古田元夫『ドイモイの誕生』
 
 
     一
 
 今ではもう遠い昔の話になってしまったが、かつて一九六〇年代頃には、ヴェトナム戦争は日本を含む世界中の人々の熱い関心を引きつけ、「ヴェトナム戦争反対」という叫び声は――当事国のアメリカまでも巻き込んで――多くの国の若者たちの心をとらえていた。もっとも、その当時でも、他ならぬヴェトナムとはどのような国であり、そこの人々は何を考え、どのように生きているのかについての関心も知識もそれほど高かったとは言えないが、ともかく「ヴェトナム」という言葉が人々の口に上る頻度は非常に高かった。そのような熱気のなかで学生時代を送った世代の中からヴェトナム研究者が多数生まれたのは、ごく自然な流れだったといえるだろう。本書の著者である古田元夫の他、白石昌也も坪井善明もほぼ同世代に属するが、それは偶然ではない(私自身はヴェトナムについてまともに研究したことがなく、彼らの仕事に学んで表面的な知識を得たにとどまるが、やはり彼らと同世代である)。
 しかし、一九七五年にヴェトナム戦争が終結して南北の統一が実現した後、一部の専門家たちは別として、一般の人々のヴェトナムへの関心は急落した。もちろん、いくつかの個別的トピックが一時的に関心を引くことがなかったわけではない。ヴェトナムがカンボジアに侵攻し、そのヴェトナムに中国が「懲罰」戦争を仕掛けるという社会主義国同士の戦争(一九七八‐七九年)の衝撃は、ベネディクト・アンダーソン『想像の共同体』の序章に鮮明に物語られている(1)。「ボート・ピープル」の発生が、一体ヴェトナムはどうなっているのだろうかという疑問を引き起こしたこともあった。一九八〇年代後半以降は、「ドイモイ(刷新)」と呼ばれる改革政策が、矛盾を含みながらもそれなりに成果をあげているらしいことが伝えられるようになったし、九〇年代ともなると、対外開放政策とASEAN加盟(一九九五年)により、「アジア・太平洋地域」という大きな枠の中の国としてヴェトナムをとらえることが可能になり、日本とヴェトナムの関係も次第に拡大してきた。こうして、今では、ヴェトナムに関して種々の観点から関心を寄せる人たちも大分増大してきているようだし、研究者の世代もかなり若返って、先に触れた「ヴェトナム戦争世代」とは異なった新しい観点も登場しているようだ(もっとも、私自身はそうした動向に通じているわけではない)。
 このような経過を大づかみにまとめるなら、かつての――いまから見れば多分に皮相でもあったが――熱烈な関心、その後のかなり長い空白、そして最近になって徐々に関心回復といった流れがあったということになるだろうが、このような関心の浮き沈みの激しさは、この国の現代史を全体としてきちんとつかむことを難しくしている。そのような中で、日本を代表するヴェトナム研究者によって新著が刊行されたのは歓迎すべきことであり、これを手がかりとして、素人なりにヴェトナム現代史を振り返ることができるのではないか、というのが本書を手に取ったときの私の期待だった。
 もっとも、本書はヴェトナム現代史をまんべんなく概観した書物ではなく、時期的には一九七〇年代末から八〇年代半ばまでに集中し、主題としては経済政策をめぐる共産党内イデオロギー闘争史ともいうべきテーマに集中した研究書である。そのように特化した狙いをもつ本だが、この時期が先に触れた「長い空白」期に当たることを思うなら、そうした空白を埋めることは歴史の全体的把握に貢献するだろうし、一九八六年以降に注目を集めるようになった「ドイモイ」の起源を辿るという主題は、最現代の状況を理解する上で不可欠の位置を占めている。しかも、この時期のヴェトナム共産党内の事情に関する資料公開はごく最近になって急速に進んだとのことなので、本書は、そうした資料状況の変化を踏まえた、おそらく世界でも初の本格的な研究という位置を占めるのだろう。
 
     二
 
