論集『人びとの社会主義(1)』を読む
 
 
     一
 
 ある意味では分かりやすく、読みやすい本だが、ある意味では分かりにくい――ないし論評しにくい――本でもある。
 分かりやすく、読みやすいのにはいくつかの理由がある。本書は、個々の部分では専門研究の成果に立脚して書かれているとはいえ、全体としては概説書風のスタイルで書かれており、純然たる専門研究書に比べれば、予備知識無しで読める度合いが高い。また、論争的な個所をある程度含むとはいえ、鬼面人を驚かすような特異な主張を提起しているわけではなく、むしろどちらかといえば穏当な印象を与える叙述が基調をなしている。そうである以上、本書が読みやすく、分かりやすいのは当たり前である。
 それでいながら、分かりにくい――ないし論評しにくい――というのは、本書の性格の見定めがたさによる。上に述べたような性格を重視するなら、本書は教科書とか入門書という体裁をとってもよかったかもしれない。だが、実際には、本書はそのようなものとして意義づけられているわけではなく、むしろ何らかの独特の主張をしようとしているかに見える。それでいて、その独特な主張の中味はそれほど明確に提示されてはおらず、はっきりとは読み取れない。本書を相手取って議論をしようとする際に躓いてしまうのは、何よりもこの点である。
 本書は「戦後派第一世代の歴史研究者は21世紀に何をなすべきか」という長い名称の研究会の編集になるものであり、「21世紀歴史学の創造」と銘打たれたシリーズの第五巻をなしている。他の巻を読んだわけではないが、こうした研究会およびシリーズの名称からは、他の歴史家たちにはない独特の主張ないし問題提起をしようという抱負が窺える。「全巻の序」なる文章が各巻共通に配置されているのも、そのことを物語るだろう。しかし、この序はごく短いものであり、その抱負が詳しい内実をもって提示されているわけではない。
 「戦後派第一世代」という言葉は、「戦前派」「戦中派」や「戦後派第二・第三世代」と対置される意味をもつかのように見える。しかし、この序で提示されている歴史認識は、世代差と強く結びついたもののようには思われない。そこでは、社会主義圏崩壊後に強まったアメリカ単独覇権主義とその行き詰まり、日本における偏狭なナショナリズムの台頭、人間の平等と「市民的自由」を尊重する「戦後的教養」の弱体化、「三・一一」後に広まった「科学主義」への懐疑、マルクス主義のみならず「市民主義」的な世界史認識の大枠さえもの動揺といった事象が、詳しい説明を施されることなく羅列されている。これらのそれぞれをどのように解釈するかはさておき、これらが重要かつ深刻な問題を提起しているという程度のことであれば、世代に関わりなく、ほとんど誰もが異を唱えない常識だろう。常識を確認するのが悪いわけではない。見失われやすい常識を敢えて再確認するのは大切なことだと私も思う。しかし、それが「戦後派第一世代」特有のものかといえば、首をかしげざるを得ない。
 このようなことにこだわるのは、私自身が「戦後派第一世代」に属するからかもしれない。同世代の人々というものは、ほぼ同じ年齢の時に同じ出来事にぶつかったという意味での共通性をもつが、その反面、同じ出来事にぶつかっても、それにどのように関わったかは個々に異なる。つまり、同世代であるがゆえの共通性と、同世代だからといってひとしなみに見ることはできないという意味での個別性とがある。そうした共通性と個別性の双方に目を配りながら様々な世代集団(コホート)について考えることは、「現代と歴史の対話」としての歴史学にとっても重要な意味をもつ(2)。ところが、この研究会の名称はそうした問題に触れるかのようでいながら、全巻の序はその点を突っ込んで論じてはいない。本書の著者たちと私とは、ほぼ同世代であるがゆえの共通性をもつことは確かであり、ある意味では私も彼らと同じグループに括られてもおかしくない。もしこの序が「われわれは、わが世代の特徴をこれこれこういうところに見出す」と明示していたなら、私はそれに対して、「その通り。そして私もその一員だ」とか、「いや、そんな特徴で括られてはたまらない。私はほぼ同世代でもあなたたちと同じではない」とか、何らかの反応を示すことができる。ところが、そうした説明がないために、私は一体どういう反応をしてよいのか戸惑うほかない。本書が分かりにくい――ないし論評しにくい――のは、まさにこうした事情による。
 シリーズ全体の狙いがつかみにくいだけでなく、本巻のタイトルである「人びとの社会主義」という言葉も、独自の問題提起をしようという意図をもつかに見えるにもかかわらず、その意味が明示的に説明されてはおらず、隔靴掻痒の感をいだかせる。この点については後で立ち返ることにしよう。
 
