新しい公教育の姿を探す旅に

 

わたしは、幸運なことに、2週間自分の好きな研修をする機会を得る
ことができました。現在在職している村の新しい試みなのですが、わた
しのほかに、数名の中堅の教師に与えられた研修の機会でした。せっかく
の機会だから、わたしはこれまでの教職経験を振り返って、自分なりの研
修計画を立て実践しました。そして、以下に述べる研修の結果をまとめた
ました。これを読んで頂けましたら、きっと、わたしがこのページをアップして
いる意味もご理解していただけると思います。現在の学校に疑問を持っておる
多くの方々から是非、さまざまなご意見やご感想をお寄せ頂けますようお願い
します。

1.なぜ、公教育を探す旅なのか。
2.日本が聞こえる。
3.先進地視察研修から。
4.新たなる実践へ。
5.研修を終えて。
6.最後に

 

1.なぜ、公教育を探す旅なのか

 17歳の犯罪、親が我が子を虐待する事件など、2000年の出来事は暗
いニュースが多かった。そしてまた、これほどまでに教育への危機感を
国民がつのらせたことは無いかもしれない。マスコミは、それらの原因を
家庭に、学校にそして地域に求めようとする。TVでは、専門家が様々な
コメントを言う。しかし、その原因探しは、ただの責任の擦り合いになって
いないのだろうか?わたしの数年来の疑問もここにあった。学校・家庭・地
域と、その連携の重要性が叫ばれて久しい。しかし、その連携がうまくいっ
た例は本当にあったのだろうか?

 21世紀になった今、もう責任の所在を探しその責任を転嫁することはもう
よそう。それよりも今やるべきことは、学校、家庭、地域が今やるべきことは
何なのかを考え、勇気を持って実践することである。頭で考えることばかり
で終わるのではなく、目の前にある難題に向かって、実践、挑戦を繰り返す
時代が到来しつつある。

 ある研修の機会を得たわたしはこれまで自分が抱いていた疑問、そして実
践してきたことなどをもう一度見つめなおす旅に出ようと考えた。その時
としてではなく一人の親として一体公教育が何を社会に貢献していくべ
きなのかを主眼としたいと考えた。

 学校という小さな社会の中に、耳をすますと現実の日本の姿が聞こえる。そし
て、それを聞くことで、時代が公教育に求めているものが見えてくる。以後、わ
たしが教師として聞いてきた日本のうめき声について述べたい。

 

2.日本が聞こえる。

(1)人と人とのつきあい方を教えて!

 

  中学校の生徒指導を長く携わっていると、たくさんの生徒の起こす問題行動
に直面する。しかし、その多くはほとんど、人と人とのトラブルに起因していた。
話は変わるが、昨年の12月から1月にかけて、某テレビ局の企画で10日間の船
の旅に協力、同行した。県内から375名の小中学生が参加したこの企画で、県内
の保護者の意識に触れることができた。わざわざ高額なお金を出して10日間の旅
に出す保護者がこの企画に期待しているものは何か。保護者の文面に目を通す
と、そのほとんど全部といっていいほど「幅広く人とつきあえる人間に」というものだ
った。人間関係作りを上手にできるようになって欲しいという保護者の願い。逆に
言うと、保護者が抱えている悩みそのものなのかもしれない。

  人と人とのつきあい方を教えて!という願いが、日本全体から聞こえてくる。も
う6年にもなるだろうか、ある新聞記事の中に、島根県で人間関係作りをゲームを通
して学ばせようとしている学校の記事を見つけた。当時、生徒指導主任だったわたし
にとって、この記事は輝いて見えた。以来、独学で様々な人間関係作りのトレーニング
を学んできた。こらからの公教育の果たす役割のひとつとして、このトレーニングの必
要性を強く感じている。

 

(2)学校って、保護者が何するところ?

 

 今年から幼稚園の役員となり、初めて自分以外の親の気持ちや考え方を聞く機会
を多く持つようになった。かわいいさかりの幼稚園児の親は、何にでも一生懸命であ
り、積極的にものを言う。親の年齢差も以外と大きいことを知った。まだ10代の親から、
40
代のベテランの親まで、年齢の違いは如実に考え方の相違を生んでいく。だいた
い、話がまとまるには、若い親の意見を尊重するときで、ベテランの親は自分の意見
を控えて話さなくなる場合が多いことに気づく。若い親の考えでいつも心にひっかかる
のは園がなんとかするべきだという依存的な考え方である。お金を出して預けてい
るのだからしょうがないといわれるとそれまでだが、園に預けていれば、いい子にな
って帰ってくるような感覚である。よって次第に、園への要求は多くなり、子どもがトラ
ブルに遭うとヒステリックに抗議する親がいることを知った。きっと、これは全ての学校
の保護者においても言えるのではないだろうか。学校はサービス業だという考えが社
会に広まりつつある。この考え方が社会の定説になると、教師は自分の評価ばか
りに目を向け、保護者も我が子の人間的な成長よりも、自分にとって都合のよい子ど
も作りに奔走するようになる。