 私自身はソ連の歴史を主たる研究対象とし、それとの関連で東欧諸国についてもある程度かじっているが、ヴェトナムについて本格的に研究したことは一度もなく、本書で詳述されている事項についての内在的な論評をする資格はない(本書のうちのソ連と関わる個所については末尾の付記を参照)。ここではむしろ、ソ連・東欧諸国や中国などにおける社会主義改革論の歴史を念頭におきながら、それとの比較の視座から、いくつかの感想と疑問を述べてみたい。
 本書の最大の主張は、「ドイモイ」はソ連のペレストロイカの影響を一部受けているとはいえ、決してその模倣ではないということ、そして、そこに見られる独自性は社会主義の「民族化」ともいうべきものだという点にある。これは興味深い主張であり、重要な問題提起である。だが、よく考えてみると、いくつかの疑問が浮かぶ。古田は今まとめた主張を一体のものと考えているようだが、実はこの主張の前半部と後半部の間には乖離があるのではないだろうか。前半部(ペレストロイカの影響は部分的なものであり、ドイモイは決してその単純な模倣ではない)はうなずけるが、それが後半部(「民族化」という主張)につなげられているのは、一種の飛躍があるように思われる。
 ソ連・東欧諸国では、一九五六年のスターリン批判を大きな画期とし、特に六〇年代には種々の改革論が活発に提起された。このうねりは一九六八年のチェコスロヴァキアへの軍事介入によって一旦途絶え、その後しばらくは「改革の停滞(ないし足踏み)」ともいうべき様相を呈するが、改革の試みはその後も完全になくなったわけではなく、七〇年代末から八〇年代にかけて再度の興隆を見た。その最後の頂点ともいうべきものがゴルバチョフのペレストロイカだったわけである。また、六〇年代にはソ連・東欧諸国の改革論を「修正主義」と罵倒していた中国も、七八年頃以降、この改革のうねりに合流した。このような文脈で見るならば、ヴェトナムでドイモイにつながる改革論がソ連のペレストロイカに先だつ七〇年代末から存在していたというのは、別に孤立した動きではなく、むしろ当時のソ連・東欧・中国で一斉に進みつつあった動きの一翼という位置を占めていたということになる。「ペレストロイカの模倣」ではないけれども、他の社会主義諸国で進んでいた種々の動きと同時代的に、おそらく相互刺激関係をもちながら進んでいたということではないだろうか。「模倣ではない」ということを強調するのはよいが、だからといって、それを「民族化」と言い表わすことには疑問がある(2)
 「民族化」という捉え方と表裏一体の関係にあるのが、それまでのあり方を「普遍モデル」とする把握である。「普遍モデル」からの脱却が「民族化」をもたらしたというのが、本書で繰り返し主張されている図式である。確かに、ドイモイ以前の時期の正統教義において「普遍モデル」とされていたのは、本書で描かれたようなもの――所有制においては私的所有の極小化、経済活動調整の手段については商品・貨幣・市場の役割の極小化――だったといえるだろう。ソ連・東欧諸国の経済改革論も、はじめのうちはそうした「普遍モデル」の正統性を前提した上で、そこからの部分的逸脱をどのように正当化するかに腐心していた。しかし、改革論が次第にエスカレートしていく中で、市場を否定する指令経済は決して「普遍的」ではないという考え方が、次第に優勢になっていった。旧来のモデルの「普遍性」を承認した上で、そこからのささやかな逸脱を正当化するという発想から、むしろ何が「普遍」で何が「特殊」かの判断を逆転させる発想が登場したのである。
 古田の独自の概念として「貧しさを分かちあう社会主義」というものがある。これは主にヴェトナム戦争期を念頭において提起されたもので、解放戦争遂行という大義名分が多くの民衆を納得させている限りにおいては「貧しさを等しく分かちあう」という観念が人々に受容されていたことを指す。と同時に、戦争が終わってからは、この路線が行き詰まり、改革の模索が迫られたということになる。これは確かに興味深い指摘であり、高度の説得力を持つ。問題は、それを「普遍モデルからの脱却」=「民族化」と言い表わすのが妥当かどうかという点にある。