     二
 
 全巻への序はこのくらいにして、本文に入ることにしよう。その冒頭におかれている総論「世界史の中の社会主義」(南塚と古田の共同執筆)は、比較的短い文章である。ばらばらの個別論文集ならともかく、全体として独自の問題提起をしようという書物であるなら、総論はもっと詳しくてもよかったのではないだろうか。「人びとの社会主義」というタイトルの説明もなされてはおらず、読者はそこに込められた意図をただ推測することしかできない(その推測については、全体を一通り見た後の末尾で述べることにする)。
 この総論は多数にのぼる国々の長期にわたる歴史を短い文章で論じており、そのため、概説的な性格が濃いものになっている。そして、ごく大まかにいえば、この概説は比較的常識的かつ穏当なものであって、殊更に異を唱える必要を感じさせるところはあまりない。だが、まさにそうであることが、独自な問題提起を狙っているらしい書物の総論としてはふさわしくなく、「この程度のことであれば当たり前ではないか」という印象を呼び起こしてしまう。
 この総論の一つの特徴として、「再考」とか「再検討」といった言葉が頻出する点がある。そのこと自体には異論がない。それどころか、大賛成である。だが、ここで「再考」「再検討」の対象として挙げられている様々な論点は、何も最近になって急にその必要が指摘されだしたものではなく、何十年も前からその作業が積み重ねられてきたはずであり、ソ連という国がなくなってはじめて自由な再考が可能になったかの認識は、研究史理解として正確でない。本巻のはしがきには、「社会主義とは何だったのか、また、何であるのか。これは一九八九‐九〇年にソ連・東欧の「社会主義体制」が崩壊した今や、歴史的に議論しやすくなったテーマである」とあるが(vii頁)、こういう文章を読むと、「あなた方は一九八九年以前にはそうした問題意識を欠いていたのですか」と問いたくなってしまう(3)。総論にはあまり詳しい言明はないが、「現在必要であり、また可能になっている」とか「今日改めて……考えることができるようになったのではないか」といった文章(三、二五頁)があり、同様の感慨を引き起こさせる。
 「再考」「再検討」が最近になって急に始まったわけではないということを思い起こすなら、これこれの問題について、これまでこのような形で再検討が行なわれてきたが、そこにはどのような意義と限界がある、自分たちはその限界をこのようにして超えようと考える、といったタイプの議論――いわば「再検討の再検討」――が必要になる。その作業が完全に欠けているというわけではなく、研究史への言及は量的にはかなりの比重を占めている。だが、いま述べたような意味での内容的検討は乏しいというのが率直な印象である(4)。そのことは、この総論を全体として薄手のものにしてしまっているように思われてならない。
 
     三
 
 各論に入る。
 第一部の加納格「ロシアの社会主義」は、帝政ロシアの歴史とソ連史とを一貫してみようとした作品である。後続の三論文が主題と時期を限定した個別論文となっているのに比べて、この加納論文は本書の中で最も広い主題と長い時期を扱っており、分量的にも本書中で最も長い。こうした文章を書くのは個別専門研究とは違った独自の困難性があり、一種の冒険とも言える。
 帝政期とソ連期をつなげてみようという観点には私自身も共感する。ただ、そうした問題意識が最近になって急に現われたかの説明(三〇‐三一頁)には疑問が残る。もちろん個々人ごとの差異があるから一概には言えないが、少なくとも和田春樹のもとで研究生活を始め、ソ連史を専攻した人たちは、その初発から――つまりペレストロイカもソ連解体も全く予想されていない時期から――そうした問題意識をいだいていたはずである。一九八九年とか九一年とかに突然全てが始まったかの言説は非専門家の間で広く流布されているものだが、歴史家がそれに追随するべきではないだろう。
 それはともかく、加納論文は三つの章からなっている。このうち帝政期を扱った第一章は、加納の専門性が生かされており、安心して読める。ソ連期を扱った第二章と第三章はこれよりは薄手であり、基本的に他の研究者の業績に依拠しているが、要点を外してはおらず、手際のよい概説になっている。個々の細部についてあれこれの疑問もあるが、重箱の隅をつつくような批評をここでしてもあまり意味はないだろう。より大きな観点に関わる感想もなくはないが、それは他の論文を含めた本書全体の特徴に関わるので、後でまとめて論じることにしよう。
 
