国大会初出場というプレッシャーも相まって、余計に誰も信用出来なくなってる。
ここに来てまだ二日目とはいえ、多分息抜きらしい息抜きもしてないんだろうな。
「…あ、私がこんな事言ったなんて木手君に言わないでね。あの人、絶対にいい顔しないだろうから。「知ったような口を利くな」とか言いそう」
「ハハッ、言うだろうな。そっか……似てると思うぜ、木手とアンタ」
おや無防備な笑顔。ずっとぶすっとしてたけど、そんな風に笑えるんじゃないの。
何だか嬉しくてこっちまで顔がほころぶ。
すると今度は、甲斐君の方が意外そうな顔をした。
「ん? 何?」
「いや…アンタ、そんな風に笑うんだな」
こっちが思った事を口にされて、少しドキッとする。
「え? 昨日も笑ってなかった?」
「昨日のは、悪人の笑いだったぜ」
「あは、そうだった? でも私も人間ですからね、楽しければ笑うよ。甲斐君も、さっき笑ったでしょう?」
「……楽しい?」
訝しむ甲斐君の向こうにある窓の外に青空が見えた。雨音ももうしない。
「――雨止んだね」
「あ、ああ…そうか」
「じゃあ私、行くね」
あまり長居すると二人が戻ってくるかもしれない。
私は麦わら帽子を被り、籠を持って、甲斐君と向かい合って立った。
「楽しかった。また話そう」
「あ…、俺――」
「ダメだよ、気を許しちゃ」
人差し指を一本、甲斐君の口の前に立て、顔を近づけて強く瞳を見据える。
いけないよ。他校の人間を信じないのが比嘉中のスタンスなら、貫かなきゃ。木手君と同じように貴方も仲間が大切なら、守らなきゃ。
ロッジの中に入れたからって私なんかにほだされて心を許したら、いけない。
呆然と立ち竦む甲斐君に、ニコッと笑顔を向けた。
「今度は沖縄の話、聴かせてね」
「…ど、どっちだよ。気を許すなとか、話そうとか」
「どっちも。それじゃね」
外に出て濡れた地面に降り立ち、小走りでその場を去った。
小さな窪みに出来た水溜まりを踏んでしまい、泥水がぴしゃりと跳ねる。
本当は、彼が遮られた言葉の続きを言いたかったのなら、聴いてもよかった。
でもそれが一時の迷いなら、どんなものであろうと口にした言葉は決して取り戻せないから。
迷いが消えるまで、忘れててあげる。
甲斐君の秘密も、一瞬見せた無防備な笑顔も、口にしかけた言葉も。
全部知っているけれど、全部、俄雨に隠してしまおう。
――私『も』、楽しかったよ。
END