 「貧しさを分かちあう社会主義」がある時期まではそれなりの説得力を持ったが、それが時代とともに限界化したという事情は、それ自体としてみればヴェトナムの歴史的特殊性だが、ある程度抽象化していえば、他の多くの社会主義国にも当てはまるように思われる。革命前のロシアも中国もいわゆる後進国であり、きわめて低い生産水準から出発したから、そうした時期においては「貧しさを分かちあう」という発想は一定の説得力を持ちえた。また、第二次大戦――ソ連にとっては、ナチ・ドイツとの総力戦――の渦中においては、「『戦争に勝つ』という社会的合意が存在し、戦時体制の負担は皆が公平に分かちあうべきだという考えが広く共有される」という本書の記述(二五頁)が当てはまる状況があった。しかし、やがて戦後復興が軌道に乗りだした頃から、より高度の生産力発展と生活水準向上への願望が広がり、それが種々の経済改革論の背景をなした。このように考えるなら、「貧しさを分かちあう社会主義」からの脱却とそのための経済改革模索という推移こそが、「普遍的」とも言える意味を持つことになるのではなかろうか。
 古田によれば、ヴェトナムの改革論者は自己の議論を正当化するために、「社会主義への過渡期」が長期にわたるということを強調し、レーニンのネップ(新経済政策)を頻繁に引き合いに出したという。改革論者がレーニンの名によって自己を守ろうとし、ネップを引き合いに出すというのも、他の社会主義国で改革論が出てくるときによく見られるパターンである。イデオロギー的拘束の強い状況下で、「反逆的」な外観をとらないよう気をつけながら、おそるおそる初歩的改革を提起するときに使いやすい隠れ蓑が「レーニンのネップ」だったからである。この点でも、「民族化」というよりは、多くの社会主義諸国に共通の要素を見ることができる。もっとも、ソ連・東欧諸国では、やがて改革論がさらに急進化すると、晩年のレーニンやネップを引き合いに出す議論もすたれて、脱社会主義へと突き進んでいった。そうした経過を想起するとき、ヴェトナムのドイモイが「レーニンのネップ」を引き合いに出すことから始まったのは十分理解できるが、その後はどうなのかが気になる。
 もう一つ気になるのは、「まだ当分は過渡期だから」という言い方は、「過渡期を終えて社会主義に到達した後は、もはや市場の存在余地はない」という正統教義を温存する意味をもつのではないかという点である。「ベトナムのような経済発展が遅れた国では、過渡期は長期にわたらざるをえない」(二三四頁)という言い方は、裏を返せば、ヴェトナムよりももっと近代化の進展した諸国では、過渡期はもっと短く、「普遍モデル」が適用できる、ということになりそうだが、そうだろうか。
 まだ低開発の段階にあるということが市場型経済改革の正当化根拠とされているのは中国でも同様だが、ソ連・東欧諸国では、「過渡期」とか「低開発」ということを無条件にいうわけにはいかない。ソ連の場合、スターリン時代の一九三六年に「社会主義建設の完了」が宣言され、フルシチョフの「共産主義の全面的建設」論を経て、ブレジネフ期には「発達した社会主義」という時代規定がとられたという経緯があり、これを全面的に覆すことはできなかったからである。しかし、「発達した社会主義」が宣言された後にもなお種々の未解決の問題を抱えているということの自覚から、アンドロポフ期には、「長期にわたる歴史時代としての発達した社会主義の初期段階」という回りくどい規定が打ち出されたことがある(結局はこれも定着しなかったが(3))。「過渡期」が長期だというのと「発達した社会主義の初期」が長期だというのとでは、ドグマの観点からは大きく異なるが、現状に問題点が多く、今後の道のりが長いという含意では共通する。
 つきつめていうなら、「過渡期」であろうがなかろうが、市場なしで経済を運営しようとすることには無理があるという意識が根底にあり、それを理論的に正当化するために持ち出されたのが、ある場合には「長期にわたる過渡期」論であり、ある場合には「長期にわたる低開発」論であり、またある場合には「長期にわたる発達した社会主義の初期段階」論だったということではないだろうか。
 
     三
 