 第二部の奧村哲「毛沢東主義の意識構造と冷戦」は、一九五〇年代から六〇年代半ばまで、つまり文化大革命へ至る時期の中国を対象としている。主題としては、経済政策を中軸に、対米・対ソ関係を背景におきながら党内事情を分析した作品であり、資料としては薄一波の回想が特に重視されている。
 私自身があまり通じていない主題を扱った論文であるので、具体的内容について立ち入った論評をすることはできないが、読後感として、指導部の「誤り」の指摘が多いという印象をいだいた。といっても、その「誤り」は毛沢東個人だけのものではなく、他の指導者たちにも共有された集団的なものだという指摘が一つの特徴であるように見える。また、対外緊張――この時期には既にソ連との論争も始まっていたとはいえ、まだ対米関係の方が大きかったとされる――が重要視されているのも、もう一つの特徴である。これは、「誤り」が単純に主観的なものではなく、ある種の客観的背景をもっていたという認識を意味するかのように見える。このような見方は――私の読み取りがあまり的を外していないとしての話だが――一応の説得力を持っているように思える。その上で気になるのは、末尾にある次の文章である。
 「このように見るならば、毛沢東や中国を動かしていたのは、社会主義の理想などではなく、戦争と戦争の危機であったといえよう」(二一八頁)。
 この文章は一体何を言いたいのだろうか。社会主義に限らず、およそ何らかの社会運動というものは、外界から切り離された無菌の実験室で行なわれるものでない以上、それが外部との緊張とか内部の夾雑物とかなしで存在することはあり得ない。としたら、対外緊張とかそれに迫られた緊急措置といったものと「本来の理想」とを切り離して考えるのは、およそ非現実的な条件下での理想実現を想定することにつながるのではないか。中国に限らず多くの社会主義国における重要な政策がしばしば戦争の危機感によって突き動かされていたことは紛れもない事実だが、それを「社会主義の理想などではなく」と言い表わすことに、著者はどういう意味をもたせようとしているのだろうか。
 
 第三部の南恊M吾「東欧における社会主義と農民」は、これまでの二論文とはうって変わって、ハンガリーの特定農村に関する細密な記述が中心をなしている。現地での聞き取りや未公刊資料などを駆使した個別事例研究として、ユニークな価値をもつ作品であるように見受けられる。量的にも、本書中で二番目に長い。だが、専門外の読者がその価値を論評することは難しいので、ここではむしろ、この事例を著者がどういう文脈に位置づけようとしているのかについて考えてみたい。
 この論文のタイトルは「ハンガリーにおける」ではなく「東欧における」となっており、この事例が「東欧」全体を代表するものと示唆するかのようである。だが、周知のように、ハンガリーは東欧諸国の中でかなり特異な特徴をもつ国だった。一九五六年の悲劇はよく知られているところだし、そのトラウマを癒す過程で形成されたカーダール路線は、当時の社会主義諸国の中でユニークな位置を占めるものとして注目されてきた。一九八〇年代末の体制転換過程も、それ以前における体制内改革の積み重ねの上に、相対的には連続性・漸進性をもつものとして展開されるという特徴をもっていた。このような改革の厚い蓄積をもつハンガリーが東欧諸国の代表と言えるのか、改革路線の試みがもっと弱かったり、あるいはポーランドのように異なった形をとって進行した国々との比較はどうなるのだろうか、というのが一つの疑問である。
 「東欧」というタイトルはもう一つ別の疑問を引き起こす。南塚自身がどう考えているかは、詳しい説明がないので明らかでないが、一部の人たちにいだかれがちな発想として、ソ連の社会主義はひどいものだったが、東欧諸国にはもう少しましな側面もあったのだという対比がなされることがある。確かに、ヘゲモニーの観点からはソ連と東欧諸国に大きな差異があったから、ひとまず両者を分けて考えることには意味があるが、両者をこういう風に峻別してしまうのは、一種の善玉・悪玉論に通じる。ソ連を悪魔化して、それに対比される東欧を救い出そうとする発想は、一定の根拠がなくはないにしても、それを単純に振り回すと、現実の歴史から乖離したものになってしまう。南塚自身がそう考えているのかどうかがはっきりしないので、これはあくまでも一般論だが、一方の悪魔的存在と他方の改革努力とを二項対置するだけでは、社会主義社会にはらまれた微妙な多義性を見落とすことになりかねない。
 末尾における考察も注目に値する。南塚はここで社会主義の最初の二〇年と体制転換後の新自由主義の二〇年を対比して、前者に軍配を上げている(三〇四‐三〇八頁)。新自由主義の実験が種々のマイナスをもたらしたことは明らかであり、その指摘だけであれば異論の余地はない。しかし、この「二つの二〇年」は異なった初期条件および異なった環境のもとで進行したことを思うなら、そもそも両者を比べてどちらが上とか下とかを論じることにどれだけ意味があるのかという疑問が浮かぶ。それに、本書で重視されている「人びと」の観点からいうなら、新自由主義のもとで多大の犠牲を被ったにもかかわらず、そのような選択を現に受容したのもまた「人びと」だったのではないだろうか。
 
