新しい日本的教育への指針

 

アメリカへの海外研修を終えて、アメリカを旅をして、アメリカの教育から世界の教育の流れを感じて、私は、日本の教育が進むべき道をはっきりと見たように思います。このページでは、日本が進むべき新しい教育に向けて、その土台を、根っこの部分をどうしなくてはならないのか、感想を述べたいと思います。

これは、決してアメリカの真似ではなく、日本が日本らしい教育を展開するための土台づくりです。世界に誇れる、新しい教育のはじまりです。

 

☆日本の子どもをどう育てたいかその社会的理念を作らないといけない。

社会的理念は、学校教育ではできません。やはり、政治家の資質に委ねるところが多分に大きいのです。将来のビジョンを持った、自己利益を省みない、人間的にも豊かな、素晴らしい政治家の登場を夢見る必要があります。ただ、知っていて欲しいことは、今なぜ日本社会が、大人にも若年層にも息苦しい社会になってしまったかというと、簡単に言うと「○○のために」という点がなくなってしまったからです。この仕事は、何のためにしているのか?戦後50年で見失ってしまったのです。これまで通りに仕事をこなせばよいというのが終わりをとげたのです。そして、新しい発想と想像力を発揮させながら、「○○のために」やっているのか、もう一度原点に返る時代に突入したのです。

 アメリカに行ってみて、効率的というのは、決して“血が通わないこと”ではないということがわかりました。私たちは、とかく教育で効率的というと、“冷たい、冷めた競争主義“をイメージしがちです。私もそうでした。でも、それは、日本的な”効率的教育“だったんです。

 「何のために」と答えられない活動を無理やりおしつけることが、日本の教育に多すぎます。「大きな声で発言しなさい。」「手をあげて立って答えなさい。」「茶髪はいけません。」「自学をしなさい」生徒指導、進路指導、そして学習指導において、「何のために」

と聞かれたら、答えられないものが多すぎます。そして、そればかり教師は意識しすぎています。

決して、子どもを放任しろというのではありません。「茶髪がだめならだめでいいのです。」ただし、そうすることで子どもをどう育てたいのかという理念が無いのです。

 これは、社会全体の問題です。日本という国は、子ども達をどう育て、どんな力をつけさせなくてはならないのか、一つの理念を作らなくてはなりません。

 一つ言えることは、基礎力を暗記させたところで、明るい未来はみえてこないということです。日本という国は、基礎力だけで働く仕事は、ほとんど外国に取られて無くなってしまったのです。豊かな発想と想像力を発揮する労働者を社会が求め始めているのです。子ども達をどう育てるかのポイントは、まさにここの部分にかかるのです。

 それでも、「基礎力がなくては発想も出ないだろうといわれる方もいるでしょう。」その通りです。でも、そういう方に言いたいのは、これまでの日本的教育が行ってきたように、基礎力は、階段のように積み重なるという考えは違うということです。

 例えば、新しい指導要領で無くなった台形の面積の式。これまでは、長方形の面積、三角形の面積と基礎を積み重ねて最後に台形(多角形)の面積でした。でも、これでは新しい日本的教育ではいけないということです。これからは、いきなり台形の面積を求めさせるのです。台形の面積を、様々な発想から求めさせながら、基礎となる長方形や三角形の面積の式を学んでいく。基礎は、上から引っ張られながら形成されるという考え方の転換なのです。

 

☆学習はキャリアアップ

学習は、自分のキャリアをアップさせるという、社会的雰囲気が必要です。すなわち、豊かな人生を送るための道具が“学び”なんだということです。高校で最近行われ始めた、インターンもただの見学ではいけません。実際に仕事場に出てみて、自分は何のキャリアが必要なのか感じさせないといけないのです。そして、そのキャリアを高校に戻って、または大学に入って身に付けるのです。日本は若者の社会参加の時期が、確実に遅くなっていきます。だから、社会参加するために、どんなキャリアを積むのか、見えるようなことが必要であり、これが高校生の学びを支える土台となるのです。

それでは、義務教育の小・中学生は?というと、親の幸せさが、キャリアを積もうと思わせるかぎとなります。親自身が、人生の深みのある幸せな生活を子どもに見せる必要があるのです。今の多くの日本の親が行っている、「我が子のために・・・。」からの脱却です。親自身が幸せを探さなくてはなりません。「せめて、お前だけ幸せになれ。」ではいけないのです。

 親が深みのある人生を生きていることで、子どもは、学ぶことの目標を得るのです。だから親の幸せも、ただパチンコ、ゴルフだけの娯楽に走る単純なものではなく、親自身が学ぶことで得られる幸せです。英会話でもいい。どこかの講演会への参加でもいい。芸術でもいい。そういうことです。

 また、学校は、親を積極的に学習に参加させる機会をつくることが、公的サービスの新しい一つになります。子どもがいたことで、楽しみのある人生が送れたと思ってもらうような活動の提供です。遠足の弁当。弁当を作るという家庭は、アメリカにはほとんどありません。弁当を作るという作業自体、日本的でとっても素晴らしいことです。そして、このことを一つ例にとってみても、これからは、弁当を作ることが大切だと親は思うのではなく、弁当を開ける時の子どもの笑顔を見たいと思うことの方が大切なのです。そして、そんな気持ちで、子どもを通して親が親自身の人生を豊かにするために、学校に参加するようになると、新しい日本的教育の形が完成していくのでしょう。

 

☆弱さを出させ、人に頼らせ、不平等の平等主義へ

日本のこれまでの教育を支えたのが、自主勉強であり、平等主義です。

 自立よりも依存を、主張よりも他との違いを確認できる力を、十分教えることが家庭でも、学校でも社会でも必要です。平等というのは、本当は誰でも同じことをすることではないのです。本当の平等は、ひとり一人に違ったアドバイスやチャンスを与えることです。平等という言葉でだまされた不平等主義。いじめや不登校など、数々の問題を発生させているのは、この間違った平等主義です。それならば、これまでの教育界では不平等と捉てきたたものの中にある本当の平等主義、それらへの転換が必要なのではないでしょうか。

 

 

世界の教育の流れと日本の教育の流れは、大きく開いてしまいました。それでも、新しい日本的教育の形成は、学校の現場の教師ががんばらないといけません。これは、ある時は、ボランテイアになるかもしれません。それでも、教師を志した気持ち、教師になろうと思った気持ちの原点に帰れば、きっとわかるはずです。

 各市、町、村の教育委員会へ権限が委譲する地方分権化は、今後必ず進みます。その時、新しい教育の姿を知っておかないと、地方ごとに教育の格差が起きてしまいます。

 現場の多くの教員の人たちと、知恵を出し合って考えていきたいものです。

 

研修中、団員の質問の中に、学習意欲が低い児童・生徒への対応をどうしているのかという質問がありました。この研修をプロデユ−スしてくれた、元校長のゲイラーさんがこう答えたのが印象的です。

「いかに子どもの心に火花をつけるかが問題であり、それができるのがプロ教師なのです。」

 私ははっとして以前、同じような言葉を聞いたことを思い出しました。       

凡庸な教師は、よくしゃべる。

よい教師は、説明をして納得させようとする。

優れた教師は、自らやってみせる。

偉大な教師は、心に火をつける

                                                                                                                     (ウイリアム・アーサー・ワード)

アメリカで行っていることは、世界の教師の向かうべき明日であると実感したのです。

さあ、心に火をつける教師になりましょう。

 

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