 本書の中心をなすのは、ヴェトナム共産党内部におけるイデオロギー論争の分析である。そこにおいては、教条的な保守派と柔軟な改革推進論者の対抗という図式が基本におかれている。そして、後者は「上から」のイニシャチヴによるだけでなく、「下からの圧力」によっても支えられていたという点が特に強調されている。共産党という存在を単純に一枚岩とみなすのではなく、内部に分岐をはらんだものととらえることは、社会主義国の分析にとって重要な観点である。もっとも、そうした党内分岐の実態はなかなか公けにされないために、外部の研究者にとっては資料上の壁が厚いのだが、ヴェトナムでは近年、資料公開が進んでいるようで、そのこと自体、改革のあらわれなのだろう。そのおかげで、ある時期まで「保守的」な立場をとっていた指導者(チュオン・チン)が、ブレインたちの助言に支えながら「改革派」的立場に移行し、それが大きな意味をもったというような内部事情が、本書では克明に明らかにされている。また、社会主義国といえども、「共産党政治局を構成する一握りの最高指導者の『思いのまま』で」はなく、むしろ「社会的な制約、あるいは『下からの圧力』が重要な意味をもっている」(二〇頁)というのも重要な指摘である。
 そのことを認めた上での疑問だが、この図式はやや単純な二元論に傾斜してはいないだろうか。保守派は頑迷固陋な教条主義者であり、改革派は大衆の創意に支えられた柔軟な人たちだというのは、分かりやすくはあるが、本当にそうだろうか、という意地悪い疑問を誘発する。これは一種の善玉・悪玉史観を思い起こさせるといったら言い過ぎだろうか。
 ソ連・東欧諸国でも、経済改革論が早い時期から提起されてきたにもかかわらず、それがなかなか実を結ばなかった長い歴史がある。そのことを「教条的な保守派」「保守的官僚」などの抵抗に帰す議論も多く、その中で、そうした抵抗をどのように克服するかが熱心に議論されてきた。この点でも、上記の図式は社会主義諸国に共通という性格をもっている。しかし、改革をめぐる議論が積み重ねられる中で、改革の困難性は、単に「教条的な保守派」の抵抗にのみ帰されるのではなく、もっと深刻なものがあるのではないかということが指摘されるようになってきた。
 市場型の経済改革には、ごく大ざっぱに挙げるだけでも、以下のようなディレンマがある。まず第一に、慢性的物不足状況の原因は多くの物資の価格が人為的に低い水準に固定されていることにあったから、需給バランスに見合った合理的な価格水準に近づけるためには、大幅な価格引き上げが不可避となる。これは当然ながら大多数の消費者に不人気な政策である。実際、不合理な価格体系を改訂すべきだということは、早い時期から経済学者が何度も指摘していたが、それは政治的理由から躊躇されるのが通例だった。第二に、経済改革は企業経営の合理化を必要とするが、それは経営者にとっては経営条件の厳格化、労働者にとっては労働規律引き締めと雇用合理化――失業の可能性を含む――を意味する。多くの一般労働者が社会主義体制を消極的ながらも受けいれてきたのは、生産性向上に一生懸命にならずに済み、低い規律でのんびり働いていても滅多に解雇されるおそれがなく、失業の可能性がほとんどないという事情によるところが大きかったから、こうした状況の打破には非常に大きな抵抗が伴う。第三に、公的セクター以外の私的経済活動の余地を拡大すれば、国民のあいだの所得格差が開く。新しい経済活動に乗り出して大きな利益を得ようと考える少数の人は別として、現状に甘んじて格差の小さい社会を維持したいと考える大多数の人々は、格差拡大の展望には反感を覚える。こういうわけで、経済改革は一握りの特権官僚からのみならず国民一般からも反撥を招きやすい性格をもっており、ここに経済改革の困難性の大きな要因があった(4)
