教室の机の配置からみる日米の授業の違い

〜新しい学びの姿の構築〜

 

1  はじめに

日本の教育は、以前は世界的に見ても高い水準を保ってきた。しかし、現在その日本的教育に課せられる課題は、あまりにも多い。これは、過去における教育のあり方を、大きく見直す岐路に立たされている時期に来ているということを現し、それは、誰しもが認めることであろう。教育のあり方、その原点は子ども達が学んでいる授業である。そして、その活動を行う空間が教室である。私は、訪問した学校の各授業・教室の風景をビデオテープに、およそ800分撮影した。それらを分析し、特に机の配置から見える日米の授業の違いを報告したい。

 

2  机の配置がもたらすもの

教室の空間を支える“机の配置”は、一体何をもたらすのか。戦後より長きにわたって、日本の学校の教室といえば、下の図のような机の配置が、教室に当たり前のごとく配置されてきた。それは、黒板に向かって、児童・生徒の机と椅子が1つ1つ分離されながら、列ごとに並んでいる配置である。(ただし、特別教室や特別活動での机の配置は、ここではあてはまらない。)最近、円卓形式の机の配置などを採用している小学校も見られ始めているが、全国の小・中・高の学校の数からみると、やはり左のような机の配置が圧倒的である。すなわち、このような教室の景色が、日本的な授業法に適しているからであろう。机の配置とは、その国の学びの姿を理解するための、一つの貴重な題材なのである。そして、重要なことは、机の配置の決定権を持っているのは、その授業を行う教師であるということだ。その意味においても、机の配置を見れば、どのような授業を仕組もうとしているのかという、日本とアメリカの教師の意識の違いを見つけることができるのである。

3  アメリカ(Boulder学区)の机の配置

 アメリカの学校を訪問して、どこの学校の教室に行っても感じるのが、私達が慣れ親しんでいる日本的な教室の机の配置の姿が見られないことである。上記に示した日本的な教室の景色と同じ教室は0ではないにしろ、非常に少ないのである。今回の研修で、およそ60ぐらいの教室を見て回ったが、日本の机の配置と同じにして授業を受けていたのが、3つであった。それも1つは、理科の実験の前の説明の場面の授業。もう一つは、テストの解説の場面の授業であった。それでは、どんなパターンの机の配置が、アメリカで多いのか主のものを右に上げてみる。(ここでは、あくまでも普通教室での配置を考える。)アメリカの教室に存在している机と椅子の配置のパターンを見て感じることは、個と個の机や椅子は、非常に接近しており、個々が独立しているという印象を受けないということである。このような配置にすると、どのような授業が展開されることになるのだろう。

 

4  机の配置が可能にさせるアメリカの授業展開

 アメリカの授業を見ると、“教師”対“生徒”という場面よりも、“生徒”と“生徒”とのやりとりの場面が断然多いことに気づく。ほとんどの授業が、ある生徒が発言し、次の生徒が意見を述べ、また次の生徒に広がっていく。また、表現活動においては、互いに教えあう学びの姿が自然発生的に生まれている。一方で、日本の教室で見られる、教師が黒板を使って説明し、生徒が黙々とノートに板書するという光景はまず少ない。訪問校の教室ではOHPの使用が一般的で、それを使って説明や解説を書くことというよりも、ひとり一人の出てきた意見を書き留めることに使われるケースが多い。自主学習を学びの姿として目指してきた日本であるからこそ、図1の机の配置が教室になされてきたのだろう。しかし、アメリカにおいて学ぶ姿とは、自分と他との考えや発想の対話において成立する。授業において、アメリカでも発言しない子はいる。しかし、発言しない子は、発言している子の考えにじっと耳を傾けながら、自分の考えを照らし合わせている。すなわち、授業において、この振り子のように意見が揺れ動くことを、アメリカの“学び”と考えているのだ。この学びの姿を支えるために、右の机の配置が生まれてきた。

 

 

5  新しい学びの姿の構築

 アメリカだからやれるとか、訪問校が特別に教育水準が高い地域だったからやれるのだとか考えていては、何ら今の閉塞状態にある日本教育を脱することはできない。アメリカや世界の学びの姿として標準になっていることを知り、日本的な新しい学びの姿を構築する時代に入っているのである。問題は、机の配置を変えたから解決するのではない。

「はい!はい!」と挙手することに、価値を見出させる授業を止めよう。じっくり、他の意見に耳を傾け、自分の考えが揺らぎながらも確かに一つの答えに向かうようなそのプロセスに価値を見い出させる授業こそが、新しい日本の目指す学びの姿ではないだろうか。あまりにも学習規律にこだわることで、生徒の自由な発想が寸断されていないのか。日本の教師の声は、アメリカの教師の声よりも大きいことは一目瞭然である。それは一体何を意味しているのか。自ら学ぶ子よりも、他との関連をはかれる子が、新しい学びの世界では目指すべき子ども像となるのではないだろうか。そういう意味で、日本の教室にあふれている机や椅子の配置を、もう一度考え直すことが必要であると強く感じた研修であった。

 


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