 第四部の古田元夫「ベトナムにおける社会主義とムラ」は、ドイモイ(刷新)のもとで集団農業が解体されたベトナム農村を扱っている。そこで注目されているのは、ベトナムの南部ではこの過程で土地所有の不平等化が進行したのに対し、北部と中部ではそうならなかったという事実である。後者における土地均分はベトナム共産党や政府の政策意図の産物ではなく、政府の観点からはむしろ効率化を阻害するものとして否定的に評価される現象である。だが、日本のベトナム研究者の間では、これを共産党の政策と区別される「在地的社会主義」あるいは「農民的社会主義」として高く評価する傾向が強いという。古田もそうした観点を引き継いだ上で、北部・中部がかつての南北分断時代における北ベトナムでの社会主義を体験しているという事実に特に注目している。
 古田によれば、かつての合作社は、国家による農民支配の機関という側面と、農民の利益を擁護する「隠れ蓑」としての機能を併せ持つ二面性があった。他の社会主義国については集団農業は農民の利害に反するものという理解が常識的であるのに対し、少なくともベトナム戦争期に関しては合作社が農民の利害にそれなりに密着する面があったというのである。それは、国家と合作社の間に一定のバーゲニングの余地があったことと関係している。そうした合作社の交渉力は、伝統的な村落共同体の結合が姿を変えながらもある程度維持され、集団としてのまとまりをもっていたことに依拠していた。そのことは、集団農業解体期の土地配分で平均主義がとられたことにもつながっている。それは古い「ムラ」の復活だが、それだけでなく、合作社という社会主義時代の経験によって強化された面もある。つまり、集団農業解体後の土地均分は、経済学者にいわせれば合作社の「悪しき残滓」だが、むしろ「良き伝統」として肯定的に評価される面がある、というのが古田の結論のようである。
 事例に即した内在的論評をすることはできないが、社会主義論という本書全体のテーマとの関係で、二つの疑問を出してみたい。その一つは、古田は「隠れ蓑」性とかバーゲニングの余地とか伝統的共同体とかいった一連の問題を、専らベトナムの特殊性として取り上げているが、実は、これらは形を変えて他の社会主義国でも問題になることではないかという点である。ソ連は極度に硬直した体制で人びとの創意工夫や自発性の余地が皆無だったが、他の社会主義国には多少なりともそれらの余地があったのだという発想は、ソ連以外の社会主義国を研究する人たちがいだきやすいイメージだが、実は、「隠れ蓑」性とかバーゲニングの余地とか伝統的共同体等々といったテーマはソ連についても重要なのであって、それを見落としたのでは、現実に存在した社会主義像がリアルなものにならない。他面、隠れた自発性とか秘かな創意工夫とかは常に肯定的に作用するとは限らず、それ自体が新たな矛盾を生み落とすという側面も注意されるべきだろう(5)
 もう一つの疑問は、この論文自体では正面から論じられていないが、ドイモイ(刷新)全般への評価に関わる。古田はかねてより、「資本主義とは原理的に異なる経済システムで効率的に国民経済を機能させる代替案は存在しないことが明確になった」が、それは万全のモデルではないため、さまざまな「割り切れなさ」が存在しており、そうした「割り切れなさ」が今日における「社会主義」維持の根拠となっているという認識を示していた(6)。今回の論文で集団農業の解体自体はいわば不可避な流れとして一応肯定しつつ、その中で北部・中部では南部のような不平等化が抑えられているのを北ベトナム時代の社会主義の「良き伝統」とする評価は、この発想を受け継いでいるものと思われる。この議論自体は私も大変興味深いものだと思う(7)。その上で残る問題は、不平等化の抑制が経済学の見地からは「非効率的」「不合理」「悪しき遺産」と評価されることと「良き伝統」という評価との関係をどう考えるのかという点ではないだろうか。これは日本を含め世界中で問題になっている論点であり、単純に平等と効率のどちらも重要だというだけでは片付かない難問であるように思われる。
 