 このような事情を考慮するとき、ヴェトナムで経済改革に抵抗したのは本当に「教条的な保守派」だけだったのだろうか、という疑問が思い浮かぶ。改革の副産物としての価格上昇・失業・所得格差拡大などに対する大衆の反撥はなかったのだろうか。もっとも、経済改革が始まり出すかどうかという初期段階においては、そうした帰結はまだ将来の問題であり、それ程深刻に意識されていなかったということなのかもしれない。としたら、この後のドイモイの展開がどのような新しい事態を生み出したのかが気になるところである。あるいは、まだ農村人口の比率が高いということが一種の緩衝剤となって、市場型経済改革の衝撃をやわらげているのかもしれない。この点は、中国との比較を含めて検討すべき問題である。
 本書の主たるテーマは経済政策をめぐる論争であり、政治改革については触れられるところが少ない。おそらく、そのこと自体、当時のヴェトナムの現実の反映ではないかと思われる。本書の最後に近い部分では、「幹部工作の民主化」への言及(二三一‐二三二頁)や、「行政命令で管理する官僚的集権国家から、民主的な法治国家へ」(二四一頁)といった記述が見られるが、いずれもごく短いものにとどまっている。そのこと自体はやむを得ないことだろうが、ソ連・東欧諸国の歴史に照らす場合、気になる点がないではない。
 右の段落で引用したさりげない記述の背後には、経済改革を進めるためには政治改革も必要になるという、いわば「車の両輪」的な発想が窺える。これもソ連・東欧諸国で改革が動き始める時期にしばしば提起された議論だが、その後、ある程度以上改革が進展すると、むしろ経済改革と政治改革の間には深刻な緊張関係があるのではないかという問題が浮上した(5)。そのことが遂には全面的な体制転換や、ソ連の場合には国家解体をも引き起こすことになるのだが、そうした経緯をヴェトナムはどのように受けとめたのだろうか。もっとも、これらの点は本書の主要課題をはみ出すものであり、そこに立ち入っていないという不満は無い物ねだりなのかもしれない。
 
     四
 
 本書は一九八六年にドイモイが本格的に打ち出される前夜までの過程を主たる対象としているが、本書の感想の最後に、その後のヴェトナムについても、ある程度考えてみたい。
 いうまでもなく、今日のヴェトナムは、いまなお「社会主義」の旗を降ろしてはいない。その点では、中国、北朝鮮、キューバなどと並ぶ、地球上で数少ない「現役の社会主義国」の一つということになる。これらの諸国のうち、北朝鮮は――その実態は必ずしも十分解明されていないが――圧倒的に悪いイメージが広がっているし、キューバについても、一部のゲバラ人気はともかくとして、あまり肯定的イメージがない。中国については、その経済的躍進が強い関心の対象となっているが、その評価は肯定面・否定面とも多様なものがあり、まさにアンビヴァレントである。そうした中で、ヴェトナムは、一部に種々の問題をかかえていることの指摘があるにしても、少なくともそれほど強い嫌悪感をもたれてはいない。つまり、今でも社会主義国を称していながら、特に毛嫌いされてはいないという点で稀有な国である。「社会主義というのは、もう終わった過去のものだ」という感覚が広く行き渡っている中で、「案外そうとも言い切れない」ということを物語る好例がヴェトナムだということになる。その一つの要因は、ドイモイ以後のヴェトナムは、かつての社会主義ではなく、独自の改革を経た社会主義だという点にあるのだろう。ドイモイが興味深い研究対象であるゆえんである。
 古田の旧著には、ドイモイ後のヴェトナムが「社会主義堅持」を強調していることの理由をいくつかの角度から説明した個所がある。そのうちの「共産党が領導する『開発独裁』としての社会主義」という言い方も興味深いが、私の興味をより強く引いたのは、次のような記述である。つまり、「資本主義とは原理的に異なる経済システムで効率的に国民経済を機能させる代替案は存在しないことが明確になった」が、それは万全のモデルではないため、さまざまな「割り切れなさ」が存在しており、そうした「割り切れなさ」が社会主義という言葉で表現されている、というのである(6)。ここには、経済システムとしては、「資本主義とは原理的に異なる経済システム」がありえないという認識があり、これをつきつめれば、本書で言う「〔社会主義の〕普遍モデル」はしょせん資本主義への対抗モデルたりえなかったということになりそうである(7)
