7月30日14:00
「……うわあ」
思わず感嘆、いや驚嘆の声を上げてしまった。
ものすごいものを見てしまったと思い私は目を逸らすが、その場から逃げる前に呼び止められてしまった。
「やあさん。何が「うわあ」なんだい?」
恐る恐る声の主、佐伯君に向き直ると、ニコッ、サラッ、キラッとかいう擬音が今にも聴こえてきそうな笑顔で話しかけられてクラッと目眩がした。
私は彼――六角中の佐伯君がちょっとばかり苦手である。
私はへらっと愛想笑いを浮かべた。
「いえ…突然レモンとミントを一気に口に突っ込まれた挙句無理矢理咀嚼させられた感じがして」
「ハハ、すごい例えだね」
「うん…鼻から抜けるほどの爽やかさだよ、君達」
「俺達?」
偶然なのか、佐伯君の隣に立っていた長太郎君も一緒に視界に収めてしまって、後悔した。すごい破壊力。
……爽やか過ぎる。うちの爽やかっ子長太郎君も合わさってダブルパンチだ。直視出来ない。
でも私が苦手とするのは佐伯君だけであった。長太郎君は爽やかだけど、何より素直で可愛い。対して佐伯君は爽やか過ぎて掴み所がなくて、正直何考えてるんだか読めない。だから苦手だ。…興味はあるけど。
長太郎君が私の発言に少し困ったような顔をして曖昧に笑った。
「先輩、またそんな事言って…」
「「また」? さんによく言われるの?」
「はい…俺の顔を見る度に「やっ、今日も爽やかだね」って…」
こらこら、そういう告げ口はいけないな。ていうか、そんな頻繁に言ってないし。
ちょっとこら、そんな被害者みたいな顔しないでよ。長太郎君に責められると傷つくなぁ。
「爽やかを爽やかと言って何が悪い!」
「す、すいません…」
開き直りのように責め返すと、長太郎君は更にしゅんとして謝った。でも私は間違ってない。『爽やか』は褒め言葉だ。言われた方は返事に窮するだろうけど……と解かってる時点で私のは単なる嫌がらせかもしれない。
私と長太郎君のやり取りを見て、佐伯君が口元を押さえて噴き出した。
「アハハッ。さん、そんなに鳳をいじめちゃダメだよ」
「――……」
どうしよう、今の一言だけでも爽やか過ぎて鳥肌立って言葉を失ってしまった。他の人が言ったら何でもないセリフなのに、この人が言うと何でも爽やかに様変わるから恐ろしい。
ただ、あれよね。良く知りもしないのに一方的に苦手意識持つなんていけないよね。いけないよね?
苦しい自問自答の結果、私はまた愛想笑いを返して、こう切り出した。
「…ねえ佐伯君、確かこれから探索に行くんだよね?」
「うん、そうだけど。それがどうしたの?」
「私、ついて行ってもいいかな?」
「えっ…ここを離れるの珍しいね。でもいいよ、喜んで」
ニコッと微笑む佐伯君の顔から若干視線を外して、「ありがとう」と礼を言う。
さあ、試練の時間だ――って、自分でハードル上げてどうするんだろう私。
死地に赴く兵士のような心境で鳳君に手を振って別れて、探索へ向かう。
道なりに進んでいると、隣を歩く佐伯君が徐に口を開いた。
「……良かった。俺、さんに嫌われてるのかと思ってたよ」
「え、ど、どうして?」
ギクッ、と心臓が飛び跳ね、返す声がどもってしまった。
「だって、用事がある時でも何だかよそよそしくて目も合わせてくれないし、避けてるみいだった。最初は人見知りなのかとも思ったけど、他校の人とは普通に接してるみたいだからそれも違うんだろうし」
「そ、そう? それはその……ごめんなさい」
「謝らなくてもいいよ。こうして探索に付き合ってくれるって事は、少なくとも俺を嫌ってるってわけじゃないんだろうからね。それともただ単に、誰かに指示されただけとか?」
「ううん! …自分の意思です」
恐ろしい事に、だ。
でも、私が避けていた事で多少なりとも彼を傷つけてしまっていたのだとしたら、それは私の本意ではないし申し訳ないと思う。そして彼が私の所為で本当に傷ついてしまっていたのだとしたらそれは、何を考えているのか解からないと思っていた佐伯君の人間らしさであり、私が苦手意識を持つ理由も薄れる。
「そっか、良かった」
そう言って佐伯君が安堵したようにホッと笑うから、私もつられて口元を緩めてしまった。
それからの道中は、思ったよりもずっとリラックスして佐伯君との会話を楽しむ事が出来た。お互いの学校の事とか、夜はロッジで何をしているのかとか、そんな他愛もない事。
こんな風に彼の無駄な爽やかさを克服するまで、少し遠回りしてしまったかなと思う。いや、まだちょっと笑顔とか直視は出来ないんだけど。
