もうひとつの

1学年だより 8

 

演劇鑑賞教室を行いました。今年の演劇は、劇団マグネット・ワールドによる『地雷探知犬ニーナ』です。

演劇教室の担当でもあるわたしは、ステージの側で、劇団員である若者達の様子を伺っていました。地雷を踏んで命を失う場面を演じて、舞台の袖にやってくる彼らの顔には、みんな涙が光っていました。それだけ、思いを込めて演技しているのでしょう。その迫力たるや、舞台袖にいるわたしは、終始圧倒されっぱなしです。学校までの帰り道では、生徒同士が「泣いたか?」「おめ、泣いてだべ」なんて、涙を流したことを恥ずかしがっている会話をしています。それだけ、生徒達にとっても、心に残る演劇だったようです。こんな涙は、これからもたくさん流させたいものです。

 

 

 わたしは、生まれも育ちも庄内の酒田で、今は、縁があってこの最上に住んでいます。当時わたしの通った小学校は県で1番に児童数の多い学校でした。学校が終わると玄関にかばんを投げっぱなしにして、再び登校します。毎日、学校のグランドで草野球をするのが日課でした。あまり熱が入ると、遅くまで遊ぶのがしばしばで、次の日、先生から、罰として職員室前廊下に正座させられるんです。そんな少年時代でした。だから、当時の草野球仲間はいっぱいいるんですが、今となっての交流は、ほとんどありません。たまに教え子達が、同級会をするのを見るにつけ、羨ましく思ったりするのです。そんな時でした、先日、小学校のその頃の友人から久しぶりの手紙が届いたのです。

 実は、その友人は、小児麻痺で片足が不自由な少年でした。時折、それが理由でいじめられたりしてたものですから、小学校5年でいっしょの学級になったとき、担任の先生は、片足が不自由な彼のため、体を動かす以外の遊びをするように、草野球好きのわたし達に話をするんです。

 そんな彼からの手紙だったもので、懐かしさのあまり、古いアルバムを探そうと、家の倉庫をあさっていたら、数年前にある方から紹介された生徒作文を見つけました。その作文の題名は「友達」、タイミングの良さのあまり、冷たいコンクリートの倉庫の中で、一人読みふけてしまいましたよ。

「友達」

 わたしは小学校4年生の時に忘れることのできない貴重な出会いをしました。

それは「なっちゃん」という一人の女の子でした。

 彼女は、授業中に急に大声をあげたり外に出ていってしまったりと、わたしは、とても変わった子だなと思っていました。席替えでたまたま私の隣になった時。先生は私に迷惑をかけるかもしれないけれどとか特殊学級に行くかもしれないとか言っておられました。正直言って私はとても嫌でした。授業中に絵を描いたり歌を口ずさんでいるなっちゃんに困っていました。思い切ってなっちゃんに話しかけると笑ったり、注意すると怒ったりと、なっちゃんは私に応えてくれました。そして、だんだんと彼女のことが好きになってきました。

 しかし、授業中のことは気になっていたので、私は2〜3ヶ月くらいで終わる問題集をなっちゃんに作ってあげようと思ったのです。私達と同じ問題集ではなく、1年生の算数や漢字の練習、彼女の好きな絵を描くページも作りました。最初は嫌がってやってくれませんでした。そして周りからなっちゃんのことで私は文句を言われたりと、八方ふさがりのような状況になったのです。なっちゃんのことをひどくいう人に対しては私は腹が立ちました。心の優しいなっちゃんです。勉強はちょっと苦手でも、きれいなものはきれい、うれしいことや楽しいことに心から喜ぶなっちゃんにひどいことを言うなんて、私はとても悲しくなりました。でも、私は、根気よくなっちゃんに勉強を進めました。そして1ページ終わるごとに、必ず「書いて」と私に絵をねだるのです。私は一緒に描きました。描いているうちに周りに輪ができ、問題を教え合うほどになったのです。

 私が作った問題集の最後のページがやってきた時、やり抜いた満足感が、不思議と私の中に広がったのです。次の日、なっちゃんのお母さんが問題集を手に私に会いたいと学校に来てくださいました。そして、私の手を握り涙を流しながらどぎれとぎれに「ありがとう。」とおっしゃってくださったのです。問題集の最後のページにお母さんの言葉が書いてありました。それは次のような言葉です。

 「夏希はだれよりも幸せです。夏希、このときのがんばりを忘れるな」と。私は思いっきり泣きました。母に話すと、母もボロボロと涙を流していました。

 私の父は、自衛官であり、覚悟はしていたのですが転校が決まりました。転校する最後の日、なっちゃんは私の手を握ったまま離しませんでした。私が「バイバイ」と言っても、まるで小さい子供のように首を振り、きつく手をつかんでいるのです。そして、ボロボロと涙を流すのです。私はあれほど純粋な涙を見たことがありませんでした。あの時、最も心がつながったと思います。なっちゃんは、かけがえのない私の友達なのです。

 私達は、いろいろな人と出会うことで気持ちや心が変わっていきますが、私はなっちゃんとの出会いで彼女を囲んだ人の輪ができ心の交流があったと確信しています。出会いから別れ、ほんの短い日々でしたが、私の考えが変わった大きな転機です。教えるよりも、なっちゃんから教えられたことの方が数倍も多かったように思います。

宮城県  WC

 


 この作文に出てくる大人は、先生を除けば、なっちゃんの母親と“わたし”の母親の2人です。お二人とも、それぞれに自分の子の行為に対する素直な喜びや感動を持っているのがすごいですね。わざわざ礼を言いに学校に来るなんてできないですよ。それでも、子供と同じ世界に入って、感動できる親。だから、少々知能が遅れ気味だって、なっちゃんはとっても素直に育っているし、それを無償の愛で支えた“わたし”みたいな子どもも存在してくるんだなあ。変に納得してしまいます。

 

 純粋な作文に、なんだか心が洗われるようです。作文を読み終えたとき、手紙の旧友とのエピソードもついでに思い出しました。

 ある日、夜遅くまで学校のグランドで野球をしていた私たちのもとに、血相な顔つきで担任の先生がやってきたんです。「ああやばい。殴られるな。」と思ったその時です。担任の先生は、私たちの野球風景を見て、黙って帰っていったんですね。後で、聞いたんですが、先生にとって、その光景はショックだったんだそうです。  

なぜかって、わたし達はですね、足の悪い彼も交えて、野球をしていだんです。ルールは、彼が打席に入ってボールを打ったら、別の子供が代りになって走る、ただそれだけだったんですが…。

 案の定、次の日、遅くまで遊んでいたということで、職員室前廊下に全員正座です。

 

いつもと違っていたのは先生が、泣きながら叱っていたことです。

 

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