 敢えて推測をまじえて要約的にいうなら、高度に複雑化した現代社会における効率的経済システムとしては資本主義以外のものはありそうにないが、それだけでは何かしら「割り切れない」ものがあるという感覚もまた根強いものがあって、それが「社会主義」の語で言い表わされるというのが、古田の見解であるように思われる。だとしたら、「社会主義」の「普遍モデル」とは、かつて考えられたような資本主義の打倒や市場の全面否定ではなく、むしろその部分的補完・修正を何らかの形で体現したものだということになるのではないか。これは西欧諸国で長らく社会民主主義と呼ばれてきたものとも近い。もっとも、ヨーロッパ以外の諸国では――ロシア・アメリカ・日本を含めて――社会民主主義がなかなか根づきそうにないし、ヨーロッパ社会民主主義もかなり大きな変化(自由主義への接近)を遂げているという現実を見るならば、社会民主主義の普遍性を安易に唱えるわけにもいかない。おそらく、それぞれの国の事情に応じて、資本主義を前提した上での「割り切れなさ」を何らかの形で表現していくしかない――それこそが「民族化」だ――ということになるのかもしれない。
 ここで再び、かつてソ連・東欧諸国で試みられた種々の社会主義改革論を振り返ってみたい。ある時期までの改革論は、あくまでも国家的所有と計画化を基本軸としつつ、その中に部分的に市場メカニズムを取り込んでいこうとする発想が主流だったが、社会主義末期になると、その枠を超える改革構想のラディカル化が進行した。ポーランドやハンガリーのような改革先進国では一九八〇年代半ば――つまりペレストロイカの前夜――にそうした構想が現われだしたし、ソ連のペレストロイカも、その最終局面では、事実上の社会民主主義化路線を志向するようになりつつあった(8)。これは旧来型の社会主義からの訣別を「安楽死」方式で進め、「社会的市場経済」「福祉国家」「社会民主主義」等々に「軟着陸」させようとするものだった。しかし、この試みは成功を収めることなく、挫折した。その後にやってきたのは、いわば「割り切れなさ」に目をふさいだ「恥も外聞もない資本主義化」だった。こういう風に考えるなら、今や選択は、かつてのような意味での資本主義か社会主義かではなく、資本主義経済システムを共通の基盤とした上で、「恥も外聞もない資本主義化」かそれとも「割り切れなさ」の感覚を何らかの形で生かそうとしていく――それを「社会主義」と呼ぶかどうかはどうでもよい――のかというところにあるのかもしれない。
 いずれにせよ、ソ連・東欧諸国における上記のような推移とヴェトナムや中国の現実とをどのように比較していくかという問題は、今後考えていくべき有意味な問いであるように思われる。
 
 
 
【付記】
 本書においてソ連にかかわる叙述はごく小さな部分しか占めておらず、そうした細部をあげつらうのはあまり生産的ではない。とはいえ、いくつか気づいたことを指摘するのは――あら探しという趣旨ではなく、今後の生産的な相互交流を築くための一つの手がかりという趣旨でなら――あながち無意味ではないだろう。ということで、二、三の点について記しておく。
 九〇頁に出てくるアバルキンのイニシャルはSではなくLである(レオニード)。
 ミハイル・セルゲーヴィチ・ゴルバチョフがM・X・ゴルバチョフと記されている(二二七‐二二八頁)のも奇妙な気がするが、ひょっとしたら、ヴェトナム式表記ではこうなるのだろうか。
 九一頁以下に何回か出てくるパスカル(ピョートル・パスカリ)は、モルダヴィア共和国の「国家評議会議長」と記されているが、正しくは閣僚会議議長(首相)である。なお、彼はモルダヴィアという一共和国レヴェルで見ても、最高幹部ではない(後に初代および二代目のモルドヴァ大統領となるスネグールやルチンスキーの方が大物)。経歴を見ると、農業経済に関与したことがあるようだが、ソ連全体で重要な位置を占める経済学者というわけではない。そうした「小物」を派遣するということは、ソ連側のヴェトナムへの軽視を物語るのかもしれない。とすると、彼のヴェトナムでの発言の意味も、あまり重いものと受けとめることはできないのではなかろうか。本書での記述(二〇五、二二六頁)は、その点、やや過大評価ではないかという気がする。