     四
 
 一通り本書の内容を見てきた上で、「人びとの社会主義」というキーワードは一体何を意味するのかという問題について考えてみたい。この言葉は本書のタイトルになっているにもかかわらず、私の気づいた限りでは、どこでも説明が施されていない。「人びと」という言葉には政治家やイデオローグなどに対置される一般民衆を指すニュアンスがあるが、そのように解釈しても「人びとの」あるいは「民衆の」とは何を意味するのかは、直ちに確定するわけではない。リンカーンの有名な「人民の、人民による、人民のための政治」という言葉も、「人民の」という部分が最も解釈困難だとはよく指摘されるところだが、「○○の」という言葉が何を意味するかはそう簡単に理解できるものではない。
 「人びとの社会主義」という言葉をやや具体化して解釈しようとするなら、たとえば「人びとにとって(社会主義はどういう意味をもったか)」、「人びとが(社会主義をどのようにつくりだしたか)」、「人びとのために(社会主義は何をもたらしたか)」等々に分けて考えることが必要だろう。重要なのは、これらのどれをとるにしても、それらへの回答は一義的でないということである。「人びとにとって」社会主義は上からのしかかる抑圧だったかもしれないし、下から自発的に形成されるものだったかもしれない。「人びとが」つくりだしたのは、ある理念に基づいた制度に沿ったものかもしれないし、その制度をかいくぐったり逆手にとったりしてある程度自由に行動することのできる空間だったかもしれない。「人びとのために」社会主義がもたらしたのは、多くの恩恵だったかもしれないし、空疎な空手形だったかもしれない、その他その他。つまり、「人びとの社会主義」について考えるといっても、その内実は極度に多様でありうるということである。では、本書の著者たちはその点についてどう考えているのだろうか。
 著者たちの考えはあまり明確に示されていないので推測するほかないが、およそ次のような発想が基調になっているのではないかと思われる。即ち、政治家やイデオローグが上から形成した制度は多くの場合、あまり「人びとのために」ならないものだったが、「人びとが」つくりだした現実は、大なり小なりそれよりもましなものだった。そうである以上、「人びとにとって」社会主義は必ずしもマイナス面だけではなかった。現実の社会主義に数多くの欠陥があったのは事実だとしても、それを大慌てで全否定するのは「人びとのために」ならない、といった図式である。この図式は南塚論文に比較的はっきりと出ており、古田論文もある程度これに近いように思われる。奥村論文は直接には「人びと」に言及していないが、政治家の「誤り」を描くことで、いわば裏からその問題に迫ろうとしたということなのかもしれない。また加納論文はこうした議論にほとんど触れていないが、ところどころで「人びと」の希望に触れており、その希望を実現するのが社会主義の課題だったが、実際にはそうならなかったという議論になっているように見える。
 仮にこのような見取り図が本書の主張だとして、そこには共感しうる要素と疑問を感じる個所とが入り混じっている。ここで全面的に論じるわけにはいかないが、最大の問題は、これまでも指摘してきたように著者たちの主張があまり明示的なものになっていないために、読者もどの部分に賛成したりどの部分を批判したりしてよいのかをきちんと論じることができないという点にある。何となく大まかにいえばかなりの程度共感したくなるような気もするし、突っ込んで考えるといろんな異論や疑問が出てくるような気もするが、どちらにしてもあまり踏み込んだ議論をすることができず、欲求不満をいだかされる。
 敢えて議論を更に広げるなら、本書全体を流れる暗黙の前提として、次のような図式が想定されているのではないだろうか。
 
(1)歴史は本来、自由および解放へ向かって進歩するはずのものである。特に社会主義はそうした進歩を担うべきものだった。
(2)しかし、現実には、これまでの社会主義は期待されたような進歩を実現してこなかった。
(3)今日のわれわれは、その経験を教訓としつつ、改めて進歩を目指さなくてはならない。
 
