もうひとつの
1学年だより 9
いよいよ明日は運動会です。ここ数日は、学校は運動会一色。新庄祭りの疲れと運動会練習の疲れが重なって体調を崩す生徒も見られ始めました。健康には十分注意させてください。再来週は、1学期末テストが実施されます。中間テストと違って、期末は8教科となります。そして、地区新人大会。怒涛の9月突入です。
たまたま高校生の現状を、○○高校の先生からお聞きしました。休み時間など携帯電話で遊んでいる生徒のこと。電車内での喫煙の状況のこと。先生が話す、数字やパーセントなどで、胸がいっぱいになります。
「プチ家出って知ってます?」と、その先生。プチトマトなら知っているけど、どういうことなのでしょう。「プチ家出というのは、家で面白くないことがあると、ちょっと2.3日、友人宅へ泊まることなんですよ。」これが、今流行ってきているんです。
そんな高校生と付き合っている先生に同情するのです。
善と悪のはざまU
善でもない、悪でもない、その善と悪のはざまってあると思いますか?
いきなりの質問ですが、世の中には善と悪と、はっきりさせなくてはいけないものはたくさんあります。
他人の命を奪う…悪。法律を守る…善。弱きを助ける…善。約束を破る…悪。 などなど。
こんな風に、人間として善と悪の判断をはっきりさせなくてはならないものがあります。しかし、世の中を見渡すと、善と悪の判断が鈍っているのでは?と思われるようなニュースが新聞やテレビで報道されますね。友人を殺し首を切断する小学生。覚せい剤を投与している中学生。お金欲しさに仲間をゆする未成年者。…。
まったく、これらの事件は、人として生きるのに必要な最低限の判断力すら持っていないことになります。しかし、このように根本的に善と悪の判断がつかない人間、特に小中学生なんていうのは、国内でもほんの一握りにしかすぎないのです。
1年生には、このような善と悪の判断がつかない生徒は、いないと確信しています。
ただ、善と悪のはざまは、わかりませんね。
生活指導などの会議でも、話題になるのがこの“はざま”っていうものなんであります。
“善と悪のはざま”これが難しいんです。児童、生徒が言う、「誰にも迷惑かけでね。なんで悪りなや!」というやつなんです。
今のどこの小・中・高の学校でも抱えている問題なんです。
以前勤務したある学校での一例を挙げてみましょう。
ある生徒が、腹痛で午後の授業を早退するんです。本当にお腹が痛いんですよ。家で休むように言って帰すんです。ところが、放課後その生徒が自転車通でもないのに、自転車で、そして、私服で再び登校してグランドで遊んでいるんです。
生徒に注意すると、生徒の方は何が悪いんだかさっぱりわからないんです。
確かに、家で休んでいて、お腹は治ったんだ。一度家に帰ったんだから、私服だっていいんじゃないか。自転車だって、一度家に帰ったんだからいいんじゃないか、何が悪いんだ!
これが、生徒の言い分です。
善と悪の『はざま』っていうのが、こういう部分のことを指すんです。
生徒の言い分もわかります。それでもですね、一度腹痛で授業を休んで帰った生徒が、治ったからといって私服で学校にくるのはおかしいんですね。やっぱりおかしいんです。こういうのは、もう理屈ではなく、おかしいなと思う感覚みたいなやつなんです。言葉を探すと良識とかマナーというものになるんでしょうか。
靴下の規約が子ども達の手で改正されました。今流行りの短いソックスでも良いことになりました。本来は、長くても短くてもいいのです。ただ、自由という言葉は、生徒にとって“デタラメ”に置き換えられることが多いのです。生徒が学校生活にふさわしい服装とは何か、自由と規制の“はざま”の部分を感覚的に判断できるようになること、それが大切なのです。
連休などで友人同士楽しむことは善です。しかし、未成年で夜遅くまで遊んでいることや外泊することは、本当に必要なのでしょうか。これも、感覚みたいなものです。
善と悪のはざまの問題、これを子供の『自由』な判断に任せることで、本当に大丈夫なのでしょうか。
今の時代、この理屈じゃなく、この感覚みたいなものが崩れているのが恐いのです。
プチ家出なんて、かわいい言葉でごまかしても、家出は家出です。
“しつけや教育について、悩みはありますか?”という質問に、わが国の父親の過半数は「特にありません」と答えるそうです。ある国際比較調査によれば、1日に子どもと接する時間は、わが国では、父親が30分くらい、母親が1時間くらいが一番多く、それぞれ23%占めています。朝は子どもが登校する前に出社し、夕方は残業もして遅く帰宅する毎日を考えると、当然かもしれません。母親の4割強が「父親には、仕事に専念して欲しい。」という意識調査結果もあります。 アメリカの父親の平均接触時間は1日3時間がもっとも多くなっていますが、もし逆にわが国がこういう状況になったら父親はどうするだろうと自分も含めて疑問になってしまいます。きっと時間を持て余すのでしょうね。 “1日30分”ではいかにも短かすぎますが、問題は時間の長さではないように思います。本当に親の心が子どもに向き合って何かを語りかける意識をもっているのかどうか。子どもの悩みを読み取ろうとする気持ちが少しでもあるのかどうかが大事なのです。「わが子」を前に立派な言葉なんていりません。学校での子どもの様子や交友関係など、何気ない言葉の掛け合いから子どもの本当の姿を見たら、大半の親は、「特になし」なんて言っていられなくなります。 |
上記の文は、私の尊敬する佐藤校長先生が出されていた、“校長室だよりの一文です”もう10年近く前の文章ですが、この文意が伝えるものは、今も同じです。いや、あの頃より、ますます日本社会には余裕がなくなってきている感があります。
“はざま”の問題は、子どもに大人が真剣に語っていないことが根源だと思います。
真夜中の、ムカデの自主練習。
短パンをずり下げて、下着を見せたがる男子の着こなし。下着をつけない女子への指導。
今日も学校は、この“はざま”の中で、揺れ動くのです。
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