 一九八六年二‐三月の第二七回ソ連共産党大会を「ゴルバチョフのもとでの改革の基本的方向性がより明確になる」画期とする記述がある(二二五‐二二六頁)。しかし、この大会ではまだ「ペレストロイカ」という言葉の使用頻度も低く、そこで打ち出された政策は新味に乏しい。ペレストロイカはこの大会の少し後(一つの契機は、同年春のチェルノブィリ事故)に始まり、その後、時間とともに本格化していった――ピークは一九八九‐九〇年――と考えるべきである。但し、付け加えるなら、「改革」一般と「ペレストロイカ」とは同一ではなく、後者がまだ始まっていないからといって前者がなかったということにはならない。本文で述べたように、社会主義改革の試みは長い歴史をもっており、ペレストロイカはその最終局面における最もラディカルな試みという位置づけになる。ドイモイが開始されたのは、「ペレストロイカ前夜だが、諸種の改革論は既にかなり長い蓄積をもっていた」という時期だといえよう。その後、ペレストロイカのエスカレートと変質の中で、ドイモイがどういう変化を遂げていったかも興味引かれる点である。
 一九八六年八月および一一月にチュオン・チンが訪ソした件(二二六‐二二七頁)は関心を引く話題だが、私の知る範囲では、ソ連側の資料は乏しい(もっとも、きちんと調べたわけではないが)。先ず、ゴルバチョフの回想には、一九八七年五月と一一月、さらに八九年九月に訪ソしたグエン・ヴァン・リンとの会談についてある程度立ち入った記述があるが、それに先立つチュオン・チン訪ソについては、ごく短く、「この人物に正当な評価を与えるべきだと思う。彼は経済政策再検討と人事刷新にきっぱりと賛成し、自己の課題は新政策の策定、大会の成功裏の実施、他の指導者に道を譲ることだと考えていた」と記すにとどまっている(9)。また、現在刊行中の浩瀚なゴルバチョフ著作集(第一期だけで全二二巻の予定)では、第四巻の日誌の一九八六年八月一二日の項に「ヴェトナム共産党中央委員会書記長チュオン・チンと会談」、第五巻の日誌の同年一一月一二日の項に「カーダール〔ハンガリー〕、フサーク〔チェコスロヴァキア〕、チュオン・チンと会談」という記載があるが、会談の内容に関する記録はない。それとは別に、一一月一三日の政治局会議で、ゴルバチョフは社会主義諸国指導者たちとの会見の総括について報告している。この報告はゴルバチョフ・フォンド・アルヒーフに記録があり、二〇〇六年刊の『ソ連共産党政治局資料集』および上記著作集第五巻に収録されているが、それは全体としては数頁にわたるにもかかわらず、ヴェトナムに触れた個所はごく短く、わずか二行だけの無内容な言及である(10)。当時のゴルバチョフの頭の中では、東欧諸国の方がずっと大きな位置を占めており、ヴェトナムはそれよりも軽視されていたように見える
 
 
(1)Benedict Anderson, Imagined Communities: Reflections on the Origin and Spread of Nationalism, Revised edition, Verso, 1991, pp. 1-2; ベネディクト・アンダーソン『増補・想像の共同体』NTT出版、一九九七年、一八‐一九頁。
(2)「民族化」という表現には、もう一つ別の意味でも疑問がある。古田は以前の著作(『ベトナム人共産主義者の民族政策史――革命の中のエスニシティ』大月書店、一九九一年)で、ヴェトナム諸民族の相互関係を詳細に論じていた。それによれば、ややもすれば多数派のキン人が「ヴェトナム人」と等置されやすいが、実は「ヴェトナム人」の中には非常に多くの少数民族が含まれ、単一・均質の「ヴェトナム民族」が存在するわけではない。本書の主題は民族問題ではなく経済政策なので、その問題が直接扱われていないのは驚くに値しないが、それにしても、ソ連に対する独自性を単純に「民族化」と言い表わしたのでは、ヴェトナム内部での民族問題という観点が消えてしまうことになりかねない。