 このうちの(3)は現在および未来に関わる主張なので、歴史プロパーに関わるのは(1)と(2)である。そして(2)は今では誰もが認めるところなので、議論の余地はない。問題は(1)である。
 私は、(1)のうちの「本来」とか「はず」という個所を「そうであってくれればよいのだが」という心情と読み替え、また社会主義に関しては、その主要な担い手の主観的狙いがそういうものだったという意味にとるなら、賛成である。社会主義の本来の主観的狙いが進歩や解放にあったというのは言わずもがなのことであり、わざわざ確認するまでもないと思われるかもしれない。だが、いわゆる「ネット右翼」の世界では、社会主義の狙い自体がもともと邪悪なものだったかの理解が広まっているようなので、それが正しくないということを一応確認しておくことには一定の意義があると思う(もっとも、社会主義が多くの人々を巻き込む中で、理想主義とは縁遠い要素を大量に抱え込んだという事実もまた銘記しておく必要があるが)。それはともかく、どのような運動であれ、主観的狙いがその通りになるはずだという保証はどこにもない(8)。むしろ、意図とはかけ離れた現実が生じることの方が普通であり、どのようにしてそのような現実が生まれたかを解明することこそが歴史研究の課題というべきだろう。
 各人が自らの心情的期待をもつこと自体はごく自然なことであって、批判されるべきことではない。だが、その期待を歴史に投影して、「本来そうなるはずだった」と考えるのは、歴史家のとるべき態度ではないだろう。それに、「本来そうなるはずだ」「そうあるべきだった」というタイプの認識は、(2)という歴史的現実をうまく説明することができない。(1)を前提するならば、(2)は何故だか分からないがとにかくそうなってしまったという形でしか提示できなくなってしまう。それはまた(3)を単なる決意表明にとどめてしまう。(1)から「本来」「はず」「あるべき」といった要素を除く形でそれを再構成し、(2)という帰結をできる限り内在的に説明しようとすることこそが、現存した社会主義を歴史的に考察する際に目指されるべき課題ではないだろうか(9)
 
 
(二〇一四年一月)

(1)南塚信吾・古田元夫・加納格・奥村哲『人びとの社会主義』有志舎、二〇一三年。
(2)私はこれまで幾度か、現代史と世代の問題について論じてきた。塩川伸明『《20世紀史》を考える』勁草書房、二〇〇四年、第1章、「現代史における時間感覚――事件・歴史家・読者の間の対話における距離感」『アリーナ』(中部大学編集、風媒社発行)、第一〇号、二〇一〇年、「喜安朗・北原敦・岡本充弘・谷川稔編『歴史として、記憶として』に寄せて」など。
(3)この点について、塩川伸明「『もう一つの社会』への希求と挫折」『岩波講座・20世紀の定義』第二巻(溶けたユートピア)、岩波書店、二〇〇一年、二一‐二五頁、『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、二〇一〇年、八‐九頁など参照。
(4)この総論では私自身も何カ所かで言及されているが、そのうち一〇頁における塩川説紹介は著しく不正確だし、他の個所での言及もあまり核心をついた紹介になっていない。
(5)これらの点について、詳しくは塩川伸明『現存した社会主義――リヴァイアサンの素顔』勁草書房、一九九九年参照。
(6)古田元夫『ベトナムの世界史――中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、一九九五年、『ドイモイの誕生――ベトナムにおける改革路線の形成過程』青木書店、二〇〇九年。後者についての私の読書ノートも参照。このノートに対しては、古田の回答がウェブ上に公開されている。
(7)関連して、この古田論文で言及されている次の論文も――それが収録されている論集全体の「ポスト・ユートピア」という観点を含めて――興味深い。加藤敦典「動員と連帯の跡地にて」石塚道子・田沼幸子・冨山一郎編『ポスト・ユートピアの人類学』人文書院、二〇〇八年。
(8)本文に書いたのは、あらゆる社会運動に共通の一般論だが、社会主義――とりわけそのうちのマルクス主義的潮流――の場合、その理論の体系性が際立って高かったという特徴がある。だが、いくら理論が体系的だったからといって、それが目標通りの結果を生み出すわけではない。ついでにいえば、これはマルクス主義だけのことではなく、一九九〇年代に旧社会主義圏を席巻した「上からの資本主義化」の処方箋も同様である。
(9)社会主義がその目標を達成せず、むしろ多くの点で裏腹の帰結を生み出してしまった理由は単一ではない。単一原因説的な発想に基づいて「社会主義失敗の理由」を説明しようとする議論も多数あるが、それは、その原因さえ除去すればうまくいくはずだという安易な結論を導きやすい。私はこの間、そうした単一原因説を批判して、複合的説明を試みてきた。たとえば、塩川伸明『冷戦終焉20年』(前注3)、第U章、「ソ連はどうして解体/崩壊したか」村岡到編『歴史の教訓と社会主義』ロゴス、二〇一二年など