 公教育の中で、保護者が活躍するところというと運動会の準備のほかに無いのだろ
うか。学校って、保護者にとって何をするところなのだろう

 わたしに聞こえてきた日本のうめき声。人のつきあい方を教えて“”学校って保護者
が何するところ?この2点を新しい公教育のあり方を探す旅の中心に据えた。そして、
そのヒントになる実践をしている学校を探し、自分の目で見てみることにした。


3.先進地視察研修から

(1)対話を中心にする学校(新潟県長岡南中学校)


 長岡南中学校の今年の4月に退職なされた、平澤憲一校長先生と教師達の実践
は、中学校を改革する出発点がどこにあるかを示してくれる。この学校は2年間で不
登校の生徒を激減させ、教師と生徒、生徒と生徒が互いに心を開いて信頼関係を回
復し、地域の人々との信頼関係と協力関係を築き上げた実績を持っている。

 この改革の根底にあるものが、元校長である平澤氏による対話集会であった。これ
まで長きにわたって学校がおこなってきたのが、学から保護者への一方通行の言葉の
流れである。しかし、長岡南中で重要視したのが両者が互いの意見を聴き合う対話なの
である。そう、対話を支えものとは、互いに聴き合う関係である。実際に長岡南中を訪問
し、お話を聞いた中で、わたしが注目したのは、元校長先生自らが行ったという対話集
であった。最初は文化活動やスポーツで表彰される生徒へのインタビューという形式
で始まったようだが、会を追うごとに生徒達の日頃の悩みをテーマに話し合う場に深まっ
ている。対話というのは、自分の意見を主張する討論ではない。討論ではあまり重要視さ
れていない相手の話を聴くという活動が重要視される。この聴くという大切さ、それ自
体が人間関係作りで大変大切な行為なのである。現代の大人も子どもも欠けているのは、
まさにその聴いてあげるという行為であり、その結果、人間関係がギクシャクしたものに
なりやすい環境をつくりあげているのではないだろうか。現に、長岡南中学校の生徒達は
、この実践によって心を開いて受け止めてくれる人間の存在を知るようになり、のちに高橋 
一君という一人の生徒が「みんな違って、みんないい」と堂々と述べた作文「梅雨明け」が
『まじめで悪いか!』という映画化にもされるきっかけとなっている。また、この対話集会の
精神は、生徒だけでなくPTAの保護者の間にも広がっていき、それまで黙っていた保護者
の言葉が学校を改革する原動力となったことも教えてくれた。
 以後、長岡南中学校は、保護者による学習参加も積極的に進めて行く。社会の時間、老
人を教室に招いて戦争体験を聴いたり、親と子がパズルを通して正多角形を考えた数学の
授業。理科では、親子実験教室を開き、総合的な学習では地域の歴史を学び、最後には地
域の人々も入れた演劇まで完成させた。

 平澤校長先生がご退職なされた本年は、また新しい取り組みがなされていることをお聞き
したが、やはり学校を変えるには、強い信念を持った、強いリーダーシップを発揮するリーダ
ーの存在が不可欠であることを学んだ。長岡南中は、比較的大きな商業地域に位置し、古く
からの住宅が点在している。教育への地域住民の関心の高さもうまく作用したのだろう。しか
し、保護者が学習に参加することに対する否定的な意見をもつ保護者の存在もお聞きし、保
護者にとって学習参加に協力する意味は何なのか、わたしの胸に暗澹たる思いを抱かせたの
も事実である。
 新しい公教育への流れが見えてきたと同時に、どのように多くの人々にその流れを理解して
頂き、その考えが社会の本流となりえるようにするのか、大きな課題を抱かせた視察研修であ
った。

 

(2)学校は保護者も学びたい場。(神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小学校)

 

テキストボックス テスト期間ということで、お話を聞くだけだった長岡南中学
校の視察研修とは違い、この神奈川県茅ヶ崎市立浜之郷小
学校には、4日間滞在させていただくことをお願いした。

