――寝ている。
ここに来るまでガラガラだのスタスタだのそれなりに音が響いたはずなのに、瞼を開ける様子はない。熟睡と言っていい。
今日は部活が珍しく早く終わるから一緒に帰らないか、何か奢ってやる、とわざわざ餌までつけてを誘って、急いで教室に戻ってきたらこの光景があった。
は上手くバランスを取って器用に頭を窓にもたれさせ、くーくー寝息を立ててやがる。
まぁ、待ってるってのは案外ヒマだろうからな、眠くなるのも仕方ない。いや、「寝て待ってる」と言っていたような気も。
そう、仕方のないことだ――…が、無防備だ。放課後の中途半端な時間で教室にも廊下にも誰もいない、だからこそこんな場所でぐーすか寝てたら逆に危ないじゃねぇか。誰がやってくるとも知れないのに。
その『誰か』が良い奴ならいい。けど悪い奴だったら、どうすんだよ。
の前の席に後ろ向きに腰掛けて机に頬杖をつき、寝顔を眺める。まだ起きる気配はなく、同じリズムの呼吸を繰り返している。
夢でも見ているのか、瞼の内側がきょろっと動いて、口元がもぐもぐ動いた。その様子は何だか小動物を思わせる。夢の食べ物は美味しかったようで、は小さく笑んだ。
俺は帽子を外して髪を掻きむしった。ああ可愛いちきしょう。
くそ、始末におえねぇ。どうして『悪い奴』が俺だとすら考えないんだ、くぬふりむんは。
軽く腰を浮かせると、カタ…とイスが軋んだ。まだ、寝てる。
机に手をついて、身を乗り出す。当然、との距離は近づく。
ゆっくりと顔を寄せながら、「起きるな」という気持ちと「起きろ」という相反する気持ちが同時に生まれた。
起きるな。このままキスして知らん顔してやる。
起きろ。お前が止めてくれなかったら、俺はきっと。
心の迷いは行動にも表れて、近づく動作は鈍重になる。でも、辿り着くのはもうすぐだ。
睫毛の本数も数えられそうな距離になってから、こんなにに顔を近づけたのは初めてかもしれない、と思った。
妙な感慨が湧いてその位置で止まり、の顔のパーツ一つ一つを改めて見つめる。…可愛い。
最後に、これから触れようとしている唇に目を落としながら、あとは自分も目を閉じてチュッとやってしまおうと思ったところで、幸か不幸か、が目を覚ました。
「……ん、ゆーじろー?」
はちょっと眉を顰めて、至近距離の俺を不思議そうに眺めてくる。どうやらまだ夢うつつな状態のようだ。
俺は尻もちをつく勢いでイスにかけ直し、歪な笑みを浮かべた。やべ、緊張してる。
は窓から頭を起こし、伸びをしてから俺に向き直った。
「ねー裕次郎、今…」
「……ぬー?」
「あたしの顔に落書きしようとしてたさー。さんけーどー」
どっと力が抜けた。どうしてそんな結論に至ったのか知らないが、そう思っててくれるなら不名誉ではあるけど助かる。
あいひゃーバレたかー、なんて苦笑してみせて、手に持ったままだった帽子を目深に被った。今はあんまり顔を見られたくない。
おかしい。気づかれなくて良かった、と安堵してるのに、少しは気づいてほしいとも思ってるなんて、何て勝手なんだ俺は。
「うり、帰ろ帰ろ。なーに奢ってもらおっかなー」
机の横にかけてあったカバンを取って、横髪を耳にかけながらが立ち上がる。
ハッとして思わずを見上げると、チラッと見えたの耳が赤かった。まだ夕陽の出るような時間でもないし、見間違いじゃない、はず。
そういや俺、さっきどっちの手に帽子持ってた? 利き手の方じゃなかったか? そしたらペンなんて持てるわけがなくて――
俺が固まっていると、はずんずん机の間を掻い潜っていって、もうドアの前。
裕次郎早くー、と振り向いて俺を呼びつけるの顔も声も、いつもと何ら変わらない。
「はぁやぁ…バレてるやっさー…」
がくりと項垂れごく小さく呟く。敵わねぇ、すげーポーカーフェイス。耳見なかったらわかんなかったぞ。
が気づいてるのに何も言わないのは、未遂だったからだ。これで本当にキスしてたら、その瞬間にが起きても起きなくても、俺はきっと、後悔してた。ちゃんとの顔を見れなかった。だから、よかったんだ。
ホッと息をついて立ち上がり、テニスバッグを持っての元へ向かう。
「今日はしにあちさんどー。とりあえずアイス食おーぜアイス」
の頭をくしゃくしゃ掻き回し、いつも通りに振る舞う。それは全然苦痛じゃない。
は嬉しそうに緩く笑って、うん、と頷いた。
お前がこのままでいてくれるなら、俺は充分幸せだから。
勇気を出せるその日まで、この距離でいい。
END
「くぬふりむんは」=「この馬鹿は」
「さんけーどー」=「やめてよねー」
「うり」=「さあ・ほら」等の促す言葉
「しにあちさんどー」=「すごく暑いよなー」