(3)塩川伸明「藤田『社会主義史』論との対話――藤田勇『自由・民主主義と社会主義1917-99』を読む」『社会体制と法』第一〇号、二〇〇九年、一〇二頁の注6参照。
(4)塩川伸明『冷戦終焉20年――何が、どのようにして終わったのか』勁草書房、二〇一〇年、七一‐七五頁参照。
(5)同右、一〇〇‐一〇二頁参照。
(6)古田元夫『ベトナムの世界史――中華世界から東南アジア世界へ』東京大学出版会、一九九五年、二四七‐二四八頁。
(7)栗原浩英は、現代ベトナムはもはや資本主義と異質な政治・経済システムではなく、よかれあしかれ「普通の国」になっているとした上で、それでも「社会主義」という言葉が使い続けられているのは、「一つには遠いところにある理念、二つは現在の共産党による一党支配を肯定するもの」という意味だとしている。栗原「ベトナムの社会主義――制度としての社会主義から理念としての社会主義へ」メトロポリタン史学会編『いま社会主義を考える――歴史からの眼差し』桜井書店、二〇一〇年、(引用は二二三頁)。栗原の議論と古田の異同を詳しく確かめることはできないが、栗原の第一点は古田のいう資本主義化への「割り切れなさ」、第二点は「共産党が領導する開発独裁」に対応するという風に考えるならば、古田の議論とある程度整合することになる。
(8)後期ゴルバチョフが事実上社会民主主義化路線になっていたという解釈を唱えている代表的論者は、イギリスのアーチー・ブラウンとアメリカのスティーヴン・コーエンである。Archie Brown, Gorbachev Phenomenon, Oxford University Press, 1996(邦訳『ゴルバチョフ・ファクター』藤原書店、二〇〇八年)、Archie Brown, Seven Years That Changed the World, Oxford University Press, 2007; Stephen Cohen, Soviet Fates and Lost Alternaties: From Stalinism to the New Cold War, Columbia University Press, 2009. 私自身は、後期ゴルバチョフが社会民主主義化していたという解釈については彼らと共有するが、その成功可能性については、彼らほど楽観論をとることはできない。この点については、『冷戦終焉20年』一〇二‐一〇七、一三九‐一四一頁、二二八頁の注28参照。
(9)М. С. Горбачев. Жизнь и реформы. кн. 2, М., 1995, с. 455-462; 『ゴルバチョフ回想録』下巻、新潮社、一九九六年、五二四‐五三一頁(チュオン・チンへの言及は、c. 457; 五二六頁。訳文は改めた)。なお、この回想の八七年に当たる部分については、栗原、前掲論文、二一〇頁に言及がある。
(10)В Политбюро ЦК КПСС..., По записям Анатолия Черняева, Вадима Медведева, Георгия Шахназарова (1985-1991), М., 2006, с. 105-107(この資料集はハードカバー版とソフトカバー版とで頁数が異なるが、ここではハードカバー版による); М. С. Горбачев. Собрание сочинений. т. 5, М., 2008, с. 175-178.この二つの資料のうちではゴルバチョフ著作集の方がやや詳しいが、ヴェトナムに関する部分は完全に一致している。
 
 
*古田元夫『ドイモイの誕生――ベトナムにおける改革路線の形成過程』青木書店、二〇〇九年
 
(二〇一〇年六月)
 
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