 ここは、東京大学教授である佐藤 学氏の考えに共感なさ
れた大瀬 敏昭現校長が、3年前に浜之郷小学校が開校す
るに先だって、佐藤教授に教育プランアドバイザーになってい
ただき全面的に佐藤教授の考え方が採用されている茅ヶ崎
市のパイロットスクールなのである。

 茅ヶ崎駅からは、バスと徒歩で35分くらいのところに位置し、市の観光課の人からはタクシー
で行くように勧められたが、敢えてバスと徒歩で慣れない土地を散策することにした。浜之郷小
学区に入ると、古くからの居住区域と開発のため田んぼを住宅地に変えた新興住宅地域の2分
化がされていることにはっきり気づく。番犬を飼っている家が多く、核家族の上共稼ぎの家庭が
多いことを伺わせる。近所の付き合いも、わが村のことを考えると希薄であることは疑う余地
がない。

 浜之郷小学校に入った火曜日は、
ちょうど音楽朝会のある日だった。毎
月担当の学年が15分間くらい、合奏
や合唱を全校生徒の前で発表すると
いうものであった。わたしも、どうぞと
いうことで体育館に案内されたが、驚
いたのは体育館いっぱいにカメラやビ
デオを構える保護者の数だった。わず
か15分くらいのこの活動のために、多くの保護者が時間休をとっ
て来校している。教頭先生は別段普段の通りというお話しでわたしの驚きを不思議がっていたよ
うだが、保護者がどうしてこんなに気軽に学校に来校できるのか、わたしにとってはショックだった。
朝会が終わると、早速勤務に向かう保護者、学校をおしゃべりしながら楽しそうに巡回している
保護者と様々であるが、とにかく常に学校にはいろいろな大人がいる。これは、日常も数は多く
はないが、そんな雰囲気がある。確かに防犯においては、やや眉をひそめる方もいるかもしれない
が、保護者にとって学校は、子の成長をいつでも確認できる場であり、井戸端会議の場でもあるよう
だ。やれ授業参観だ、PTA総会だ、通知表配布だというように、学校からコントロールされて来校す
る保護者の姿はそこにはない。そもそもこの学校には、PTAという組織がない。この組織があるとP
TA
の役員ばかりが学校に来校し、それ以外の保護者は役員任せという図式になりやすいものだと
いうことで、この学校には無いということであったが、確かに、来校する保護者の表情はいい。や
はり、自らの意思で来校しているのだからそうなるのかもしれないと感じた。

 学習参加も浜之郷では、学校改革の柱にしている。しかし、学習参加
はあくまでも授業改革の一つの手段という考えであり、全教員へ必ず保
護者を参加させた授業をするようにという拘束はされていない。だから、
違う方法で授業改革しようと考えている教員はそれでもいいのである。よ
り個性的で、より柔軟な発想を繰り広げる組織体は、ひとつの枠に押し込
めない方がいい。ここ浜之郷小学校の先生方と付き合うと、本当に個性的
な人が多いし、みんな自分なりの教育持論をしっかりもっている。時に妥協
しないほどの意見の対立も見られたが、これが組織のエネルギーとしてと
ても大切なことと感じた。
そんな中でも学習参加の授業を見学させていただいた。小学1年生では、
保護者と一緒に童謡を合唱する授業があった。参加しているお母さん達の表情は明るく、楽しん
でいるのがわかる。ふと、学校は保護者にとっても学ぶ場になるのではないかという思いにな
った。子どものために参加した保護者も、帰る頃には歌う喜びでいっぱいになっていることだろう。

 学級のグループごとに町にでてお買い物をする授業にも、保護者が各班
のお世話役として参加していた。担任との事前の準備など、やはり保護者
への負担が大きい。ただ、自分の子ども以外の子どもとの対話などは、自
分の子どもを客観的に見る新しい目として大切なことだと知った。この点
を参加した保護者も実感するといいのであるが。





 歯磨き指導では、校医である歯科医のほかに、茅ヶ崎市の複数の歯科医
が協力して子どもの指導を行っていた。休診の日に、学校に来てボランテイア
する医者の姿は、やはり都市の進んでいるといわれる所以であろうか。時間
におくれても次々入ってきて授業に参加している保護者の姿も印象的である。

 実は、この学校からはその他にも、授業改革についても多く学んだのである
が、このレポートのテーマを一貫させるために、それは別の機会や校内の研
修でご報告することにして、これからの公教育の流れということでまとめてみる。

