もうひとつの
1学年だより 16
いよいよ平成17年度も、最後となりました。本年度1年間、保護者の皆様からの温かいご支援のおかげで、無事に終えることができましたこと、感謝申し上げます。今日は、たくさんのたよりやプリントが、ご家庭に渡されているので、このたよりは、その中に埋もれてしまうかもしれませんね。
時間が空いたらで構いませんので、1度は目を通してください。
記憶のかなたの自分
最後の通信となりました。思いつくまま、不定期に発行して参りました。
学校にいると、当たり前ですが、さまざまな子どもと出会います。時に、どうしてこんなことを考えるのだろうとか、自分とは違う価値観の子どもへの対応に苦しみます。でも、大人になった今の自分の目で見るのと、記憶のかなたにある、生徒と同じ年代の時の自分の目で見るのとでは、全然違うように感じます。
何かと言うと、怒られる自分でした。小学校高学年の頃は。遠足なんか、あんまり言うこと聞かないからと、担任の先生は、わたし一人、列から離れて、一人で来るようにと言われて、とぼとぼ遠足に参加したこともあります。
自分でもわからなかった。とにかく、押さえがたい衝動を押さえきれずに、とにかく、暴れていましたね。
でも反面、自分でも、人と違うんじゃないかっていう恐怖もでてきて、以来、なぜか便所のスリッパを、並べる癖ができました。誰から言われたことでなく、自分から始めたのです。なぜ、スリッパかは、今でもなぞ。スリッパを揃えることで、自分は無事に一日過ごせるのだという暗示みたいなことが心に芽生えてしまいました。いったんそれが芽生えてしまうと、今、スリッパがちゃんと揃っているかどうか、不安で不安でたまりません。揃っていないと、自分にとって何かよくないことが起きてしまうと、本気になって思えたのです。1時間に1回は、用もないのにトイレに行くようになってしまいました。その行動に気づいた、兄貴なんか、面白がって、スリッパを隠すんです。そうすると、恐怖心が、ますます増加しました。
はるか記憶の中にいる小学校5〜6年の自分は、そんな、恐怖心と戦っていた自分でした。
小5になった、我が子と、スーパーに買い物に行きます。これまで通りに、手をつなごうとすると、拒否。
「僕、今、思春期だから!」と、きっぱり。これまでの、何でも親の言うことを聞いていた時代との違いに、親もどぎまぎしてしまうのです。
と、思うと、先日は、家で、ひとり、部屋でうつむいている我が子がいます。「どうしたの?」って聞くと。
「家族がもし、死んでいなくなったら、僕、どうしたいいんだろう?」と、泣きじゃくっています。
「そんなこと、考えなくっていいべや」と、父である私。それでも、子どもは納得しません。
本校は、大変恵まれていて、スクールカウンセラーの先生が、定期的に来校しています。昨日もスクールカウンセラーの五十嵐先生が来校なさっている日でした。放課後、一息ついている先生との雑談の中で、思い切って、我が子について様子をお尋ねしました。
「ユングっていう心理学者は、この時期を、“親殺し”って言っています。親を殺したいとか、親を否定したいという衝動にかられたり、それと同時に、親に対して、そう思ってしまう自分が許せなかったり、心と身体のバランスが大きく崩れるのですね。
大きな不安を抱えていて、その言葉ひとつひとつが核心ではないのです。抱えきれない不安が、どんどん出てしまうんです。人との違いを恐れるのも、この時期にありますね。例えば、脇の下に毛が生えてきた友人と、生えていない自分と比べて、自分は異常なんだと、悩みこむのです。自分だけ病気なんだと思ったり。」
なるほど、思い出すとうなずくことが、ほとんどです。
考えてみると、中学時代は、もっともっと、心と体のバランスが取れなくなる時代です。どの人間にとっても、混沌としている時期ですね。今まで正しいと思っていた自分なりの尺度ですら、自信が持てなくなる。ニュースで流れている、汚い事件、弱いものが苦しむ姿、頭を下げてあやまる大人達。それを目にし、耳にしながら、増加する大人への不信感。そして、大人は、汚いものだと感じる感覚。
そんな時代の波が、中学時代に押し寄せてくるのです。
保護者として、どんなことをしてあげるといいのでしょう。それを考えると、ため息ですね。
でも、そんなことに悩む時代は、現代の中学生ばかり抱えている命題なのでしょうか。
大人である、我々の中学時代は、本当に、明るく元気で、楽しい時代だったのでしょうか。
きっと、それは、違います。
大人である我々も、思い返すと、苦しい自分探しの時代だったでしょう。
友に裏切られたり、裏切ったり、不正な出来事に出会ったり、不正なことをしたり、異性を気にする自分と、異性から気に入られたい自分との出会いだったり・・・。
テレビでは“今どきの子ども・・・”と、言いますが、私たちも、そんな立派な子どもではなかった。
同じなんです。
今、我が子が抱えている悩みも、記憶のかなたまで行って思い返すと、同じ悩みを抱えていた自分がいるのです。
わたしは、大人として対応する目も大事ですが、記憶のかなたにいる、あの日の自分の目で、我が子を見ることは、もっと大切なんだと思います。
「親として、どうしたらいいのでしょう?」と、カウンセラーの五十嵐先生に聞きます。
「親もそうだったって、言うんですよ。」と、五十嵐先生。
この短い言葉に、“はっ”としましたね。
どうして、あの時、わたしは、『そんなこと考えるな』と言ってしまったのだろうかと。
あの時、わたしが投げかけるべき言葉は、
「父さんも、そんな時代があったよ。」その一言だったはずです。
「父さんの場合は、便所のスリッパの時代だったよ。」って。
かっこ悪いけど、子どもはその言葉を求めていたんです。
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1年間読んでいただき、ありがとうございました。