7月31日20:00
――潮騒が聴こえる。
けれどこの視界一杯に広がるのは、満天の星、星、星。
雲一つない夜空に散りばめられた光の粒。
闇と光が美しく混在する、誰にも創り出せない至高の芸術品。
宝石箱をぶちまけたみたい、なんて表現もアリかな。
ああ…この空を山側の皆も、見てるかな。
仰向けになって砂浜に寝そべり星空を見上げていると、とりとめもない言葉が浮かんでは消えていく。
サバイバル生活も四日目で疲労が溜まっているとはいえ、まだ寝るには早い時間だったから、散歩がてらロッジから少し離れた海岸まで来てみた。そしたら、圧倒される程すごい一面の星空があって。
一度ロッジに戻って明日洗う予定のタオルを持ってきて頭の下に敷いたら、準備万端レッツ天体観測。てなわけでもう三十分以上この状態。
都会ではこんな星空、まずお目にかかれない。もちろん、こんなに透き通った綺麗な海も。あと数日で終わってしまうのが本当に勿体ないくらい。ずっとここにいてずっと見ていたい。
もし跡部にこんな事言ったら、「じゃあ一生ここにいろ」って身も蓋もなく一蹴されるか、「こんなの俺様がいつでも見させてやるよ」って宥められるんだろうけど。
まあ、ここにいる皆は早くちゃんとしたテニス練習をしたいだろうから、ずっとここにいたいだなんて無神経な事を口にするつもりはない。だから思うだけ。
それにしても、これだけひたすら星空を見上げていると、自分がどこにいるのか、ちゃんと身体は地面とくっついているのか不安になってくる。
空に落ちそう。
その恐怖から逃れるように瞼を閉じるとそこは、星の光じゃ届かない闇の世界。
柔らかい砂は私の形に浅く沈み、まるで、海へ還る為の舟だ。
優しい小波の音に思考を攫われ、微睡む。
連れていかれる。このまま眠ってしまったら。
――キュッ、キュッ。砂を踏み締める音が近づいてきて、私の思考は甦る。
睡魔に抗い、瞼を開いた。変わらず瞬く星が眩しく映る。
「…? なにしてんの?」
顔を横に動かして、私を眠りから引き上げてくれた来訪者を見遣る。
「……慈郎」
私の重そうな瞼を見て、慈郎はクスッと笑い、私に並んで腰掛けた。
私はまた顔を真上に向けて星を眺める。
「星がねー、あんまり綺麗でさー…」
「だからそんなカッコで眺めてたんだ?」
「慈郎もどう?」
「うん」
トサッ、と隣で慈郎が寝転ぶ音と気配がした。慈郎は私みたいに、髪の毛に砂がつく事とか気にしないんだろうな。後でちゃんと払ってあげよう。
「おーすっげー! キレイだなー!」
子供のように素直に感動する慈郎の声。その飾り気のない真っ直ぐな言葉一つで、私は改めてこの星空を美しいと思った。ただ単純に、美しいと思えた。
…うん、「すっげーキレイ」。どんな気取った表現よりも素晴らしい。
「宇宙にいるみたいだ」
「そうだねえ。もうずっとこうしてるけど、視界に星空しか映らないから、たった一人宇宙に投げ出されたみたい」
「視界に、星空しか映らない…?」
朗らかだった慈郎の声音が、強張ったものに変わった。怒るみたいな、怯えるみたいな。…縋る、みたいな。
その理由を確かめる前に、私の目に映る世界ががらりと変わる。
押し倒してるみたいに両手を私の顔の横についた、真剣な面持ちの慈郎しか見えなくなる。
パラ…と慈郎の髪の毛から砂が落ちてきたので、私は頭をぶるっと振って頬にかかったそれを振り払った。
「、だめ」
「ん、何が?」
「視界の隅っこにでも、俺を置いてくんなきゃ、だめ」
「えぇ? 難しいなあ」
「じゃあ、頭の隅っこでもいいよ」
「隅っこでいいの?」
「ほんとはやだ。でもずっと真ん中にいるなんて無理じゃん」
変なところで現実的な事を言う。確かに、一つのものをずっと視界の真ん中に収め続けるのは不可能に近い。一つのものを頭の真ん中に置き続けるのも、考える能力を持つ人間という動物をやっている限り無理だろう。
しかし彼は解かっているのだろうか。今この瞬間、私の視界には彼しか映っていない事を。そして連鎖的に彼を主体として思考が回り始めてしまっている事を。
そう、結局は――
「…大丈夫。私、慈郎で一杯だから」
慈郎という存在が、片隅どころか、奥底に深く根付いて離れやしない。
結構恥ずかしい私の答えを聴いても、慈郎はまだ不服そうにむうっと口を尖らせていた。何をそんなに焦れているのだろうか。
「……俺、のこと捜した。どこにもいないから」
「あら、それはごめん」
「誘ってくれればよかったのに」
「だって、慈郎はご飯食べた後はすぐ寝ちゃうと思ったから」
「に呼ばれれば起きるよ。…だから一人でいなくなんないで」
ああそっか。ようやく合点がいって、ぽむと手を打ち鳴らしたくなった。
心配、してくれていたんだ。それもそうだ、今現在、何が起こるか解からないサバイバル生活の真っ最中なのだから。それなのに私ときたら、誰にも告げず一人でフラフラとこんな場所まで来てのんべんだらりと寝っ転がって。警戒心がないにも程がある。
何だか自分の行動の馬鹿馬鹿しさに笑いたくなった。
「ごめん、ごめんね慈郎。次からは慈郎を呼ぶよ」
「うん、そうして」
「こんな綺麗な星空を独り占めしちゃうのも勿体ないよね」
とは言っても、今は慈郎に遮られてほとんど見えないんだけど。これは軽率な私へのお仕置きかね?
慈郎の機嫌は多少良くなったとは思うのに、退いてくれる様子は全くない。ただじっと私を見下ろしている。こちらも特に目を逸らす理由もないので、自然、見つめ合う形になる。
「……あ」
しばらくお互い黙ってそうしているとある事に突如気がついて、思わず声が出た。
この闇でも慈郎の表情を見て取れるという事は、それだけの明るさがあるという事で、その僅かな光を取り込んだ瞳には――
「星が見えるよ、慈郎」
ここに、と慈郎の瞼を指先でなぞる。長い睫毛が縁取る大きな瞳には、星のように煌めく光がある。
意地悪したって、私が満足するだけのものはちゃんと見えてるんだから。勝ち誇るようにフフンと笑ってみせる。
慈郎はくすぐったそうに肩を竦め、触れられた瞼を細めながら私の笑みを見ると、ニコッと笑い返してきた。
…おや? ちょっと含みがありませんかその笑顔? 何か、そっちがその気なら、みたいな?
「…だめだよ、見せない」
ちゃんと反省しろという事らしい。
ベガとアルタイルのような一対の星が、流れ星ならぬ隕石の如く真っ直ぐ降ってくる。
これだけ近いと、どちらから迫っているのか、どちらへと向かっているのか、解からなく、なる。
この先に待つものは墜落か、衝突か、あるいは無重力に似た浮遊感か。
これまで抱いた事のない種類の期待を感じ、私は星との接触に備えて目を閉じた。
END