 浜之郷小学校は、決して教育環境の整った地域に存在してはいない。むしろ、地域や家庭の教育
力が期待できない面の方が多い。児童も、授業中歩き回る児童もいるし、挨拶をできない児童も多
くいる。しかし、だからこそ、ここで行なっている教育改革が今後の公教育の流れの指針となるものが
多い。学校とは、子どもにとってだけでなく、保護者にとっても学ぶ場になっていくのでは?これが、
わたしがこの学校から得た最終的な結論である。

4.新たなる実践へ



 今回の研修の機会を通して、これまでの教師としての自分、としての自分のあり様を振り
返る時間を持つことができた。そして、振り返ることで次に進むべき、実践への足がかりをつかん
だような気がする。まだまだ、未熟であるがその小さな1歩を踏み出してみた。一つは、これまで
行ってきた子どもにではなく、保護者の人間関係作りに挑戦したこと。またもう一つは、学校は
にとっても学ぶ場であるというきっかけ作りである。以下に、それらのつたない実践の様子につい
て記す。

 

(1)幼稚園における父母の会交流会



 先に述べた通り、わたしの子供は今幼稚園児である。したがって幼稚園に行って保護者の様
子を見る機会が年々増えていっているのであるが、幼稚園に行くとわかる。一見、お母さん方は
楽しそうにお話をしているのだが、いつも同じメンバーで固まっていることに。この硬くて狭い関
係が、子供にも与える影響が大きいのではないだろうか。そこで、毎年行っている、親子行事の
中に人間関係トレーニングを利用して、親同士の交流場面を設定しておこなってみた。例年、縁
日形式で行なっている行事を変えて、前半は親と子の体験活動を、後半はたくさんの親どうし
が子を媒介にして交わっていく活動を仕組んでいった。次は、後半の親どうしの交流場面で行なっ
たプログラムである。

@[動物あてクイズ] 雰囲気を和らげる。
A
[サイン集め]子ども(園児)が周りの大人からサインをもらう。もらうときは、自分の名前を言
ってあいさつしてからもらうことを約束にする。
B
[ロープ送り]長テーブルに座っている人達を1つのグループとし、すずらんテープを輪にした
ものをグループごとに配り、結び目を何秒で
一周させることができるか競争する。
C
[グループジャンケン]先ほどのグループで行なう。あと出しジャンケンの練習のあと、グルー
プで行う。グーは全員座る。パーは全員立
つ。チョキ2人立つ。このようなルールのもとに行なう。
D
[インパルス]1列にならんで握手する。先頭の人からギュット握って、最後の人がいったら、挙
手する。タイムで競争してもらった。

以後省略。詳しくはここをクリックしてください。

 わずか半日の行事で、何も変わることはないかもしれない。しかし、このような行事の工夫
で保護者どうしの交流が図られるのではないであろうか。この行事自体は大変好評で、集まっ
た保護者の方々は来年もしてみたいという意見が多かった。実は、保護者どうし、もっと幅
広くたくさんの保護者と交流してみたいという気持ちがあるのだなあと受け取ることができた。
でも、それがなかなかできない現代社会の病理がそこにある。わたしたち教師は、時に地域
社会の中でリーダーシップを発揮して、このような交流場面を作る活動をプロデュースするこ
とが必要なのかもしれない。

 


(2)夜間教室の実践



新しい公教育の流れのひとつに、子供だけでなく、親も学校を利用して学ぶ場であるという
認識の定着があることは前述した。先進地視察研修では、学習参加という新しい試みを行なっ
ている小中学校をみてまわった。確かにこの試み自体は、とてもすばらしいものだ。しかし、そ
んなに簡単に親を授業に参加させることができるのだろうか?という疑問もわたしは感じた。

 授業を変える試みとして行なっている浜之郷小学校でも、年に数回あればいい程度である。
しかし、わたしがこの研修で旅し求めている、これからの公教育の流れという点でみつけたもの
は、授業改革の助けとして親を学校に招き入れるのではない。学校は子供だけが学ぶ場では
なく、親も学ぶ場であってもいいのではないかという考えである。

 そこで、視察研修から帰ってきて、実際にわたしの担任する学年で、親の対象による夜間教
室を開催した。週に1度の3回講座。ただし、ここでは条件をつけた。それは、参加する親は必
ず自分の子供も連れてくるとういうことである。今回は、技術の授業でコンピュータの操作法につ
いての夜間教室を企画したのだが、子どもにスモールテイチャーになってもろおうと考えたためだ
った。そしてもうひとつポイントがある。絶対に子供は自分の親以外の先生になるということだ。
他の子供と接することによって、我が子を同年代の別の子供を通して客観的に見る場をもたせ
ようとする考えからだった。