会話の合間にまた佐伯君が爽やかに笑ったので、私は探索本来の目的を思い出したかのように明後日に目を向けた――と、何か小さな建物らしきものが視界に入る。
「ねえ佐伯君…あれって、灯台じゃない?」
そちらへ指を指して意見を求めると、佐伯君は軽く目を細めてそれを認めた後、頷いた。
「本当だ…岬の先だね。行ってみよう」
少し早足気味に岬へ向かって、発見した小さな灯台を二人で見上げる。大分古びていて、現在使われているような気配は全くない。
「無人灯台みたいだね。これ使えると思う? ていうか、開くかな?」
「どうだろう…でも、もし動かせたら救難信号の代わりにもなるよな」
佐伯君は灯台の扉に近づき、ノブを回した状態で押したり引いたりと前後に動かしてみるが、扉はその場を動こうとはせずにただガチャガチャと音を立てるだけだった。
やはりというか、鍵が掛かっているようだ。無理矢理扉を破って中に入ったとしても、多分ここに電気は通っていないだろうなと私は冷めた気分で思った。
昨日私が誰の探索にも付き合おうとしなかったのは、この空しい気持ちを味わいたくなかったからとも言える。そう、時々彼等との温度差を感じて無性に空しくなるのだ。そんな権利などないというのに。
「ダメだな、扉に鍵が掛かってて中には入れそうにもない」
佐伯君が振り返ってわざわざ私に報告してくれるのに、私はただぼんやりと佐伯君がいる辺りを見るともなしに見ていた。
「…さん? どうかしたの?」
「え……あっ、ううん、何でもない。開かなくて残念だね」
心配そうに顔を覗き込んでくる佐伯君に慌てて答えて、他には何かないかなという風に周辺を見回す。
そうしたらタイミング良く、海原に船影が見えた。
「佐伯君、あれ見て!」
「どれ?――あっ、船だ!」
かなり遠くで良くは見えないが、あれは間違いなく船だ。
佐伯君はパパッと自分のポケットを探りながら、私に訊ねてくる。
「キミ、ライター持ってきてる?」
「ううん。今ちょうど人に貸してて…」
私のウエストポーチの中身を頼りにしてくれたんだと思うけど、私は咄嗟に嘘をついた。本当はライターを二個持っているし、そもそも誰にも貸していない。すかさずこんな出任せを言える自分に軽く失望した。
目に見えてガッカリした佐伯君を見て、私は更に落ち込んだ。二重の失望って結構辛いな。
「そっか…煙で合図は無理か」
「手を振ってみようか?」
「そうだな、やるだけやってみよう。おーい!」
叫びながら大きく手を振る佐伯君に合わせて、私も麦わら帽子を持って手を振ってみる。
私が帽子を持っているのに気づいた佐伯君は、いきなり自分のユニフォームを脱ぎ出した。そして服の端を掴んで、ブンブンと振り回す。
「これで気づいてくれればいいんだけど…」
声は届かないと悟って、二人共ただひたすら手に持った物を振る。
――一生懸命な佐伯君を見ていたら、何だか無性に泣きたくなってきた。鼻の奥がツンとする。…ああ、だから私は佐伯君を避けていたのかもしれない、なんて思わされる。これが誰であろうと泣きたい気分なのはきっと同じなのに。
船が遠ざかっていく。微かに汽笛の音が聴こえたような気がした。
「…船、行っちゃった」
「くっ、ダメか…」
佐伯君は肩を落として、脱いだユニフォームをまた着込んだ。私も帽子を被り直す。
「灯台も使えそうにないし、そろそろ戻ろうか」
「うん、そうだね――っわ!」
私は返事をして、歩き出した佐伯君の後を追おうとしたら、一歩目にあった石に蹴躓いた。
見事に顔面から、なんて転び方をしないように膝と手を地面に突いたけれど、これはマズいかもしれない。
「大丈夫かい!?」
佐伯君がすぐに駆け寄って手を差し伸べてくれたので、私はそれに掴まって立ち上がった。
ズキッと足首に走る痛みに軽く顔を顰める。ああやっぱり。方向転換をした際に躓いたので足首を捻ってしまった。
あんまり世話をかけたくないから痛みに声を上げはしなかったけれど、咄嗟に表情は隠せなかったみたいだ。
「足、捻ったの?」
「う、ん…でも大丈夫。そんなに酷くないし、湿布持ってるし」
「ダメだよ。合宿所まで三十分以上は歩くんだから、無理したら悪化する」
佐伯君はその場にしゃがみ込み、負ぶさって、と背を向けた。
「い、いいっていいって! 歩けるから!」
私はウエストポーチから湿布を取り出してちゃちゃっと足首に貼り、ほらこれで充分ですよと主張する。あースースーして気持ちいいこと!
