お話し中失礼しますよ、と窓際一番後ろの席の知念クンに声をかける。
「すみませんが、英語の辞書を貸してもらえますか」
頷いた知念クンがロッカーの中から辞書を取り出すのを待つ僅かな間、椅子を後ろ向きにして彼と話をしていた女子は、という名だったろうかとわりかし最近の記憶を手繰った。普段彼女の名を聴くのは知念クンからではなく、専ら甲斐クンからだ。その意味は、本人が言わずとも理解出来る範囲のものだった。
恋心というのはテニスに悪い影響を及ぼさないだろうかと部長らしく考えてみたが、そこまで口出しするほど無粋ではないつもりだ。
しかし、彼女は甲斐クンと同じクラスであるにも拘わらず知念クンと話をしていたという事は、なかなか複雑な状況なのだろうか。いや、知念クンの方が席が近いからというだけかもしれないが、甲斐クンの性格からするとあまり良い顔はしないだろうと思う。
眼鏡を押し上げた拍子にこちらをぼんやりと見上げていた彼女と目が合ったので、それとなしに会釈すると、はいた〜い、とどことなく調子外れな挨拶が微笑付きで返ってきた。その緩い顔を見下ろしながら、この子のどこがいいのだろうかと更に思考が展開し始めたところで、知念クンに辞書を差し出される。
ありがとう、と礼を言って受け取り踵を返したが、数歩も歩かないうちに視線を感じて立ち止まる。
俺にではない。そう、それは自分の背後の知念クンとサンに向けられたもの。
その元を辿れば、見つけるのは至極簡単だった。彼等のちょうど対角に位置する、廊下側前方の席の甲斐クンからだ。
あれだけ念の籠った視線を送られていれば、普通に前を向いて彼女と話している知念クンは間違いなく気づいているだろう。難儀な事だ。
後ろの二人は俺が立ち止まった事には気を留めていないのか会話の続きを始めたようで、その内容が自然と耳に入ってくる。
――何て、馬鹿らしいんだ…!
敢えて気がつかれないように遠回りをして甲斐クンの席の前に立つ。コンコン、と机を軽くノックすると、甲斐クンはビクッと震えてようやくこちらを見た。
甲斐クンを見下ろす眼差しや声が自然冷ややかになるのが自分でも解かる。
「あの二人が気になるのなら、混ぜてもらえばいいでしょう」
そう簡潔に意見を述べると、甲斐クンは憐れなほどに動揺した。二人を見てなんかいないぞというような無駄な釈明をして、どうにか誤魔化そうとする態度にイラッとくる。
「それにほらっ、せっかく楽しそうに話してるのに、邪魔するのもよー…」
「話題に上っている人が来ても、邪魔にはならないと思いますがね」
悪口を言っているならともかく、と不必要だと知りつつも付け加える。案の定、甲斐クンは自分が話題に上っていると告げられた時点で目を見開き、機械のようにぎこちなく動きを止めた。後は聴いてなどいなかっただろう。
シッシッと追い遣るように手を振ると、甲斐クンは目の前をチラチラ掠める手の動きにハッとし、音を立てて立ち上がった。俺になどもう目もくれず、足をもつれさせながら窓際で会話に花を咲かせる二人に向かっていく。
それを見届けて俺は溜め息をつき、今度こそ居慣れない他所の教室を後にした。
先程耳に入った、甲斐クンの部活での様子を聴きたがる彼女の嬉々とした声。本人に訊けばいいだろうと即座に思ったが、単に客観的な目線から見た甲斐クンを知りたいだけなのかもしれない。彼女の方には、本人に隠れて詮索しているという後ろめたさも卑しさも感じられなかった。邪推するつもりもないので、友人への純粋な好奇心、という事にでもしておこうか。
だが彼女があんな声音で話の続きを促すものだから、甲斐クンを焚きつけてやろうという気になったのも事実で。
借りた辞書で肩をトントン叩きながら、つまらない事に首を突っ込んだな、と自分の気紛れに呆れてしまう。
全くもって、馬鹿馬鹿しい。
END
「はいたい」=「はいさい」の女性バージョン。語尾の「〜さい」は女性が使う時「〜たい」になるらしい。つまり「こんにちは」