 

詳しくは、ここをクリックしてください。

 夜間教室への参加は、クラスの3分の2程度であったが、どの親も楽しんで参加してくれた。
3回目などは、時間より早く来校して、前回の復習をする保護者もいた。子どもの方も、自分
の保護者には照れて乱暴な言葉をはくことがあっても、他の保護者には先生として丁寧に対
応できるようになった。

 「へーこんなことを今中学校で勉強しているの?」と感嘆する保護者。「○○ちゃんはしっかり
しているね。」と我が子の友人の良さに気づく保護者。そして「講座の回数が短くてもっと長くして
欲しい。」と希望をいう保護者がでてきた。農繁期には忙しく日常的に学校に協力しにくい農村部
の多い山形県だからこそ、親が先生として授業に参加してもらう学習参加よりも、親も生徒となっ
て学んでいく夜間教室のような学校を利用するシステムこそが似合っていると感じている。公教育
が社会に貢献するひとつのあるべき方法だと考えている。

 ただ、夜間行なうということは、教師の仕事にとっては無償のボランテイアである。しかし、ボラン
テイア精神がない教員には、教育改革はできないものだろう。また、現代は親と子の交流がなさ
れることが、安定した学校生活にもかかせない要素である。これからの公教育は、「そこまでや
るの?」といわれてもやらなくてはならない辛さも抱えている。

 

5.研修を終えて



 この研修を通して、新しい公教育への流れをみつける旅をさせていただいた。その結果、これ
からの公教育が社会に貢献するものに、人間関係を築くトレーニングの提供と、保護者自身が
学ぶ学校としての企画づくりがあるという考えに至った。

 教師や学校は、目の前にいる子どもだけでなく、地域や保護者への教育の機会を提供するこ
とになるというのが自分の結論である。しかし、これはあくまでも職務としてではなく、教師一人ひ
とりのボランテイア精神に委ねることになるだろう。教師の仕事の範囲は、教師自身によって、
自己決定していくのはこれまでもそうであった。しかし、今後はより一層、社会の中で教師がどの
ような活動を行なっていくのかが問われているのだろう。世間知らずとののしられることの多いこ
の仕事だが、積極的に社会に地域に入ってリーダーシップを発揮している方々の存在も忘れ
てはならない。

 「地域や家庭の教育力が低下している昨今、学校教育だけはまだましではないか?だったら、
あらゆることを学校で行なっていった方が楽なんだ。」とわたしに語った浜之郷小学校の大瀬校
長の言葉が身にしみる。

 わたしの考えはまだまだ頼りない。多くの人の批判に耐えながら信頼を得ていくものなのだろう。
そこで、インターネット上にわたしのホームページとして掲載することにしました。

6.最後に

 

生まれたての赤ちゃんは、出産後つまり対外に出た瞬間に肺呼吸をする。肺呼吸に変わる瞬間
が「オギャー」というわけだ。このオギャーについて好きな話がある。

 赤ちゃんが「オギャー」と発声した瞬間、外の空気が肺の中へ入っていく。そして二呼吸目のた
めにいったん外へ出ていくのだが、その問題のひと呼吸目の空気のうち、数パーセントが肺胞の
奥に、一生残っているという話だ。専門家から聞いたわけでなく、誰かからの又聞きなため、
その真偽はわからない。でも、好きな話だ。

 人間誰にだって生まれ育った故郷の空気を一生体内に持って生きている。わたしの体の中に
は、生まれた年の故郷の空気が残っているわけだ。

 教育は、何か改革したからといってすぐに変わるものではない。わたしがこのレポートで述べた、
新しい公教育の流れが社会の本流となったとしても、17歳の犯罪や我が子を殺す親の犯行の数
はなくならないだろう。しかし、幼い時から10代の多感な時までに、与えられた教育は、まるで好き
な話の空気のように一生残るものだと考えたい。
人間の一生の中で学校教育がなすことはほんのわずかにすぎない。で
も、そのわずかなことでも、その人の一生に残るものであるならば、すごく
恐ろしくもあり、素敵なことでもある。

教師の仕事は、今に作用するのではなく、その子の未来の中に作用
し続けるそんな仕事でありたい。

そして教師として、それができるプロでありたい。

 

 


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