しかし佐伯君は恐ろしい切り札を出してきた。
「じゃあ無理矢理お姫様抱っこされたい?」
などと、本日最高の笑顔でそう言ったが、私はこれほど恐ろしい笑顔に出逢った事はないと思った。いや、似たようなのはあと二人ばかり知っているけど、そちらも無論得意ではない。
有無を言わせぬこの迫力、だから佐伯君は苦手だというのだ。
「いいえ! 普通におんぶでいいです失礼します!」
お姫様抱っこなんてされた日にはどうかしてしまう。私は先程よりもずっと必死に否定し、急いで佐伯君の背中に伸し掛かった。
私の足を抱えてすいっと立ち上がった佐伯君は、満足そうに言った。
「そうそう、最初から素直にこうすればいいんだよ」
「は、はあ…お手数かけます……ごめんね、重たいでしょう?」
「全然。軽いくらいだよ。ちゃんとご飯食べてる?」
「食べてるよ。皆頑張って食材を集めてくれるから、充分過ぎるくらい」
お決まりのような会話を交わしてから、合宿所までの道を背負われて進む。時々立ち止まっては、ずり落ちてきた私を抱え直しまた歩く佐伯君。
帰りは行きと違って会話も少なかった。ただでさえ私を負ぶって体力を消費しているのに、お喋りなんかで余計な疲労を与えたくはなかった。
ついて行ったはいいけれど、迷惑かけちゃったなあ。自分の不甲斐なさに苛ついて、佐伯君の首に回した腕をもう片方の手でぎゅっと握り締めた。
もう大分合宿所に近づいてきたので、私はいい加減下ろしてもらおうと口を開いたが、遮るように先に声を発したのは佐伯君だった。
「もうそろそろ、下ろしてもらおうとか思ってる?」
「っ…!」
何て鋭い。本当に油断ならない人だ。
私が言葉を失っていると、佐伯君はクスッと笑って立ち止まり、ゆっくりと私を地面に下ろした。
あまりに意外な行動に、私は呆然と立ち尽くす。一度はダメだと却下されるかと思ってたのに。
佐伯君は私を振り返り、淋しそうに笑った。
「…キミをこれ以上傷つけるわけにはいかないからね」
「私を、傷つける…?」
「キミは、自分の為には誰の手も煩わせたくない、誰にも迷惑をかけたくないって強く思ってる――違う?」
「……違わ、ない」
「だからこっちがいくら迷惑なんかじゃないって言っても、罪悪感を持ってしまう。無理に納得させたって、キミは傷つくんだ」
――目眩がした。涙で視界が歪む。
嫌だ、この人。どうして私のこんな自己満足を我が侭を尊重するの。汲み取ってくれるの。私の気持ちなんて、無視すればいいだけの事なのに。
「だから、おんぶはここまでだよ。どうか傷つかないで」
スッと目の前に差し出されたのは佐伯君の手。
私が不思議そうにそれを見つめていると、佐伯君は朗らかに言った。
「ここからは俺の手に掴まって歩けばいい。それなら何の負担にもならないよ」
「ありが、とう…」
恐る恐る佐伯君の手を取って、一歩を踏み出した。捻ってからずっと動かしていなかったお陰か、久々に自分の足で歩いても足首はほとんど痛くなかった。
ホッと息をついたが、佐伯君の一連の言動を思い返して一気に頬が熱くなる。
天然だ、この人。天然の王子様気質だ。何て恥ずかしい人なんだろう。何で私はこんな恥ずかしい人と手を繋いで歩いてるんだろう。本当に恥ずかしい。
出来れば合宿所の手前辺りでダッシュして逃げたい…!
でもその為には憂わしい要素があった。私は佐伯君に手を掴まれている。走り出そうとしても絶対すぐに捕まりそうだ。
それから私はずっと、どうやって佐伯君の拘束から離脱しようかそればかり考えていた。
ようやく合宿所の入り口が見えてきて、私がとった行動は結局、最初に考えたものだった。
佐伯君の手から指を離して、振り切るようにダッ!と駆け出す――が、やっぱりグイッと引き留められる。
「ダメだよ、走ったら」
ニコッと笑んだ佐伯君はやっぱり爽やかさ満点で、私はひどく頭が痛くなった。
END